昭和20年4月、数えで18歳の田辺聖子は、航空機のボルトとナットを作りながら、せっせと小説を書いていた。
彼女が暮らしていたのは、伊丹線の稲野駅に近い郡是塚口工場の寮である。もともとは絹靴下を作っていたこの工場は、戦時中、飛行機部品工場となっていた。そこに、田辺が在学していた樟蔭女子専門学校(現・大阪樟蔭女子大学)国文科の生徒が動員されたのだ。
樟蔭はお嬢様学校として知られ、制服は着物に緑の袴、編み上げ靴という、少女たちの憧れのスタイルだった。だが前年の昭和19年に入学した田辺がその制服を着ることができたのはほんの3か月ほどで、その後は地味なスーツになった。
入学して1年もたたないうちに動員令が下り、昭和20年の正月明けから、田辺たちは勤労学徒として工場の寮に住み込んだ。ただ、4、5月の日記を読むとわかるように、工場での作業はそれほど大変なものではなかったようで、級友との会話ものんびりしている。
週に一度ほどは家族のいる自宅に帰っているし(そこにはまだ豊かな食卓があった)、無断で工場を休んで映画を見に行ったりもしている。
小説の執筆にいそしむ余裕もあった。「エスガイの子」という小説を完成させたことが書かれているが、エスガイとはテムジン(ジンギスカン)の父の名である。
のちに田辺が当時を回想した文章によれば、これは尾崎士郎の『成吉思汗(ジンギスカン)』を読んで感激して書き始めたものだったという。
田辺は女学校時代から小説を書いており、14歳のときには『春愁蒙古史』という大作をものしている。これは、満洲や蒙古を舞台にした山中峯太郎の冒険小説や、河口慧海のチベット旅行記に熱中していた田辺が、吉川英治の『三国志』の影響を受けて書いたものだった。
国文科に入学した最初の授業で、教授から好きな作家を問われ、級友たちが漱石、鴎外、龍之介などと答える中、「吉川英治ッ!」と胸を張ったという田辺である。吉屋信子の少女小説や中原淳一のイラスト、宝塚といったロマンチックな世界を愛する一方で、血沸き肉躍る物語を好み、みずからも冒険小説や歴史小説を書いていた。
壮大な物語に夢中になったのは、軍国少女だったことも関係している。田辺は早くから小説家を夢見ていたが、読んでいたのは小説だけではない。大川周明の『日本二千六百年史』『日本精神研究』も女学校時代に読破し、左傾する旧制高校生などに義憤を感じていたと後年回想している。
日記の中では、ドイツ降伏を〈世界婦人の模範とまで賞揚されたドイツの婦人よ、何故、御身らは腑甲斐なき男子に代って銃を取らなかったか、たとい一兵でもいい、英米ソの兵を殺さなかったか〉(6月24日)と嘆じ、ソビエト軍の満洲・樺太侵攻を知った日には〈いよいよ、日本は世界を相手に戦うことになった。すみきわまった一筋の道をわれわれは毅然としてただ歩み、必死に戦うのみである〉(8月11日)と決意を述べている。
こうした愛国の熱情あふれる文章が時折さしはさまれるが、そのほかの部分は軽快な文体で、日記ではあるが、読み手を意識した文章になっている。たとえば朝日新聞の記者が時局講話に来た5月4日の記述。
〈寝不足にたるんだような眼をして赤ら顔の、小心そうな島田教育厚生課長が国民服姿でいかめしく現われ、つづいて小柄な中年の、色白な男が悠然と入り来り、とっときの皮張りの椅子へゆっくり座りこんだ。戦闘帽と鞄を大事そうに抱いている〉
こんなふうに二人のお偉いさんのもったいぶった様子を描写したあと、友人がこの記者を評した「妙にちまちまっとしてるやないか」との言葉が添えられる。
何ともいえない、この可笑しみ。このころすでに、田辺聖子は田辺聖子だったことがわかる。
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