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日本の美術書と美術展のトレンドをかえた中野京子節のインパクト

日本の美術書と美術展のトレンドをかえた中野京子節のインパクト

文:藤本 聡 (展覧会プロデューサー)

『運命の絵 もう逃れられない』(中野 京子)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #随筆・コミックエッセイ

『運命の絵 もう逃れられない』(中野 京子)

 メインターゲットのロンドン・ナショナル・ギャラリーとの交渉は、はるか上方に垂れている微かな細い糸を渾身のジャンプで手繰り寄せるかのような限りなくゼロに近い可能性にのぞみを託してのスタートだった。まったく当てのないところから少しずつ美術館との接点を探り、出品交渉のステップについて情報収集し、作品借用の可能性を探り、英国からの質問に答え(そもそも『怖い絵』展という斬新なコンセプトの説明が必要で、これが難題のひとつだった)、ロンドンに足を運び、関係者と何度も策を練り直し、ようやく借用できる可能性が僅かながら見えてきたのは展覧会の開催まで2年あまりに迫った頃だった。そんな交渉が佳境を迎え、我々のテンションも少しずつ上がりつつあったある日、打ち合わせ中に中野さんから突如、「ジェーンが来ないなら『怖い絵』展はやりたくない」と非情な宣告を受けた。心の内を隠す様な、軽い感じの口調ではあったが目は笑っていなかった。私は中野さんの本心だと悟った。日本の美術展のトレンドを変えるほどのインパクトをもつ展覧会の運命がすべてこの交渉の成否にかかっている事を改めて認識させられた。もし空振りに終わったら……考えるだけで恐ろしかった。もしそうなったときは霧のロンドンに失踪してしまうしかないとまで私は追い詰められた。

 最終的にレディ・ジェーン・グレイの交渉は無事に成就し、私の失踪話は後々の笑い話で済んだのだが、これで逆に逃れられなくなったのは中野さんだった。実は彼女もこの長期間に渡る出品交渉の過程で私とは違う意味で大いに心を揺さぶられていた。

「レディ・ジェーン・グレイの処刑」の出品が叶うこと、それは大展覧会の開催がまさに近づいてくることを意味する。展覧会に関わる人間は、主催する新聞社、会場となる美術館にはじまり、美術品輸送会社やグッズ会社など、その数は膨大で、出版の比ではない。中野さんが後に明かしてくれた話では、特別監修者として展覧会の看板を背負うプレッシャーを人生で初めて経験し、その中心から何とかして逃げ出したい思いに駆られたそうだ。それが、「来ないなら……」の発言につながったのだが、とにかく、この絵は二人にとって忘れられない、そして運命を決する絵となった。

 2017年7月兵庫県立美術館で『怖い絵』展が開幕し、我々の“運命の絵”は大きな話題をさらった。実物を前に涙ぐむお客さんがいるほど、この絵の力、中野京子’s eye(解説文)の力は圧倒的で、展覧会に衝撃を受けた方々の口コミは全国を駆け巡った。

 兵庫会場に続いて開催した東京・上野の森美術館では入場待ちが最長3時間半を記録し、最終的に合わせて約68万人が会場に足を運んでくれた。これまでにない新しい切り口が斬新という高い評価や、初めて美術館に足を運んだが、展覧会がこんなに面白いものだったとは……という嬉しい言葉もたくさん聞くことができた。とにかく、展覧会は大大大成功で幕を閉じた。

 さて、長い昔話になってしまったが、改めて当時の喧騒の日々に思いを馳せながら、『運命の絵 もう逃れられない』を読み返した。

 読者をぐいぐいと絵画の世界に引き込む中野ワールドは健在だ。『怖い絵』展以後とまで言うのはおこがましいかもしれないが、昨今、芸術鑑賞には助け舟があった方が良いと言うのが定説になりつつある。 実際、私たちは自身の観察力や歴史的な知識、直観で絵を見るが、絵の裏には私たちが知らないことや推測しなければならないことがそれ以上にあることが多い。中野さんの豊富な知識と絵を読み解く力を借りると、忘れ去られていた歴史的な出来事のベールがはがされ、画家がその時に伝えたかったことが明らかになり、世界中の魅力的な絵画をより深く楽しめるようになる。そんな体験が本書の魅力だ。

 さらに、『怖い絵』展の企画サイドの視点で読むと、いまでも新たな出品候補作の発見に、わくわく感が止まらなくなる。バーン=ジョーンズの「運命の車輪」、ヴェルネの「レノーレのバラード」、ムンカーチの「死刑囚の監房」はぜひとも、次の展覧会に欲しい作品だ。近い将来中野京子さんの著書を元にした第2弾展が開催されるなら、それは『怖い絵』展IIが大本命だろう。しかし、もしかしたら『運命の絵』展かもしれない。はたまた『名画の謎』展もあるかもしれない。そんな日が来るとしたら、中野さんと私は新たな運命の絵から逃れられない日々をふたたび過ごすことになるだろう。夢はどんどんと広がっていく。

 自分が美術展に携わる仕事をする中で、中野さんの本に出会い、ともに展覧会を開催できたことに何よりの感謝をささげつつ、つたない「解説」とさせていただく。

文春文庫
運命の絵
もう逃れられない
中野京子

定価:891円(税込)発売日:2022年02月08日

電子書籍
運命の絵
もう逃れられない
中野京子

発売日:2022年02月08日

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