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なぜトットちゃんには自由が丘がぴったりだったか

なぜトットちゃんには自由が丘がぴったりだったか

門井 慶喜

『東京の謎(ミステリー)』(門井 慶喜)

出典 : #文春新書
ジャンル : #ノンフィクション

『東京の謎(ミステリー)』(門井 慶喜)

 ことば本来の意味での「啓蒙主義」といえようか。どちらにしても、こんにちの目にはまだまだ泥くささの残るこういう主張のあげくの果てに、手塚岸衛は昭和三年(一九二八)三月、満を持して自分の小学校を創立したのだ。

 すなわち自由ヶ丘学園である。理想の実現、正義の証明。しかしながら結論を言うと、彼はかなりの経営難に直面し……いや、その前に、地名について触れておこう。この学園の建った場所は、もともとは、東京府荏原(えばら)郡碑衾町(ひぶすままち)と呼ばれていた。

 この住所からもわかるとおり、東京市外である。おそらくは国木田独歩が『武蔵野』に描いたのとさほど変わらない、雑木林の多い土地だったのだろう。

 それが手塚の学園創立により、地名のほうが変わってしまった。流行語の後光かがやく「自由ヶ丘」(現在の表記は「自由が丘」)に……などと言うことができれば話は単純でいいのだが、実際には、それ以前から変わっていた可能性がある。これに関しては今回、私もいろいろ調べたのだが、資料によって記述が異なり、にわかに決しがたい。とにかくひとつ確実なのは、昭和四年(一九二九)、ということは学園創立の一年後に、東急が、最寄りの駅名を変更したということだった。

 それまでの「九品仏(くほんぶつ)」を「自由ヶ丘」にしたのだ。これは明らかに学園の存在によるものである。この駅名変更により「自由ヶ丘」の名がきゅうに東京全体の市民の耳目(じもく)になじんだであろうことを考えると、事実上、この地名は、手塚岸衛が生みの親としていいのではないか。けれどもその生みの親ですら、つまるところ学園本体の経営難をのがれることができなかったのは、しょせん彼が、

 ──理論家であって、実践家ではなかったからだ。

 などと大局的に決めつけるのは、やや早計なように思われる。

 

 新しい経営者に

 いっときは小学校に加えて幼稚園、中学校をも併設するところまで行ったのである。だがその中学校の生徒ときたら、勉強はしない、喧嘩はする、カフェーには出入りする。

 カフェーというのは、女子従業員による接待をともなう飲食店である。酒も出した。当時の東京では公立校のほうが圧倒的に世間受けがよく、教育の質が上という社会通念があったから、私立校にはなかなか質のいい生徒があつまりにくい、という事情があったらしい。きつい表現をあえてするなら、落ちこぼれの受け皿になっていたのだ。

(なお同学園の中学校〔旧制〕は、いまもなお自由ヶ丘学園高等学校という名で存続している。その教育は「生徒が主体的に学ぶこと」を重視している由で、このへんはあるいは手塚の意志の継承かもしれない。進学実績もいいようだ。戦前のごとき喧嘩だのカフェーだのいう学校でないことはもちろんである。)

 経営難は、深刻になった。職員の給与は遅配となり、地代は払えず、手塚はたびたび債権者から返済をきびしく催促された。

 ジャーナリズムの寵児も、お金の問題には勝てなかったのである。心身ともに疲労し、糖尿病をわずらい、昭和十一年(一九三六)十月七日、死去。

 享年五十六。そもそもの学園のはじめからわずか九年目の死であることを考えると、これがなければもう少し長生きしたのではなどと思わざるを得ないが、その手塚の死後、幼稚園と小学校を買い取り、「トモエ学園」と改名し、あらたに経営にのりだしたのが小林宗作、そう、あのトットちゃんのおしゃべりに四時間も耳をかたむけた校長先生にほかならないのだ。

 小林宗作は、明治二十六年(一八九三)群馬県うまれ。

 手塚岸衛の十三歳年下ということになる。小さいころから家の前の川のほとりで指揮棒をふって遊んでいたという音楽ずきで、東京音楽学校(現在の東京藝術大学)師範科を卒業し、成蹊小学校の音楽教師をつとめ、二年間のヨーロッパ留学で最新のリトミック教育をまなんだあげく独立した。くりかえすが自由ヶ丘学園の幼稚園と小学校を買収したのである。

 小林宗作の教育は、トモエ学園の教育はと言いかえてもいいが、いま見ても泥くささがまったくない。まことに垢ぬけしたものだった。

 またもや『窓ぎわのトットちゃん』からの引用になるが、トットちゃん=黒柳徹子は、伊豆へ臨海学校へ行くさい、この校長先生が、

「いいかい? 汽車にも船にも乗るよ。迷子にだけは、なるなよな。じゃ、出発だ!」

 とだけ言ったことを記しとどめている。いまの教師でも口をすっぱくして言わなければならない、

 ──ならんで歩くこと。

 とか、

 ──電車では静かに。

 とかいう注意はなかったという。記憶の誇張もあるのかもしれないが、小林宗作は、それだけ子供を信頼したのである。トットちゃんにはぴったりの学校だった。

 その新しい学校ではもう、トットちゃんは授業中にチンドン屋に話しかけたりはしなかった。前の学校の先生が見たら、

「人ちがいだわ」

 と言うにちがいないくらい、それくらい自分の机にきちんと座って授業を聞いた。おそらく戦前の「自由教育」は、ここでひとつの完成を見たのである。大正デモクラシーの完成、と言いかえてもいいかもしれない。

 日本語の「自由」という語も、ここで大きく変化した。

 板垣退助的、手塚岸衛的な泥くささから、小林宗作的なスマートさへ。意味の大型アップデート。してみるとトモエ学園そのものは空襲で焼けてしまったけれど、いまの自由が丘の「自由」な空気は、空気そのものが手塚岸衛と小林宗作の合作といえる。

 女子受けのするおしゃれなベーカリーや雑貨屋。カトレア通り、女神通り、しらかば通りなどの小径の名前。しんとした高級住宅街……現在は目黒区に属する。二十三区内ということは、戦前の感覚でいえば東京市内に属して都会のイメージを先導している。

文春新書
東京の謎(ミステリー)
この街をつくった先駆者たち
門井慶喜

定価:935円(税込)発売日:2021年09月17日

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