その後の田辺作品に活かされた「十八歳の日の記録」
この日記には、大きな山場が二つある。一つ目は、昭和20年6月1日の大空襲である。
田辺たちは5月17日に飛行機部品工場を引き上げ、その後は学校内に作られた工場(陸軍大阪被服支廠の分工場)で軍服の縫製作業を行った。田辺が担当したのはボタンホールかがりである。
学校工場は自宅から通うことができ、また作業の合間に授業も再開された。学生の日常がわずかではあるが戻ってきつつあった中、「その日」がやって来たのである。
空襲前日の5月31日の日記には、3月13日の空襲で、防空壕の中で〈むしやき〉にされた遺体を見たことが記されている。遺体が発掘されたのは〈町会でやっている畠のつい向う〉とあるように、3月13日の空襲では、田辺写真館のすぐ裏手までが焼けていた。
畠の整地作業をしていた田辺と弟は、防空壕を掘っていた人たちの間で「肉」「死人」などという声が上がるのを聞く。怖いもの見たさで走り寄り、2か月以上も土の中に埋もれ、肉塊となった遺体を見るのだ。
簡潔にしてリアルな遺体の描写も18歳の少女のものとは思えないが、その直後に登場し、「ええ肥料になりますやろ」と〈残忍な諧謔〉を弄するおばさんが、エヘヘと笑って日よけの手拭をかぶり直す場面などは、その観察眼と描写力にうならされる。
そして、6月1日がやってくる。この日に起こったことは、この日記全体を通してもっとも精彩ある文章で、詳細に綴られている。
おそらくこのときすでに、自分は書く人間だという自覚が田辺にはあり、これは書きとめておくべき出来事であると直感的に理解したのではないだろうか。原爆に遭遇した原民喜が、持っていた手帖に自分の見たものを書き綴ったように。原はそのとき40歳の作家だったが、田辺は18歳の少女だった。
田辺は自伝的小説やエッセイで何度かこの日のことを書いている。それらは空襲翌日の6月2日に記した内容がもとになっていることが、今回、この日記が発見されたことによって判明した。
6月1日の大阪大空襲で経験したこと、見たものが描かれている主な作品には、連作短編集『私の大阪八景』に収録された「われら御楯」『欲しがりません勝つまでは』『田辺写真館が見た“昭和”』『おかあさん疲れたよ』『楽天少女通ります 私の履歴書』がある。
このうち最初に書かれた「われら御楯」(『文學界』昭和40年9月号掲載)は、小説の体裁がとられているが、主人公トキコのモデルは田辺自身で、『私の大阪八景』全体が、〈私の幼年時代から戦時下の女学生時代の体験〉を描いたと田辺自身が書いている(『田辺聖子全集 第1巻』解説)。学校から自宅まで帰る途上で見た光景、家が焼けていたこと、父母との再会など、日記に沿った記述になっている。表現も、ほぼ同じ部分が多くある。
〈第百生命は全滅だ。きれいに中が抜けている。閉じたガラス窓からプゥーと黒煙がふき出している〉(日記)
〈角の第百生命は全滅で、きれいに中が抜けていた。閉じたガラス窓から黒煙がふき出している〉(「われら御楯」)
〈やっと消えたらしいやけあとにも、まだ余煙がぶすぶす立ちのぼり、鬼火のごとくちろちろと火が各所に燃えている。電柱が燃えきれず、さながら花火のごとく火花を散らしている〉(日記)
〈やっと消えたらしい焼け跡にも、まだ余煙がぶすぶすと立ちのぼっているし、鬼火のようにちろちろしている。電柱は半分燃えきれず、火花をちらしていた〉(「われら御楯」)
〈熱気のため、かげろうのようなものがゆらゆらと焼あとにこめている中を、人間の頭より大きい火花が、ゆらりゆらりと人魂の如く飛んでゆく恐ろしい光景は、一生忘れられないものだと思った〉(日記)
〈熱気のために、かげろうのようなものがゆらゆらと焼けあとに立ちこめている中を、丸い大きい火花がゆらりゆらりと、人魂のように飛んでいった〉(「われら御楯」)
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