コロナ禍は人々が無関心から解放されるための画期でもあった
本書のタイトルに含まれている「無関心というパンデミック」という言葉は、現代世界についての踏み込んだ発言を続けている教皇フランシスコに由来しています。コロナ禍が露わにしたのは、コロナ前から存在していた「無関心というパンデミック」、自分の生活さえ安泰であればよいという他者に対する無関心の世界的な蔓延であり、コロナ禍は、そのような無関心という病から人々を解放するための画期ともなりうると教皇フランシスコは考えているのです。教皇は、コロナ禍について次のように述べています。
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックのような世界的な悲劇が、同じ船で航海する世界共同体としての意識を一時的に目覚めさせてくれたことは確かです。(中略)一人で救われるのではなく、ともに救われる道しかないことをわたしたちは思い出しました。(『回勅 兄弟の皆さん』西村桃子訳、カトリック中央協議会)
コロナ禍は、たしかに、大変な災難であり悲劇でしたが(それはまだ終わっていません)、同時に、コロナ禍が存在したからこそ生まれてきた何か積極的なものもあるのではないでしょうか。コロナ禍があったからこそ気づいたこと、対面で会うことが困難になったからこそ気づいた人と人とのつながりの大切さ、対面とは違う仕方での交流の可能性、危機の只中だからこそ生まれてくる新たな共同体意識、そして一人になって孤独を深めつつ自らを捉え直すことのかけがえのない大切さ。教皇のこの一節は、このようなことに気づかせてくれます。
そうした積極的なものが、コロナ禍の終息とともに忘れられ、失われてしまうとしたら、あまりにももったいないのではないか。そこには、私たち一人ひとりがそれぞれなりの仕方で保ち育んでいくべきものが含まれているのではないか。そのことに着目することが、一人ひとりの、ひいては世界全体のよき未来にとって不可欠ではないだろうか。今回の書物をまとめた背景にあったのは、このような思いでした。
二年間に及びつつある危機の真っ只中で生き抜く力を与えてくれたのは、私にとっては、「読む」という営みでした。これまで何度も読んだことのある書物に関しても、危機に直面している今だからこそ浮かび上がってくる数多くの洞察が含まれていることに気づきました。そうした書物について若松英輔さんと対話を積み重ねた成果が『危機の神学』です。
対談のための準備を始めてみると、私がこれまでに触れたことのある何百何千という書物──とりわけ「神学」の書物──の群れのなかから、「危機」に関わるテクストが文字通り芋づる式に呼び出されてくるという不思議な体験をしました。
「神学」とは、キリスト教的な観点から、「神」について、そして「神」によって創造されたこの世界全体について考察する学問のことです。キリスト教徒が少ない我が国においては、神学に触れたことのある人はほとんどいないでしょう。キリスト教神学の専門家の一人として、私はそのことをとても残念に思っています。神学の書物のなかには、キリスト教の信仰を持たない人にとっても有益な多くの洞察が含まれているからです。
多くの人に忘れ去られた神学の書物、いや、そもそも関心を持たれたことすらなかったかもしれない神学者のテクスト、それらを「無関心」のなかから救い出すことを通じて、コロナ禍と、コロナ禍が露わにしたそれ以前からの「危機」に苦しむ日本社会に一条の光をもたらすことができればというのが若松さんと私の願いです。二千年に及ぶ神学者たちが残したテクストのなかには、現代の世界を照らし出すことのできるそのような力が埋もれていると私は確信しています。
(「はじめに」より)
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