背広が大嫌いだったので、お気に入りのベージュのセーターを着せ、その内側に、前の夜に書いた手紙を入れました。長い手紙を書いたら「めんどくさいから読まない」と言われますから、たった三行の手紙です。三行半(みくだりはん)じゃなかったんですけどね(笑)。三浦朱門に感謝していましたから、その気持ちを短い言葉にしたのです。私は両親の仲が悪くて苦労の多い子ども時代を過ごし、結婚して自分の家庭をもって以来、とても気楽で幸せになったからです。文学でも、夫は私を導いてくれました。
『新思潮』という文芸雑誌の同人として、私たちは知り合いました。昭和二十六(一九五一)年のことです。初めて会ったのは新宿駅で、「何番線ホームのごみ屑籠のそばに立っていろ」と指定されて、その通りにしたんです。やって来た夫は、染めてもいないのに髪の毛が赤くて、はちみつ色のジャケットを着ていて、あの頃、軽薄でおかしな人をイカレポンチと呼びましたけど、「こういう人のことかな」と感じたのが最初の印象です。
話してみたら実際にずれていて、「僕は嘘つきです」って言うんですよ。「自分から嘘つきって言うところを見ると、実は正直な人なのかな」と考えたりしましたが、父が厳格すぎる人でしたから「いい加減な人のほうが楽でいいや」と思ったのです。
結婚したとき私は二十二歳で、まだ聖心女子大の四年生でした。どうしてそうなったのかよくわからないのですが(笑)、「夏休みも食えるようになったら、結婚してください」と言われたんです。夫はそのころ大学の時間講師をしていて、夏休みは月給が出なかったからです。
評判や外面や世間体をまるで気にしない人でしたから、一緒に暮らすのはとても楽でした。私が出かけるとき見送りに出てきて、「じゃ、夜は天ぷらを揚げておくからね」なんて、わざとご近所に聞こえる大声で言うんです。私が編集者と出かけたあとに「奥さんいますか?」という電話を取ったときは、「さっき、誰か男の人と出て行っちゃいました」と答えたそうです。横で聞いていた秘書は、笑い転げていたそうです。
またあるときは、電話で「はい、はい、すぐに伺います」って恐縮しているので「何?」と訊いたら、
「床屋がかけてきて、『今日あたりそろそろどうかね。空いてるし、もう伸びてるだろう』って。向こうから命令してくる床屋って面白いだろ」
と言います。そんなふうに、普通とはちょっと逆で、どこかつじつまの合わないことが好きだったのです。
六十三年の結婚生活の間、いつも夕食のあとにいろいろな話をしました。「今日、取材に行ったらこんなことがあって」などと話すのですが、どういう小説を書くかは言いません。素材が面白いんですから。
そもそも、お互いの作品を読みませんでした。生活が忙しいので、時間を稼ぐには相手の作品を読まないところから始めるのが穏当なんです。ですから、作品について辛辣(しんらつ)な批評などしたこともありません。私は「死んだら読むわね」なんて言っていたけれど、この調子だと読まないで終わっちゃうかもしれませんね。
亡くなって一年たちましたが、私は、青い空に三浦朱門の視線を感じたり、声が聞こえると思うときがあります。
声といっても霊的なものではなくて、いかにも夫の言いそうなことがわかるのです。亡くなった五日後に予定していたオペラを観に行ったのも、「オペラに行かないと、僕が生き返るか?」と言うヒニクな声が聞こえたからでした。
三浦朱門の視線が青い空にあるとすれば、見慣れた生活をしているほうが戸惑わないだろうな、と思います。できるだけ以前と変わらない生活を続けることを、三浦朱門は望んでいるだろうと。自動車も古くなったってそのままでいいし、食べ物も相変わらず、庭で育てた大根を煮て食べていればいいと思っています。家も古いからあちこちおかしいんですけれど、どうせ私があと数年で死ぬから、建て替えないほうがいい。
急に家を白く塗り替えたりしたら、「俺の家はどこだ」ってわからなくなっちゃうと思うの。勘の悪い人でしたからね。ですから何も変わらないというのが、何となくいいように思っています。
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