かつて、私が大河ドラマ「篤姫」のプロデューサーをしていた折、原作者である宮尾登美子さんから、小説「天璋院篤姫」を執筆し始める前の三年間は、エッセーの仕事も全部断って、ひたすらに資料読みをしていた、と伺ったことがあります。宮尾さんが小説を発表される前は、篤姫に関する資料は散見するものの、まとまった形では少なく、その資料を集め、読み込むことは、さぞや大変であられただろうと想像しておりましたが、資料読みだけで「三年間」という期間をお伺いした時、圧倒されました。
当時も今も、一年間放送する大河ドラマの執筆に、脚本家の方がかけて下さる期間はテレビ界最長ではと思っています。ですがその期間は、資料読みと執筆を入れて「三年間」だと思います。私が、「小説」という分野を尊敬して止まない理由はこういう点にもあります。
さらに、たくさんの資料を集め読みこなすことなら、凡人にも努力でカバーできることですが、小説家の方々は、資料で得た点と点の情報を、網の目のように紡いで、線に、面にしていかねばなりません。こうなると、私なんぞには、もうお手上げです。
そのリスペクトする思いを、今、強く私に抱かせてくださる最強の方が、冲方丁さんです。江戸時代初期という、意外に扱われない時代を舞台に、今回の『剣樹抄』を書くため、どれだけ、冲方さんは資料を集め、読み込み、再構築するために、どれほどの時間と集中力を払われたのでしょうか?
例えば、「丹前風呂」の章です。これは湯屋という風呂屋のことで、江戸の町衆の社交場であり、岡場所の役割も果たし、そこで客の垢かきをする湯女達は夜になれば酌婦となり、更なるサービスを提供する事もあったと聞きます。この物語では、湯屋に、後に吉原の伝説的花魁となった勝山が登場します。更に面白いのは、冲方さんは、歌舞伎でもお馴染みの幡随院長兵衛、さらには、その宿敵の旗本奴・水野成之といった歴史上の同時代人を登場させ、絡ませていきます。この小説を読むまでは、同時代人だったことにも気づかぬ人物たちを、水戸光國と了助の物語に集結させ因果を作っていくのです。ああ、凄い。
そして「骨喰藤四郎」の章。神君・家康から康の名を拝領した刀匠の血を引く、若き日の三代目康継と、明暦の大火で焼刀となった骨喰藤四郎を、錦氷ノ介率いる極楽組の陰謀を絡ませていく巧みさは、あまりにぐいぐいとお話に引き込まれていくため、その巧みさに気づかぬほどです。
物語に登場する忘れがたい小道具は、名刀・骨喰藤四郎だけではありません。「正雪絵図」も紀州徳川家が実際に作った「明暦江戸大絵図」と目され、その絵図の存在が、新勢力である幕閣が、旧勢力ともいうべき御三家を潰しにかかる道具として使われているという設定の鮮やかさ。丹念な取材から華麗にジャンプした大技には、文字通り舌を巻くばかりです。
登場人物にもしかり。一見史実では関係がなさそうな、光國と相棒・中山勘解由も、光國自筆の資料に、そのやり取りが残されており、冲方さん、どこまでお調べになったのですか、と感嘆するばかりです。
そして主人公・了助が成長していく舞台が、禅寺であることも大きな意味を感じます。快活に見える光國も心の奥に闇を抱えていますが、その光國が心気の鍛錬をした東海寺が、実の父を殺され、育ての父も大火で喪った了助の、己の中の「剣樹地獄」を制するために身体と心の制御を鍛錬する場として登場します。かつて戦国の武士が禅を愛したように、必然的に、禅寺は選ばれたのでしょう。鬼河童であった了助は、小堀遠州の子とも伝わる住職・罔両子の元、時には禅の手ほどきを受け、大人達と魂の触れ合いを重ねながら、仲間と共に成長し、不動の心を獲得していくのでしょう。
私は今、この『剣樹抄』のドラマ化を進めさせて頂いています。ここまで書いているのなら、さぞかし、冲方さんが編み込まれた物語世界を、ディテールを含め、忠実に再現しているのだろうと、皆さんは思われているでしょう。
ところが、巻き戻して観ることのできない放送では(録画して繰り返し観ることはこの際、置いておきます)、小説の持つ豊饒な情報量を詰め込むと、お話自体が全然頭に入ってこないものとなります。ですので、涙涙で登場人物も減らしてしまっています。
ただ、映像化することによって生み出すことのできる情報量もあります。了助の表情、光國と了助の距離感、あるいはそもそも登場人物が立っている場所、等々です。あるいは、泰姫の声の温かさ、拾人衆の笑い声の明るさ、等の音の世界の広がりです。
私は今、冲方さんの小説世界を楽しんでおられる方々に、ドラマにすることで増やすことのできる情報量が、ノイズにならないよう、注意深くドラマを作ろうと思っています。
名探偵・光國と、了助ら少年少女探偵団が悪をやっつける物語をこの世に生み出してくれた冲方さんに感謝しながら。
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