『家康、江戸を建てる』『東京、はじまる』など、江戸・東京に深い造詣をみせる直木賞作家門井慶喜さんが、東京の21の地域について過去と現在とを結び、東京の「謎」を解き明かす『東京の謎(ミステリー)』。
好評だった「なぜ東京を「とうきょう」と読んではいけないのか」につづき、本書より「なぜトットちゃんには自由が丘がぴったりだったか」を特別公開いたします。
トットちゃんは問題児だった。小学校に入った早々、授業中にもかかわらず窓ぎわに立って外を見はじめたかと思うと、大きな声で、
「チンドン屋さーん」
と通りへ呼びかけたりした。
呼ばれたからにはチンドン屋は来る。わっと児童が集まってしまう。まったく授業にならなかった。図画の時間には先生が、
「国旗を描いてごらんなさい」
と言ったところ、日の丸でなく軍艦旗を描いたのはまあ目をつぶるにしても、その軍艦旗のまわりに黄色い房をつけだしたのは異常だった。黄色い房は画用紙をとびだして、机を盛大によごしたのである。
トットちゃんは毎日のように廊下に立たされ、退学になった。ママはあちこち奔走し、ようやく、トモエ学園という私立の小学校のあるのを見つけた。
東急大井町線「自由ヶ丘」駅でおりて行ってみる。校長室に入る。小林宗作(そうさく)という名前の校長先生は、ママに、
「じゃ、僕は、これからトットちゃんと話がありますから、もう、お帰りくださって結構です」
ふたりっきりになると、
「さあ、なんでも、先生に話してごらん。話したいこと、全部」
トットちゃんはそれから四時間もしゃべりつづけた。校長先生はあくびもせずに聞いてくれて、最後に、
「じゃ、これで、君は、この学校の生徒だよ」
ご存じ『窓ぎわのトットちゃん』冒頭の光景である。主人公のトットちゃんが著者の女優・黒柳徹子自身であることも国民的常識に属するだろう。これは昭和十五年(一九四〇)くらいのことと思われるので、小林宗作は四十代後半だったはずである。右の小さな逸話ひとつ取っても強固な教育的信念をうかがわせる。
ただし厳密には、彼はトモエ学園を一から作ったのではない。もともとその場所にあった、別の経営難の小学校を買い取ったのであり、そういう意味では二代目である。その「初代」こそ自由ヶ丘学園、あのトットちゃんが電車をおりた駅の名前の由来である小学校にほかならなかった(羽仁もと子の自由学園とは別)。
自由ヶ丘学園の創立者は、手塚岸衛(きしえ)。
男性である。明治十三年(一八八〇)栃木県塩谷郡大宮村に生まれ、福井県師範学校、京都府女子師範学校などで教鞭(きょうべん)を執(と)った。
師範学校というのは小学校の先生の養成のための学校だから、いまならさしずめ地方大学の教育学部教授というところか。もっとも、この人は、あんまり風雲の志がありすぎた。早くから、
──自由教育。
を標榜(ひょうぼう)し、ジャーナリズムに進出したのである。
この「自由教育」というスローガンに関しては、こんにち思想史的に見て、いろいろ解釈の余地があるようだが、実際の態度をひとことで言うと、
──小学校の先生は、子供の話を聞かなければならない。
こんなことを言うと「当たり前だ」と言われそうだが、当時は当たり前どころではなかった。むしろ急進的で非常識な態度だった。なぜなら維新直後の学制発布以来、「いい先生」というのは威圧感ある先生であり、生徒に口ごたえさせない先生であり、準備をしっかりした上でよどみなく一方的に知識をそそぎこむ先生であるというのが社会のゆるがぬ常識だったからである。
教師というより上官に近いか。子供の話を聞くなどというのは単なる指導力の欠如であり、子供をなまいきにするだけの不誠実な対応にすぎないというわけ。手塚はその「不誠実」をつらぬいたのである。
自由民権運動の影響
時あたかも大正デモクラシーの勃興期である。新しい思想は、若い教師や一般市民の絶大な支持を得た。
旧態依然たる教育現場を改革せよ。「自由教育」は一種の流行語になった。
手塚自身も、どんどん有名になった。関係者のみの集まる会議での発言までもが「東京日日新聞」や「大阪毎日新聞」にとりあげられたというから時代の寵児である。手塚もさらなる手を打った。もっと世間の関心を引くべく、もっと人気を勝ち得るべく、以下のような「教育改造節(ぶし)」までこしらえたのである。
一番から十番まであるけれども、ここではその特徴のよくうかがわれるものを抜き出そう。
一ツトセー 人の子害(そこな)う教育を先ず一番に打破れ。ソレ改造ダネ!
四ツトセー 世の人醒めよ鶏がなく。個性個性と鶏がなく。ソレ改造ダネー
五ツトセー 猪(い)の鼻台(はなだい)から鐘がなる。自我に醒めよと鐘が鳴る。ソレ改造ダネー
六ツトセー 無理をしないで伸び伸びと、児童本位の自由主義。ソレ改造ダネー
銚子の民謡「大漁節」の替え歌というから、おそらく「アーコリャコリャ」などと合いの手が入るのだろう。「猪の鼻台」とは千葉市の地名。現在の表記は「亥鼻台」。当時、手塚は、千葉師範学校附属小学校(現在の千葉大学教育学部附属小学校)の教師だったが、その職場の所在地を、あえて歌詞のなかにぶちこんだわけだ。
よほど自信満々というか、戦闘的というか。少なくとも手塚が温厚柔和なジェントルマンでないことはこの一事からも明らかだろう。ところでこの「教育改造節」は、じつのところ、先行作品があったと私はにらんでいる。手塚の時代を三、四十年さかのぼる、いわゆる自由民権運動である。
自由民権運動については、前にも述べた。板垣退助をはじめとする高知県士族を中心とした血気さかんな連中が、国会開設、憲法制定などをもとめて東京政府にさかんに喧嘩を売った、あの一大騒動である。
ひらたく言うと、日本ではじめて「自由」の二字を流行語にした運動。あれもまた新聞という最新のジャーナリズムを大いに利用したものだったが、その一環として、やはりおなじ銚子の「大漁節」の歌詞を変えて、「民権かぞえ歌」なるものをこしらえたのだ。
作詞者は、植木枝盛(えもり)と伝えられる。ここでは二番だけ抜こう。
一ツトセー 人の上には人ぞなき 権利にかわりがないからは コノ人じゃもの
三ツトセー 民権自由の世の中に まだ目のさめない人がある コノあわれさよ
手塚岸衛の重視するのが子供の個性であり、板垣、植木のおもんじるのが人民の権利であるという差はあるものの、両者の態度は共通している。自分たちを「めざめた人」とし、社会の保守層を「目のさめない」愚昧な人であると規定して、その覚醒をうながすという一種の傲慢な態度である。
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