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日露戦争に勝ち、太平洋戦争に敗れた理由とは――明治の「日米同盟」をつくった男たち

日露戦争に勝ち、太平洋戦争に敗れた理由とは――明治の「日米同盟」をつくった男たち

小川原 正道

『明治日本はアメリカから何を学んだのか』(小川原 正道)

出典 : #文春新書
ジャンル : #ノンフィクション

『明治日本はアメリカから何を学んだのか』(小川原 正道)

イエール大学創立二百周年記念式典

 一九〇一年(明治三十四年)、アメリカを代表する名門大学のひとつであるイエール大学は、創立二百周年を迎えた。これを記念して十月二十三日、同大学で創立二百周年記念式典が執り行われ、日本からは伊藤博文(前首相)と鳩山和夫(前衆議院議長)が法学博士(LL.D.)の学位を授与された。伊藤は都筑馨六、小山善、古谷久ひさ綱つな、時岡茂弘などを従えて臨席し、やはり法学博士号を授与されたセオドア・ローズヴェルト大統領をはじめ、各国・各州の代表者約二百五十名、その他約一千二百名が列席したという。

 イエール大学側の記録によると、伊藤への法学博士号授与の理由は、次のようなものであった。

 侯爵伊藤博文─列強の中では我が国よりも若いながら、我が文明よりも数世紀も古い文明を誇る国の第一人者である貴下に、始まったばかりの今世紀において文明を世界中に広める事業の盟友として、法学博士の学位を授与し、これに付随する権利と特権を与える。

 日本を代表する政治家である伊藤を、台頭する自国の新世紀における「盟友」として認め、その過去の栄光以上に、「文明」の普及という未来の事業への展望を託しての授与であった。

 これまで、明治後期の伊藤のアメリカ体験は、欧州へ赴く際の通過点としかみられておらず、そのアメリカ観も、イギリスやドイツからの影響に比して、地味な印象で語られてきた。以下、伊藤にとって通過点ではなく、アメリカがひとつの到着点であった点について、論じていきたい。

アメリカで注目を浴びた伊藤

 長州藩で吉田松陰の教えを受け、幕末に尊王攘夷運動に参加した伊藤は、イギリスに密航留学して開国派となり、明治維新後は一貫して政府の中枢に位置した。以後、欧米体験を重ねながら、憲法制定、帝国議会開会、帝国大学開設、宮中制度整備、華族制度制定といった諸改革を主導し、「文明国」の樹立を目指して、明治国家形成に取り組んだ。そのことを考慮すれば、イエールの授与理由との「共鳴」は、無視できない。また、渡米中の伊藤の動静はアメリカの主要紙に大きく取り上げられており、そこでの伊藤の発言内容や活動ぶりは、当時のアメリカ人の大いに注目するところであった。

 事実、伊藤自身、この授与を機会に、アメリカとのコネクションを深化させようとしていたようであり、『東京朝日新聞』(一九〇一年九月十一日付朝刊)は、伊藤の渡米目的は名誉博士号を受けることにあるとされているが、「其重なるものは米国経済界の視察に在るが如し」として、これはアメリカにおける外債募集の必要を感じた伊藤が、そのための経済界視察を試みたものであり、井上馨もこれを「慫慂」し、桂太郎首相も「懇請」して、都筑が随行したのも井上の提案によるものだと報じている。伊藤がアメリカに到着した際に『読売新聞』(一九〇一年十月二日付朝刊)も「伊藤侯の米国行ハ最初より外資問題関係ある如く思はれしが近頃に至りて愈々其確説を聞く事を得たり」として、「今回伊藤侯にハ愈々米国に到着したれバ晩おそくも本月下旬までにハ其その交渉纏るべし」と伝えている。伊藤の渡米を後押しした背景に外債募集問題があったことは、まちがいあるまい。

 なお、伊藤に随行した都筑馨六は井上馨の女婿で、欧米経験豊富な外務官僚・内務官僚であり、当時は外務次官から転じて貴族院議員の任にあった。井上は九月八日付の伊藤宛書簡で、「都筑の随行云々は実に御同意仕候」と述べており(伊藤博文関係文書研究会編『伊藤博文関係文書』一)、『東京朝日新聞』の報道のように井上の提案により都筑が随行したというより、都筑随行という伊藤の提案に井上が同意したもののようである。いずれにせよ、都筑は渡米後、伊藤のスポークスマンとしての役割を果たしていくことになる。

 伊藤之雄氏の研究によると、伊藤は日清戦争後、朝鮮半島への勢力拡大をはかるロシアに対し、日露協商の路線を取ったという。中国で蜂起した義和団を鎮圧するため、日本はロシアやイギリス、フランス、アメリカ、イタリア、ドイツ、オーストリアと共に共同出兵したが、事件収束後もロシアは満洲に勢力を温存し、朝鮮半島に対しても進出を画策するようになる。このため、第四次伊藤内閣(一九〇〇年十月十九日―一九〇一年六月二日)では、その撤兵が懸案となっていた。ロシアの満洲占領を黙認すれば、これが朝鮮半島支配につながり、日本の自衛上の危険が生じると見た日本政府は、日露協商路線で緊張を緩和するか、英国などと同盟してロシアに対抗するかの選択を迫られ、伊藤や井上は前者の路線に期待することになる。

 一方、伊藤渡米の直前、一九〇一年六月二日に成立した第一次桂太郎内閣や山県有朋は後者の路線を取った。そんななか、イエール大学創立二百周年記念式典で各国の有力者に名誉博士号が贈られることとなり、日本からは伊藤がそれに選ばれて招待される。すでに体調を崩していた伊藤は、快適な船旅で健康を回復することもかねてアメリカに漫遊することを決めた。井上と桂は、伊藤を訪ねて、むしろロシアを訪問して首脳会談を行うことを勧め、この結果、伊藤はアメリカから欧州に入ってロシアに行き、外交と外債募集を目指すこととなった。桂の意図は、この旅行目的を外債募集に限定し、財政難を克服することにあったという。かくして伊藤はアメリカを経由して欧州に入り、ロシア皇帝ニコライ二世に謁見、日露協商についてラムズドルフ外相などと会談し、好感触を得た。しかし、同時並行で日英同盟交渉を進めていた桂首相からの電報で、交渉は中止を余儀なくされた。


(「プロローグ」より)

文春新書
明治日本はアメリカから何を学んだのか
米国留学生と『坂の上の雲』の時代
小川原正道

定価:968円(税込)発売日:2021年11月18日

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