写真館の2代目である父はクラシック音楽を好み、水彩画を描き、テニスクラブに通うハイカラな人だった。芸術家肌で誰にでもやさしく、田辺がすることはすべてほめてくれた。
松竹映画のシナリオライターになりたがっていて、脚本の勉強にと宝塚歌劇に足しげく通った。田辺とその弟の手をひいて、ミナミの松竹座に、ハロルド・ロイドやターザン、シャーリー・テンプルの映画を見に連れて行ってくれたという。
だが、日記を読むと、戦争という「有事」にあってはあまり役に立たない人だったことがわかる。対照的に母はリアリストで生活能力があった。
日記の2つ目の山場は、8月15日である。空襲の翌日でさえ平易な話し言葉で文章を書いていた田辺が、終戦の詔勅を聞いたこの日は、文語調で悲憤慷慨している。だがその興奮も翌日には静まり、徐々にもとの文体に戻っていく。
父が体調を崩したのは〈勉強が始まって、私はまた希望に燃えつつ日々をすごしている〉(9月9日)と書いた直後のことである。
胃潰瘍で吐血し、弱っていく父。子供たちのために懸命に働く母。父の弱さ、不甲斐なさに対するいらだちも、正直に綴られている。
父が亡くなったのは、敗戦の年が暮れようとする12月23日である。この日の日記にはこうある。
〈母は泣き通しである。父は「お母ちゃんよう」と母を呼び、母の首に手をまきつける。もじゃもじゃ生えた無精髯の間からは黄色い乱杭歯が見える。垢くさいマッチ軸のような細い手、色の悪い頬、それらが急になつかしく愛すべきものに見えてくる〉
ダンディな好男子だった父の、病みおとろえた姿。ここには確かに作家の目がある。
日記を通して読むと、空襲、そして父の死と、目を背けたいものを見たときほど筆が冴えている。この1年で、田辺は作家の目を獲得したのかもしれない。
田辺の著作を当たってみたところ、父が亡くなった日のことを書いたものがあった。今日はもう危ないので先に食事をしておくようにと母が言い、いつになく白米を炊いてさんまの塩焼きを添えてくれたという。
〈十七歳の私は、臨終近い父のそばで、何年ぶりかの白米の御飯と塩さんまがおいしくてならなかった。やさしい言葉の一つもかけることなく、父を死なせてしまった〉(『楽天少女通ります』より)
死にゆく父と、食べる娘。日記には書かれていないエピソードである。
家を失い、父を失った田辺は、年を越した2月、〈私は私の好む文学の道へすすみたい〉と日記に書く。そして窮乏の中で学び続け、国文科の首席をとるのだ。
父が亡くなって1年後、昭和21年の大みそかの日記に、彼女はこう書いている。
〈来年も、勉強して小説を書こう。私はもう、この道しか、進むべき道はない〉
(『田辺聖子 十八歳の日の記録』収録の「解説」より)
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