- 2021.10.18
- 書評
若き日の城山三郎処女作は今も激動の時代を生きる経営者たちを勇気づける
文:楠木 建 (一橋ビジネススクール教授)
『創意に生きる 中京財界史』(城山 三郎)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#政治・経済・ビジネス
城山三郎(当時の著者名は本名の杉浦英一)の処女作。20代の若き日の著者が慶応年間から昭和初期までの中京地域に現れた企業家の歴史を丹念に辿る。
当時のアメリカでの企業者史研究に基づいて、著者は経済人を(1)創意の人、(2)模倣者、(3)現状維持者、(4)怠惰者の4タイプに分類している。いつの時代も経済のエンジンを担うのは「創意の人」だ。彼らが起点となり、その成功を「模倣者」が追随し、競争が生まれることによって経済発展が生まれる。
明治維新後の近代化する日本にあって、武士階級の多くは「現状維持者」だった。本書の冒頭で紹介される慶応年間の「紅葉屋斬込み事件」は象徴的だ。藩財政の窮乏に苦しむ尊王攘夷派の藩士150人が金鉄組という徒党を結成、「物価騰貴は洋物輸入から起こる」とばかりに輸入商の紅葉屋に廃業要請をする。紅葉屋は表面的には要請を受け入れ、金鉄組に500両を握らせて手持ちのストックを売り尽くすまでの営業継続の猶予を願う。その日の閉店後、紅葉屋は直ちに「洋物の商いが差し止められる」と宣伝して回った。洋物を求める客が殺到する。その後も紅葉屋は廃業予告を逆用しながらも、こっそり横浜から仕入れ、洋物を売り続けた。盛況を極める紅葉屋に激怒した金鉄組は店に斬り込み、商品を破壊する。ところが紅葉屋はすぐに横浜に急行して仕入れ、営業を再開。この事件によって紅葉屋の名前は広く知られ、遠方からも取引の申し込みが相次いだ。現状維持者のあがきがかえって新興商人の繁盛を助けることとなった。明治10年代には「武家の商売」の大半は破綻の憂き目を見た。
一時の商機をとらえて成功しても、不況になると「怠惰者」は脆い。明治期に大銀行となった北浜銀行の名古屋支店長中西万蔵は名古屋で1台しかなかった自動車を乗り回し、十円札をろうそく代わりに燃やすという派手で享楽的な人物だった。広小路に「八層閣」という高層ビルを建て、名古屋の芸者のほとんどを動員して豪華な竣工披露宴をとり行った。直後に第1次世界大戦勃発にともなう経済混乱が押し寄せる。旧支店から引っ越しが済まないうちに北浜銀行はあっけなく破綻した。
明治14年に始まる松方財政のデフレ政策は政府と密接な関係にあった政商の保護に傾いた。官営工場の払い下げは政商たちに大財閥を築かせる契機となった。ところが、保守的で慎重な名古屋の財界人は中央政界と距離を置いていた。名古屋の企業家には中央の財閥のような貪欲さがなく、この時期に飛躍の機会を逸することとなった。
しかしそうした中にも果敢にリスクを取る企業家が登場する。本書の主要な登場人物の一人である奥田正香はその代表格だ。奥田は相手が首相でも頭を下げなかった。「とりあえず頭を下げておけば済む」という姑息な根性を軽蔑した。はっきりした価値基準の持ち主で、相手や状況にかかわらず、自分の信念に従って行動し、実力だけで人間を評価した。封建的土壌には珍しい近代人だった。
奥田正香は明治29年に明治銀行を設立すると、すぐに日本車輛製造株式会社を創業している。当時、鉄道敷設計画が全国で進んでいた。名古屋が木材集散地であることに注目した奥田は鉄道車両の製造を思いつき、広大な工場を建設する。すぐに他社も参入するが、投資に次ぐ投資で競合企業を蹴散らす。日露戦争後の鉄道拡張で日本車輛は空前の大好況となった。それ以外にも名古屋電力、東邦瓦斯、三重紡績といった中京経済の主要企業を傘下に持ち、「奥田のイキがかからぬ会社は、名古屋では成り立たない」とまで言われるようになった。
奥田をドンとして、それに続く若い世代からは独自の志を立てた創意の人が次々に出てきた。その筆頭が後のトヨタの祖業を興した豊田佐吉だ。木製人力織機の開発に成功し、名古屋に移ってきたのが明治29年。三井物産の資本を受けて合名会社井桁商会を創業する。
ところが、技術に没頭する佐吉は営業を優先する三井物産と衝突する。研究開発のための十分な時間と資金が認められない。佐吉はやむなく井桁商会を飛び出して豊田商会を興す。その後、豊田商会は豊田式織機株式会社へと発展し、明治41年の広幅鉄製織機は好景気を受けて大ヒットとなる。しかし、紡績業界が反動不況になると経営陣と再び衝突。ついに明治43年、常務であった佐吉は突然解任される。
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