- 2022.03.31
- コラム・エッセイ
「図書館の魔女」シリーズの高田大介が綴る、フランスでの豊かな郷村暮らし
WEB別冊文藝春秋
高田大介〈異邦人の虫眼鏡〉 Vol.1「フランスの悪い草」
出典 : #WEB別冊文藝春秋
「図書館の魔女」で一大ファンタジーブームを巻き起こした高田さん。
フランスに移り住んで15年。豊かな自然に向き合い、生きとし生けるものの営みに耳をすませる篤学の士の、採れたての日常をお届けします。
この夏は毎日のように庭にいた。宵っ張りの朝寝坊で、これまで午前中はだいたいお茶を片手に漫然としているのが常だったが、最近では大家の来訪から庭を守るという勤めが生じたのだ。
そもそも拠ん所ない事情があって、住み慣れたリモージュの中心街を離れ、トゥールという街の郊外の小村に引っ越したのがこの春のこと。トゥール郊外……というよりは一番近い地方都市はトゥールだ、というぐらいのもので、どれくらい田舎であるか象徴的なことを言えば、この村には信号が二つしかない。
小学校はあるが中学校はない、朝の家畜の出勤時間に耳を澄ますと羊が柵に紛糾してベエとないている声がどこからかする、というような田舎だ。家畜に出勤があるのか訝しむむきもあるかと思うが、あるとき午前中に遠い町に用があって車で農道を走っていたら、牛がぞろぞろと列をなして所定の放牧場に出勤するところを見かけた。牛も羊も夜には見ないから、いったん帰宅して毎朝ああして出勤しているものと見える。重役出勤といっていい時刻だったが、なるほど縦列の牛はみんな貫禄があった。
さて貫禄があるといえば問題の大家であるが、こちらに越してきて生活に変化したことはさまざまあれど、その一つが大家との関係である。フランスでも大家などとは契約の時ですら顔も合わせず、不動産屋がもっぱらの窓口となるのが常だが、こちらでは大家と直接交渉して入居を決めたら、この大家がちょっと特殊な大家だった。電気工事の会社を経営していた引退者であるが、引退どころか現役でもなかなかいない、すごいバイタリティの持ち主で、いまでも汚れたジーンズに、シャツを汗まみれにして働いており、所有物件の管理営繕も自分でやっている。土木、建築、電設となんでも出来るようで、聞けば借りた家も大家が「友達と自分で建てた」とのことで恐れ入った。
こういう大家であるから、頼りになること一通りでない。あれが壊れた、これが調子が悪いと告げると、じゃあ今から行くということで五分後に戸口を叩いたりする。すぐ近くの「工場」でたいがい何か直したり壊したりしているらしい。この大家が隣接する広大な地所に定期的に手を入れに来る。搭乗型の草刈り機で毎週バリバリ走り回っているし、先週はブルドーザーを持ち込んで樹を一本引き倒して整地していた。多分そういう趣味なのだと思う。草刈り機の爆音を吹かしながら通り掛かりに、わが家の庭の裏木戸の向こうから「書いているか?」と訊いてきたりする。こっちは「ええ書いてます」とだいたい噓を答えるしかない。ところでこの庭が今回の話題になる。
コロナ禍はフランスでは猖獗を極め、日本と比べれば累積死者数はここまでで数にして約6.7倍、人口比を勘案して丸めれば日本の13倍ぐらいの割で死者を出したことになる。政府は強権を発動して、幾度かのロックダウン、さらには国境封鎖、移動制限、夜間外出禁止、各種施設の営業禁止と、市民生活にかなりの制限をかけてきた。そうしてワクチン接種率を上げ、だいぶ超過死亡率も下がってきたし、新規感染者も減ってきた―それでもまだ新規感染一日9601件(2021年9月11日現在)という数字で、フランスはこれを「減ってきた」と感じている訳だ―ということで、ようやく店が開きはじめ、各種催しが腰を上げ出したところである。
我々は地方都市暮らしで、もともと引き籠もりぎみだし、業務はリモートもなにも、日本にまったく顔を出さずに今までやってきた。あまり自宅軟禁も応えないかと思っていたが、やはりアパルトマンの自室から一歩も出ずに何週も過ごし、街路に出ればマスク義務という暮らしは窮屈きわまりなかった。今回の引っ越しは別の事情があって前から決めていたことだったが、まさしく渡りに船と、この際広々したところまで逃げちまおうじゃないかということで、今の田舎へとロックダウンの最中に隠棲を決行したのだった。
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