- 2022.05.12
- 書評
著者の円熟ぶりが遺憾なく発揮されている傑作サスペンス
文:新保 博久 (ミステリ評論家)
『おまえの罪を自白しろ』(真保 裕一)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
本書『おまえの罪を自白しろ』は二〇一九年四月、文藝春秋より書下ろし刊行されたが、『誘拐の果実』を超える誘拐物を意図して構想されたわけでは必ずしもないようだ。文藝春秋のウェブメディア「本の話」二〇一九年四月十二日配信のインタビュー「もうこれ以上の誘拐サスペンスは書けない!」(以降の引用出典も同じ)によると、『こちら横浜市港湾局みなと振興課です』(二〇一八年)の最終章「ふたつの夢物語」で、「政治家の罪を暴こうとする登場人物を書きました。その人は正々堂々と政治家に戦いを挑むんですが、執筆しながらふと思ったんです。『もっと汚い手段で、政治家の罪を暴けないだろうか』と。『悪事を働く政治家であれば、徹底的に懲らしめていいのではないか』と」。
こうして、大物政治家の孫娘を誘拐して、身代金の代りに自身の罪悪を記者会見で告白することを要求するというアイデアが生れたという。『誘拐の果実』の前半の事件と同様、誘拐犯にとって最も危険な身代金の受け渡しをしなくて済むという名案(作者にとって)だが、金銭以外を要求するのも誘拐物にとってはすでに一つの系譜をなしている。そこで真保氏が挙げている前例は、ラッセル・ブラッドンの『ウィンブルドン』と岡嶋二人の『タイトルマッチ』だ。
前者で要求されるのは英国大冠の大粒ダイヤモンドで金銭と変りないが、タイムリミットはテニスの男子シングルスの決勝戦終了まで、決着前に要求が容れられなければ決勝の勝者と、貴賓席の女王自身を狙撃して殺害するというのが脅迫内容である。事情を知らされたテニス選手二人が試合を終らせないため決死のラリーを続けるのが読みどころだが、別に誘拐しなくとも人質に出来るというアイデアも注目されよう。
『タイトルマッチ』のほうは、世界戦に挑戦するボクサーが生後十ヶ月の甥を誘拐されて、チャンピオンをノックアウトで倒せと要求される。真保氏は挙げていないが佐野洋『禁じられた手綱』が、競馬騎手が義姉をさらわれて八百長で負けることを強いられるように、わざと負けろと言われるのが普通なのに(佐野作品では要求をはねつけてから、あとひと捻りあるが)、岡嶋作品では、言われなくても努めるつもりの勝利を強要される理由の謎が読者を惹きつける。
「そんな国内外の名作を超える脅迫――政治家に対する過酷な要求は何だろうか、と考えたときに、『これまで犯してきた罪を自白しろ』ということにたどり着いたんです。
「あまりにも素晴らしいアイデア(笑)だったので、きっと誰かがすでに書いているにちがいないと思って、シンポ教授こと、ミステリー評論家の新保博久さんに相談しました。そうしたら、『過去にも例がない』という答えだったので、これはいけるぞ! と」。
このシンポ教授なる者、ずいぶん軽々に断定しているが、未訳作品を含めて世界中でおびただしい誘拐ミステリが書かれているはずなのに軽率ではないか。むしろ、独創的なアイデアが閃いたつもりでも似た先例はあると覚悟して、そのアイデアだけに頼りきらず他の部分でも工夫を怠らず、先例を指摘されて評価を割り引かれても独自の価値を主張できることこそ肝要だろう。『おま罪』(何だ、この略し方は)に類する先例は、シンポ教授同様たまたま私も思い当らないが、事件で波立つ家族関係を描いた家族小説、政治家一族から一歩引いて生きてきた主人公・宇田晄司が政争の世界に目覚めてゆく一種の成長物語、近年日本を騒がせている政界スキャンダルを思わせる政治小説的な側面にもたっぷり筆が割かれて、デビュー三十周年を迎えようという著者の円熟ぶりは遺憾なく発揮されている。
反面、誘拐犯が身代金奪取のため警察と交す緊迫した遣り取りが生じない、という結果にもなった。犯人が正義感に突き動かされているようで凶悪さが感じられないため、読者が人質の安否を気遣うサスペンスもやや乏しい。おおもとのアイデアが卓抜すぎると、誘拐サスペンスならではの醍醐味が減るという諸刃の剣なのである。そのぶん、ポリティカル・フィクションなどの小説としての厚みが補って余りあるものの、読者は欲張りなのだ。
初期の『ホワイトアウト』や『奪取』のような、手に汗握らせる躍動感を求める気持はもだしがたい。近作『ダーク・ブルー』は、ダム乗っ取りに徒手空拳で挑む主人公の活躍に喝采させた『ホワイトアウト』の深海版という趣で楽しめたが、リアリティへの周到な配慮は、がむしゃらな疾走感を抑制しかねない。
「次に、誘拐モノを書くとなると、これ以上のアイデアが必要になります。もうこのジャンルには手を出せないかなぁ、と思うくらいの一冊になったと思っています」という。しかし、奇想と物語的興奮とがさらなる高みで融合した誘拐サスペンスの逸品を、今すぐにではないとしても、少なくともあと一作期待するのは、この才人作家には無茶振りではないだろう。
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