五年ぶりに『狩りの時代』を読み直しながら、私は津島佑子さんの新作を読んでいるという錯覚に陥っていた。二〇一六年に亡くなった津島さんは、黒人差別への抗議活動「ブラック・ライブズ・マター」の広まりも、コロナ禍も、それにともなうアジア人差別の激化も知らないはずなのに、まるでそれらの深層を探って書いているかのようなのだ。そして私は、この再読を通して、現在に起きていることの正体を理解した。
読んでいる間じゅう、私の頭を離れなかったのは、コロナ禍が始まってからの自分の生き延び方だった。
この異常な毎日にあって私の正気を支えていたものの一つが、二〇一九年に見た、ギリシャの振付師・演出家、ディミトリス・パパイオアヌーの舞台作品だった。
見る人を陶酔させるその美しさは、演じるダンサーたちがすべて、若く彫刻のようなボディを持つギリシャの白人であることによって、表されていた。感染の恐怖、監禁のような自粛生活の八方塞がりの中で、私は幾度も、夢の時間のようなあの舞台の記憶に逃げ込んだ。そうして束の間、現実を忘れることができた。
同時に、解きほぐせないやましさにも、がんじがらめにされていた。白人だけで構成されるその美しさは、古代ギリシャ文化の延長としてのヨーロッパの美の概念であり、そこからはアジア人種の私は排除されている。にもかかわらず、私はうっとりしている。
こんな後ろめたさを感じたのは初めてである。例えばこの舞台が、アフロキューバ人だけのダンサーによって演じられていたら、どうだろうか。私はやはり陶酔しつつ、しかし陶酔したことをやましくは感じないだろう。そこからアジア人である私が排除されていることは変わらないのに、なぜ白人だと複雑なあこがれとやましさを抱くのだろう。
『狩りの時代』の主人公、絵美子は、アメリカで生まれ育ついとこたちが仙台の祖母の葬儀のために来日したとき、矛盾した気持ちにとまどう。東京とは異なる仙台の子どもたちのなまりや外見を漠然と見下していた絵美子は、日本語を話せないアメリカのいとこたちを前にして、「アメリカに生まれたというだけで、この子どもたちになんとなくあこがれの気持が生まれるのは、自分でも抑えきることができ」ず、「仙台の子に対しては背中を向け、アメリカの子には媚びて、なぜこんなにちがう態度をとるんだろう」と自分に嫌気が差す。
そのいとこたちの母親である寛子は、小説の始まりのほうで、厄介な問いをさりげなく発する。自分の幼い子どもたちを見て、その美しさにため息をつき、思う。
「美しいものには、ひとはすぐにだまされる。(略)けれど、なにが醜くて、なにが美しいというのだろうか。ひとによって感じるものはちがうんじゃなかったの、と言いたくなる。それとも美とは人間の生命にとって、なによりも普遍的な価値なのだろうか」。
この問いは小説が進むにつれ、本性を露わにする。
時代はさかのぼり、絵美子のおじである創や達、おばのヒロミが子どもだった戦前。山梨にヒトラー・ユーゲントが来訪したのを見に行こうとした十二歳の創は、親や姉たちに、金髪で青い目のアーリア人種じゃないと入れてもらえない組織なんだから、あんたなんか相手にされない、と批判されると、こう思う。
「仲間に入れてもらいたいわけではない。(略)けれど、アーリア人種の少年たちに対するあこがれのような思いまでは打ち消すことができない。なぜなのだろう。肌と髪の毛の色がちょっとちがい、向こうの瞳の色が青いだけじゃないか、と自分に言い聞かせてみるが、胸のどきどきを止めることはできない。世界でいちばんかっこよくて、美しい少年たち。ドイツという国の使節として選ばれた、有能な少年たち。創たちなんかとは、人間としての基本がちがう、そのようにしか創には思えない」。
創たちは、花壇でこっそり用を足していたユーゲントの少年一人とばったり出くわす。そのとき三人が感じたのは、恐怖だった。恥ずかしい場面を目撃してしまった自分たち日本の子どもを、この少年は殺そうとするかもしれない、とおののき、許してもらうにはどうしたらいいだろうとパニックになり、達は喧嘩をふっかけ、ヒロミは裸踊りという暴挙に出てしまう。
少年の創には答えが出せなかったが、「なにか隠されていることがある。ヒトラー・ユーゲントの少年たちがもっと重要な任務を帯びてきたのは、確かなことではないか。(略)ではどんなことが隠されているのだろう」という疑問の回答は、ここにある。
すなわち、劣等感を覚えるほどの「美」の感性を刷り込む、という任務だ。碧眼金髪の白い肌が美だと感じるように調教し、その美の存在で圧倒し、支配しようとするのだ。そうやって心の中に埋め込まれた回路が、この作品では「あこがれ」という言葉で表されている。
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