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かくも甘美でおぞましいあこがれ

かくも甘美でおぞましいあこがれ

文:星野 智幸 (作家)

『狩りの時代』(津島 佑子)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #小説

『狩りの時代』(津島 佑子)

 ヒトラー・ユーゲントを見に行き、ドイツの少年と直接対峙して恐怖と恍惚を味わった創、達、ヒロミは、成人してからもあこがれと劣等意識に呪縛されている。ヒロミはアメリカで夫の圭介と離れて、芸術家の世界で浮かれた生活に身を委ねる。達は、今でもヒトラー・ユーゲントを歓迎する歌が頭に残っていて、ときおり口ずさみ、その鼻歌は息子の晃にまで伝染する。創は、ヒロミの縁で知ったドイツの外交官男性のとりこになっていく。

 物理学者の永一郎も、永一郎なりのあこがれに取り憑かれて、妻の寛子とともに戦後早くにアメリカに移住した。二人はアジアからの移民として差別を受けたり、それをすり抜けて名誉白人の地位を手にしたりする。そしてその子どもたちは、アメリカ人としてのアイデンティティを持って育ち、親とは異なる立ち位置を築いていく。娘のアイリスはフランスにあこがれ、留学をする。

 永一郎からのアメリカ留学の誘いを一度は断った絵美子も、アイリスの影響でパリに留学し、いつしかフランス語翻訳を生業としていく。

 一人では生きていけない耕一郎と一生をともにすると覚悟していた絵美子。耕一郎が亡くなってもう耕一郎のことを考えなくてよくなり、「わたしはわたしで勝手におとなになれるんだ」と予期せぬ新しい時間に驚く絵美子。そして外に出ていく絵美子。「あこがれ」に引っ張られたり拒んだり揺れながら、どれも絵美子なのだ。

 絵美子を一貫して恐怖で縛ってきたのは、子どものころにいとこの誰かから耳打ちされた「フテキカクシャ(不適格者)」という言葉だった。耕一郎の存在を全否定する、まさに心を殺す凶器のような言葉を、なぜ耳打ちされたのか、その理由にこだわり続けてきた。

 いとこたちに問いただしたくても口に出せず、中年になるまでの時間をかけて、ようやく謎が解ける。おじたちがナチスの優生思想の話をしていたのを、子どもの秋雄が盗み聞きし、本人も覚えていないほどの些細な衝動で口にしただけのことだった。あるいは、秋雄もその言葉を知ったときに怖くなって、手に余って絵美子にささやかずにいられなくなったのかもしれない。

 絵美子はそこで悟る。学生時代に無理にいとこたちを問いただしていたら、自分たちは憎み合うようになっていたのではないか、と。

「『フテキカクシャ』ということばは、それだけおそろしい憎しみを含んでいた。わたしたちはきっと、それに耐えられなかった。(略)そんな憎しみにもし本当に指一本だけでも触れてしまったら、あのあと心の底から笑うこともできなくなっていたのかもしれない」。

 ここに差別の本当の恐ろしさがある。差別する意識もないまま、その言葉を口にするだけでも、燎原の火のごとく憎しみの感情が社会に広がってしまう。その憎しみが、差別に実体を持たせるのだ。

 この言葉が絵美子たち一族の中に入り込んできたのは、戦前、一つ上の世代があこがれに駆られて、差別のために作られたヒトラー・ユーゲントを見に行ったことがきっかけだった。そこから地下水脈を流れて、世代を経てもなお、差別は発動できる機会をうかがい、恐怖で縛ろうとする。

 差別する人を断罪するのは、難しくない。しかし、その差別を媒介していくのが、誰の心にも潜む、目もくらむようなあこがれの感覚であるとなると、否定するのは容易ではなくなる。必ずしも悪意なく広がり、いつの間にか心を蝕んで、人々にその意図も薄いまま暴力を振るわせるのだから。

 コロナ禍を生きながら日々否定的な感情に支配され、暴力に身を任せてしまいそうになる自分を、あこがれの感覚で救い出している私には、この小説は不気味な鏡だ。

 言葉が持つ暴力性を批判できるのは、言葉の毒を使って書く小説だけである。文学は、言葉の本当の恐ろしさを知っているから。『狩りの時代』は、毒をもって毒を制し、薬に変えようとする。差別を媒介するのが「あこがれ」なら、その差別を突き破っていくのも「あこがれ」だと思うのだ。

 津島さんはまだこの小説の中に生きていて、読む私たちとともに、奮闘している。

文春文庫
狩りの時代
津島佑子

定価:902円(税込)発売日:2021年09月01日

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