田辺は、未曽有の戦災の日に起こったことをなるべく正確に書こうとしており、そのために日記を参照したことがわかる。このとき37歳になっていた田辺は、戦後20年たった作家の視点ではなく、その時代を生きていた一少女の視点を採用した。それは、自身の「十八歳の目」を田辺が信用していたということであろう。
ほかの作品でも、叙述に多少のバリエーションはあるが、あの日見た事実を変えている部分はなく、重要な場面では、そのまま日記の表現を使っている。それは後年になっても変わることがなく、作家の目で事実を加工することを行っていない。
平成3年から4年にかけて読売新聞に連載された『おかあさん疲れたよ』は、戦争にかかわる田辺作品の集大成ともいえる小説である。主人公は男性で、自伝的小説とは違い虚構性が高いが、作中で回想される空襲の日のことは、やはり日記がもとになっており、先に引いた、ビルの閉じたガラス窓から黒煙がふき出す描写や、電柱が燃える光景が登場する。
後世の目で変えてはならない現実がそこにあると田辺は考えていたのだろう。大人の都合、作家の都合で変えることをしなかったのは、同じ時代を生きた少年少女のためでもあったのではないかと思う。
「われら御楯」で描いた時代を、小説ではなく回想記として若い世代向けに書いた『欲しがりません勝つまでは』(昭和52年)にも、空襲の日の日記の記述が使われているが、そのあとがきで田辺はこう書いている。
〈私はまた、この本を、あの時代に共に生きて、ともに学徒動員で工場で働き、空襲で散った多くの学友に捧げたいと思う。今年―昭和五十二年は、日本中でたくさんの死者の三十三回忌がいとなまれるはずである。何となれば昭和二十年の空襲で命をおとした人は何十万人といるのだから。死者は黙してかたらない。私たちは彼らのことをもっとよく知ってやらなければならない〉
目を背けたいものを見たときほど筆が冴えた
この日に焼け落ちた田辺の家は、大阪市此花区(現在の福島区)の市電通りにあった田辺写真館である。
〈ああ、あの大きな、居心地のよい、ひろびろとした家。生れて、そして十八の年まで育った、あの美しい、古い家!〉(日記6月2日)と田辺が惜しんでいるこの家は、2階に写場(しゃじょう)(スタジオ)のあるモルタル造りの洋館で、多いときは家族と技師など20人が住んでいた。
中国との戦争は始まっていたものの、庶民の生活はまだ平穏だった昭和12、13年頃には、広いテーブルで入れ替わり立ち替わりみんなが食事をし、洋食もふるまわれた。2階の写場では見習い技師たちがピンポンや撞球(ビリヤード)に興じ、レコードをかけたりマンドリンを弾いたりした。そんな、豊かさと幸福の象徴のような家だったのだ。
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