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平松洋子のエッセイ作品を読んで、まず浮かぶのは「しなやかな生活感覚」という言葉である。市場価格が高いものも、低いものも、手間がかかる逸品も、あるいは有名チェーン店の餃子であっても、平松さんは絶対的な物差しで順番をつけることはしない。彼女の物差しは常に柔軟だ。
彼女のエッセイ、とりわけ本シリーズの読後感は寄席の紙切り芸を見たあとの感覚に近い。芸人は客席からお題を募り、白い紙にはさみを入れて日常の一コマを切り出していく。完成品を見ると、自分にも起きるような日々の瞬間がなんだかとても粋なものに感じられる。相手に敬意を払う取材を欠かさず、目の前にある食べ物を真正面から味わい、楽しむことに全力を傾け、美味なる瞬間を鮮やかに切り取った文章もまたどこか粋という言葉がふさわしいように思えるのだ。それを支えているのが、彼女特有の立ち位置だろう。都市の片隅で、日々の仕事や暮らしに小さな楽しみを見つけながら生活するひとりの女性の感覚からけっして離れない。
彼女のライフワークとも呼べる本シリーズだが、『いわしバターを自分で』はシリーズの中でもこれまでとは少しばかり作風が異なる。シリーズのタイトルには地名が冠されるのが通例なのだが、それも消えてしまった。理由は言うまでもない。新型コロナ禍だ。2020年から流行が本格化したウイルスは瞬く間に世界中に広がり、街から人が消えた。飲食店で落ち合って、食事を共にし、酒を酌み交わすことそのものが感染拡大を助長するハイリスクな行為とされる。外に出るのではなく家にいること、会って話すことよりもパソコンやスマートフォンの画面越しで話すことが推奨され、2021年になって長期化した「緊急事態宣言」は“日常”になった。時代の空気は一変した。
僕のようなライターの仕事もいくつかの影響を避けることはできなかった。取材に出かけるときも相手の意向を確認し、オンラインを希望されたときは尊重する。取材時にマスクを着用したり、距離を取ったり、「ワクチンをいついつ接種した」と説明したりすることはすっかりマナーになってしまった。おそらく、平松さんの仕事も同じような問題に直面したと思う。これまで当たり前のように旅や散歩に出て、当たり前のように注文し、当たり前のように食べてきたものがエッセイの題材になっていたのに、それが遠のいてしまった以上、どうしても仕事への影響は出てしまうからだ。
時代の影響もあってか、本作はこれまで以上に平松さんの不安が率直に吐露されるシーンが多い。彼女が住む「個人商店の集合体」のような街から聞こえてくる苦しい声、張り詰めた緊張感を感じ取り、「生き抜かなければと気を取り直す」。ここでも一つの物差しで物事を判断せず、営業を自粛した飲食店にも、しぶとく営業を続けることを決めた店にもそれぞれの事情があると想像する。取引先からの注文がぱたりと止まってしまった伊豆のわさび農家の言葉を聞きながら、「それを“経済活動がストップ”とひと括りにすれば、百の産地が抱える百通りの事情や状況がザルの網目からこぼれ落ちてしまう」と考える。彼女自身も連れ合いの発熱に焦るという経験をした。普段なら病院に行けば済む話が、一気に緊迫感ある非日常になってしまう。
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