- 2021.09.14
- インタビュー・対談
円城塔、怪獣を語る 『ゴジラS.P<シンギュラポイント>』をめぐって
聞き手:佐々木 敦
文學界10月号
出典 : #文學界
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
壮大な構想力と透徹した論理で小説世界を構築してきた作家が、アニメシリーズ『ゴジラS.P』の脚本を手がけた。世界的に知られる怪獣ものに挑むことになった経緯や作品に込めた思いを訊いた。
■すべてはSF考証から始まった
――円城塔さんがシリーズ構成・脚本・SF考証に携わり、今年、テレビ放映やネットフリックスでの配信が始まったアニメ『ゴジラS.P<シンギュラポイント>』(全十三話)を非常に興味深く拝見しました。今日は主に円城さんの小説世界と『ゴジラS.P』がどうつながっているかについて、お話をうかがっていきたいと思っています。
まず、どのような経緯でここまで本格的にコミットされることになったのでしょうか?
円城 最初はSF考証だけを担うはずでした。怪獣ものなので科学的な裏付けのあるSFにする必要はないのですが、SF要素を入れたい、という強い意向が高橋敦史監督にあり、僕が呼ばれたんです。でも、参加したときには、ゴジラをやるということ以外、本当に何も決まっていませんでした。そこで物語の設定と考証を監督らと一から始めることになった。「こういう設定で行きましょう。あとは頑張ってください」と設定と考証を納品できれば、いつでも足抜けができたのですが、設定と考証が定まらず、なかなか納品できないうちに、気づいたら脚本まで書くことになっていたというかんじです。
――『ゴジラS.P』のファンブックに載っているインタビューでは、高橋監督がゴジラをSFにしたい、と思ったときに頭にあったのは、テッド・チャンの『あなたの人生の物語』をドゥニ・ヴィルヌーヴが映画化した『メッセージ』(二〇一六年)だったと語られています。SF考証を依頼されたとき、監督からすでにそういう話はあったのですか。
円城 ありました。それからエドガー・アラン・ポーの『盗まれた手紙』やシャーロック・ホームズの『ボヘミアの醜聞』(コナン・ドイル著)ですね。手紙のような何らかのメッセージが未来から回帰してきて、それを受け取ることですべてがわかる、ゴジラを倒す方法が見つかる、というような設定にすれば、十三話もつのではないかという叩き台ですね。
――それは出来上がった『ゴジラS.P』そのものですね。最初の構想から物語の構造はブレなかったんですね。
そもそも円城さんにとって、ゴジラシリーズはどのような存在だったのでしょうか。
円城 僕は一九七二年生まれなので、子供時代はゴジラ映画が作られていなかった空白期に当たるんです。でも、身の回りにゴジラグッズはやたらとあった。そして、一九八四年に九年ぶりに『ゴジラ』が公開されます。映画館で最後に伊豆大島の三原山の火口にゴジラが沈んでいくのを見届けました。その作品を見たとき、中学生ながらに色々な疑問が湧くわけです。なぜ、冒頭に出て来るフナムシは巨大になったのか。ゴジラはなぜ謎の曲に誘われていくのか。もう少し別の倒し方があるのではないか。一九五四年の第一作で死んだはずのゴジラが三十年ぶりに現れた、という設定なのですが、「ぶりに」というのはなんなのか。あれほどの巨大な身体はどのように支えられているのか……そのような架空科学を中学生ながらに考えるうちに、大学で物理を専攻するようになった。初めてのゴジラ体験以来、頭の隅でゴジラが存在するにはどうすればいいのかを考えるようになった。だから、SF考証の依頼があったときには、高橋監督に「僕がゴジラについて今まで考えていたことを話してみよう」というところからスタートしました。
監督もゴジラに対しては僕と似たアプローチなんです。つまり、動物行動学者コンラート・ローレンツの攻撃本能についての考察などを背景にして、怪獣だって何の理由もなく、いきなり建物に襲いかからないよね、というふうに考える。怪獣だって、ケガしたら死んでしまうんだから、先に攻撃されるとか、よっぽどの理由がなければ、建物に襲いかからないはずだ、でも襲いかからないとゴジラは始まらないよね、とか、そんな話を一年ぐらい続けていました。
――なるほど。高橋監督には、最初から『ゴジラS.P』をしっかりとした科学的な裏付けのあるSFにしたいという意向があったと。六十年以上の歴史があり、国内実写映画だけで二十九作もある過去のゴジラ作品から、どのような設定を参照し、どんな怪獣を登場させるかを監督とかなり吟味されたのでしょうか?
円城 ある程度、相談したところで、リアルな今と地続きの設定にすることになりました。そうするとかなり絞られるんです。ゴジラと別の怪獣が戦う、いわゆる「怪獣プロレス」はかなり落ちますし、エビラは南の海にいない、とか(笑)。一九五四年の第一作や八四年の『ゴジラ』、『ゴジラVSビオランテ』(八九年)や『ゴジラVSデストロイア』(九五年)のラインになっていきました。それらの作品では、ゴジラを支えるためのSF考証はそれなりにしっかりしていて、第一作でゴジラを倒すオキシジェン・デストロイヤーやDNA計算など、当時の最先端の科学知識も盛り込まれている。とはいえ、ゴジラはサイエンス寄りで、あまりサイエンスフィクション寄りではないな、ゴジラや怪獣ものは、もっとホラ理論でいいんじゃないかと以前から僕は思っていた。だから、今回の『ゴジラS.P』はちょっとホラ理論系に振ってもいいんじゃないかと考えました。
■怪獣と文学
――ゴジラをはじめとする怪獣映画の歴史と文学の関係を振り返ると、武田泰淳が一九五九年に「「ゴジラ」の来る夜」というかなりエキセントリックな短篇を発表しています。また、中村真一郎、福永武彦、堀田善衛の三人は、六一年に公開された『モスラ』の原作となる『発光妖精とモスラ』を共同で執筆しました。こういった過去を踏まえて、何か思うところはありましたか。
円城 ゴジラ映画の物語を駆動してきた〈原子力〉のことは考えざるを得ませんでした。『シン・ゴジラ』(二〇一六年)もそうでしたが、ゴジラは原爆の話であり、原発の話でもある。第一作の原作を書いた作家の香山滋は明確に原水爆に対する恐怖を描こうとしました。それは、ある程度、成功したのですが、失敗もした。香山滋が映画館に大ヒットした『ゴジラ』を見に行くと、観客がゴジラが出現する場面で恐怖するのではなく、笑っていた、と。
『モスラ』も水爆実験場のインファント島を棲息地にするなど、原子力のモチーフは維持されています。
でも、今では文学でもそうですが、何らかの大きなテーマを担い、象徴するようなキャラクターを登場させて、物語を作っていくのは、よっぽど狙わないと難しくなっています。だから、『ゴジラS.P』では、原子力を意識的に避けました。ゴジラを倒すためにすごい力を発揮するのも、原子力ではなく、第一作でゴジラを倒したオキシジェン・デストロイヤー(O・D)と頭文字を揃えたオーソゴナル・ダイアゴナライザーという謎の物質にしました。
怪獣を何らかの大きなテーマの象徴にするのは難しいので、ディテールを積み重ね、埋めていくことによって、テーマは発見されるはずだ、という方向に振りました。僕の小説もわりとそうなんです。断片的なものを積み重ねていって、象徴やメタファーは好きに汲み取ってくださいという作品が多い。
――ファンブックのインタビューで、「『シン・ゴジラ』との大きな違いは、政治が関わっていない点でしょうか」と語られていますが、今のお話につながっているのでしょうか? 現代はわかりやすいアクチュアルなテーマを設定しにくいし、そもそもそれを設定することが有効なのかという疑問も浮かぶことと思います。
円城 政治的な要素に関しては、僕も含めてスタッフに詳しい人がいなかったのが大きいですね。それとそのような要素を入れても、『シン・ゴジラ』を超えようがない。
『シン・ゴジラ』を見ると、政治的な要素を入れるとすると、政府側のキャラクターをけっこうな数、作らなければならないことがわかります。でも、予算などの制約から作れるキャラクターの数は決まっていて、政府側のキャラクターを増やす余地はありませんでした。そこで、申し訳程度にチラホラとやるのであれば、千葉の南房総の方で、旧態依然としたまま昭和の頃からなにも変わっていない謎の施設を中心にする方がリアルではないかということになりました。
――なるほど。『ゴジラS.P』には、非常に複雑かつものすごく多種多様な要素が入っていますが、この物語を作っていく過程で、絶えず立ち戻るような、あるいは、すべてがそこから始まっているという〈出発点〉はあったのでしょうか?
円城 主人公として二十代の男女がいて、その人たちがゴジラを倒す。そのためにはAIとロボットぐらいは必要になるだろう。二人の男女が協力して、ゴジラを倒すのだけれども、片方は世界を回っていて、片方は地元に残り続ける。二人が連絡を取り合っているうちに、倒す方法が見つかる……。という枠組みから出発しました。
SF設定を作る上では、「シンギュラポイント」は、かなり最初から入れました。でも、それは、物語から要請された設定で、お話に合わせて作られた謎科学というかんじですね。ゴジラをはじめ謎の怪獣が次々出現するので、それらがどんな物質で出来ていて、なぜ出てくるのかを説明したり、過去に戻ったりしなければならないので、かなり早い段階から、何でも詰め込める箱として「特異点=シンギュラポイント」を置かなければならないだろうとなりました。その上で今回は色々頑張らず、シンプルにオーソゴナル・ダイアゴナライザーでゴジラを倒して終わりにするところに落ち着きました。
■小説とシナリオは全然違う
――円城さんは二〇一四年にテレビ放映されたSFアニメ『スペース☆ダンディ』の脚本も二話、担当されていますが、『ゴジラS.P』では全十三話すべてを書かれた。書いていくなかで小説とシナリオの共通点あるいは相違点について気づかれることはありましたか。
円城 全然違いますね。頭の使っている場所からして違う。
僕はもともと小説書きである以前にものを書くことに対する興味があります。何かを「書く」とは何ぞや、というような。ですから、色々なジャンルのものを書けるのは、「ああ、こういうふうに書くんだ」と体感できて純粋に楽しい。シナリオを書くことにも慣れてきたと言えば慣れてきたのですが、小説とは作り方が相当に違うんだなとも思います。『スペース☆ダンディ』と『ゴジラS.P』も全然違いました。
(8月2日、Zoom にて収録)
この続きは、「文學界」10月号に全文掲載されています。