- 2022.04.05
- インタビュー・対談
〈『香君』刊行インタビュー〉上橋菜穂子がわくわくした“香りと植物”の世界 「風邪で焼き魚の匂いがしないと気づいたとき、世界が平坦になった気がしました」
聞き手:瀧 晴巳
上橋菜穂子さんインタビュー#3
ジャンル :
#歴史・時代小説
上橋菜穂子さんの最新作『香君』の主人公、アイシャは、人並外れた嗅覚の持ち主。彼女が感じている<香りの声>で見えてくる世界とは一体どのようなものなのか。上橋さんは、言う。(全3回の3回目。1回目、2回目を読む)
「<香りの声>で草木が行っているやりとりを感じている、というあらすじを読むと、魔法や超能力で草木の言葉を理解していると思われてしまうかもしれませんが、生まれたときから嗅覚がアイシャくらい優れていて、しかも、観察する力に長けている場合、そういうこともあり得るのではないかなあ、と思ったのです。
この草は、この虫に食べられていると、この香りを発する。この香りが漂うと別の虫がやってきて、草を食べている虫を食べてしまう、というようなことを、幼い頃から自然に感じながら生きてきたら、半鐘の音が『火事だ! 火事だ!』と聞こえるような感覚で、香りの意味を感じているのではないか、と」
嗅覚って、知れば知るほど面白い
嗅覚は、記憶や情動にも関わっている。
「『失われた時を求めて』の冒頭、紅茶に浸したマドレーヌの香りで幼い頃の記憶がよみがえるシーンは有名ですよね。香りが記憶と結びついているということは、ある香りを懐かしいと思う人もいれば、別にそうでもない、という人もいるわけです。記憶との関連だけでなく、ある香りをどう感じるかには、人によって差異がある場合もあるようですし、人によって嗅ぐことが出来ない匂いというのもあるそうなのです。
たとえばアスパラガスを食べたあとの尿には独特の匂いがあって、私はそれを感じるのですが、感じないという人も多いですよね。嗅覚って、知れば知るほど面白いです。
私たちは、日頃、嗅覚のことは、あまり気にせずに生きているような気がしますが、実際には常に様々な匂いを嗅いで暮らしているのですから、匂いを感じられないと、世界が変わってしまったように感じるくらい、嗅覚というのは重要なものなのだろうと思います」
新型コロナウィルス感染症の症状のひとつに「嗅覚を失う」ということがあるので、あらためて意識した人も多いのではないか。
嗅覚を扱う物語を自分で書こうと思ったきっかけ
「私も風邪で嗅覚を無くしたことがありました。焼き魚の匂いがしない、と気づいたとき、世界が真っ白に、平坦になったような気がしました。そのとき、嗅覚ってこんなに大切なものだったのだ、と、実感したのです。
ただ、それで、すぐに嗅覚を扱う物語を書こうという気にはなったわけではありません。たとえば、世界的に大ヒットしたドラマ『スニッファー ウクライナの私立探偵』などのように、優れた嗅覚で事件を解決する面白い物語が、すでにあることは知っていましたから、自分で書こうという気持ちにはならなかったのです。
でも、草木が香りでコミュニケーションをとっている、と知ったとき、目の奥が光ったような気がしました。『生きものたちをつなぐ「かおり」――エコロジカルボラタイルズ――』という本などを読み進めるうちに、わくわくしてきて、生態系が香りで繋がっている様子――香りを通して見えてくる世界の在り方――を、描いてみたくなったんです」
ひとつの強大な力が暴走し始めたら、そこに勝者はいない
この物語のもうひとりの主人公、香君として生きてきたオリエは、アイシャに言う。「祈りを捧げる対象がいること自体は、私は悪いことだとは思わないの。この世は過酷で、人の力ではどうにもならない天災が起こるから」。
「祈ることができるというのは、大切なことだと思います。この世には、つら過ぎて耐えられないことがたくさんありますから。それに、遠い何かを思うことは、人を謙虚にし、この広大無辺の世界に対して畏敬の念を抱かせてくれると思います。
ただ、絶対的な権力をもつ存在の下に民がいるというシステムの中では、自らの未来を決めているのは自らの判断や行動だと感じることが難しくなってしまう。そのシステムに慣れていくと、自ら考えることを止め、自分の未来に対する責任も、権力者に預けてしまう可能性があると思うのです。それは危険で、怖いことだと思うのです」
ひとつの強大な力が暴走し始めたら、そこに勝者はいない。ただ、一面の焦土と化すだけであることが、生きとし生けるものたちの命の摂理として描かれていく。
「『樹木たちの知られざる生活』という本を読んだとき、胸に響いた言葉がありました。“社会の真の価値は、そのなかの最も弱いメンバーをいかに守るかによって決まる″という言葉です。この世は非情で、生きることには多くの困難が伴います。それでも、人は他者を思うことができる生き物でもあります。自らが行うことが、どういう未来に結びつくか想像する力もあります。
学び、観察し、想像し、知識を共有し、他者を思って支え合う。そういうことが、この過酷な世界の中で、私たちを、なんとか生き延びさせてきたのではないでしょうか」
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