転んで額にコブを作ったり目の周りに青あざができると、人から「どうしたんですか?」と訊(き)かれるので、「女房に殴られたんです」と嬉しそうに答えていました。それが次第に寡黙になっていったのは、老化が進んだ徴候だったのでしょう。
二〇一五年六月に検査入院すると、精神的な活動が一気に衰えていくのがわかりました。生活が変わってしまったせいです。夫は歩くのが大好きで、毎朝、最寄り駅にある大きな本屋へ行って本を一冊買い、だいたいその日のうちに読み終えるのが日課でした。
ところが病院は規則が多くて、勝手に廊下を歩けないし、本をたくさん持ち込むこともできません。あまりにも病人的な生活で、本人も「とにかく家に帰りたい」と訴えました。
急いで自宅へ連れて帰ると、大変な喜びようでした。夫には住み慣れた家が一番だとわかって、最後まで普通の暮らしをしてもらうために、自宅で介護をすると決めたのです。
夫は車椅子をうまく使って、家中を移動していました。トイレも自分で行くし、食事どきには自分が食べたくなくてもテーブルにやって来て、私や秘書を眺めながら「みんな、よう食うな」と嫌がらせを言っていました(笑)。
約五十年前に建て替えた自宅には、段差や敷居がまったくありません。トイレは汚したとき壁まで洗えるように、床に排水装置がついています。図面は私が引いたのですが、高齢の親たちの面倒を見ることを覚悟して、こうしたのです。この家で、私の母、夫の母、夫の父の三人を看取りました。八十三歳、八十九歳、九十二歳でした。だから私は、老人の介護に慣れています。上手に手抜きをしなければ長続きしないことや、そのコツも知っています。
けれども夫の介護は、私一人では無理でした。親たちのときと違い、自分が八十四歳になっていたからです。検査入院から帰ってきてしばらくたった十二月八日の午前四時頃、新聞を取りに出た夫は、玄関の外で倒れていました。早朝の寒さの中、意識はあるものの自力で立ち上がれない寝間着姿の夫を抱き起こす力が、私にはありませんでした。折よくやって来たオートバイの新聞配達人に助けを求めて、家の中へ運んでもらったのです。
息子夫婦は関西に住んでいますし、その後には私自身が脊柱管狭窄症(せきちゅうかんきょうさくしょう)の診断を受けました。そこでヘルパーさんを頼むことにしました。私の体調が悪化して介護できなくなる事態を想定して、老人ホームに入ってもらう備えも、実はしていました。
夫は次第に食欲をなくしていき、「要らない」「食べない」の繰り返しになりました。私は、食事の工夫に神経をすり減らす毎日です。去年の一月末、ついに固形物を口にしなくなった夫をホームドクターに診てもらうと、血中酸素量が極端に下がっているからと緊急入院を命じられました。
病院では間質性肺炎と診断され、レントゲン写真を見ると肺が真っ白になっていました。この病気は酸素が肺に行かなくなるので、だんだんと意識が混濁していきます。八日ののち、美しい朝日に見送られながら、夫は穏やかに旅立ちました。
話し合って決めたわけではないのですが、夫との間には「延命治療はしない」という了解がありました。病院側から「最期にどんな治療を希望されますか」と訊かれましたが、点滴などは最低量にとどめてもらい、回復するような見込みもなかったため肺炎の治療薬も投与しなかったのではないかと思います。
私たちは夫婦ともカトリックですから、いつの日か死ぬということがずっと頭にありました。まともなカトリックは日に五回お祈りをするのですが、もちろん私はそんなに祈りませんよ、でも、死についてはよく考える癖がついているんです。
葬儀のミサは翌々日、夫が過ごしていた自宅の部屋で行ないました。愛用の物を棺に入れたらどうかと、葬儀屋から言われました。しかし万年筆なんて入れたら、「まだ原稿を書かせるつもりか」って怒るに決まっています。
結局、その日の朝刊を入れました。新聞と本は大好きで、意識をなくす直前まで読んでいましたから。ちょうど、夫の死去を伝える記事が一面に出ていた産経新聞で、畳むと胸の位置に自分の顔写真がありました。
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