本書を読んだ後で私は、国分寺崖線の下、野川沿いにある世田谷ビジターセンターを訪れた。この辺りが「あっち」につながっているらしい。あっちがこっちに来るのかこっちがあっちに行くのか、判然としないが、ともかくあっちこっちするという。
何も起こらない。そりゃそうだ、本書の「あっち」は横尾忠則だから開けてくる世界であって、私がここに来ればそれでここがあそこになるというわけではない。しかし、ここに来て、この荒唐無稽とも思われる小説が、まさに著者にとってのリアルなのだという感触を確かめたかった。
この崖の上にアトリエがあり、神明の森が広がっている。――原郷の森だ。そこで私も原郷の森に入ってみる。なに、簡単だ。本書を開けばよい。
原郷の森に時間はない。だからそこに物語はない。古今東西の死者たちが入れ代わり立ち代わり現われ、美術について、小説について、映画について語る。デュシャンに対してピカビアが「お前は頭デッカチだ。臆病だ」と言い放つ。ダ・ヴィンチが出てきて「皆さんの描く絵は美術館での展示を想定しています。だから、もの凄く文学的になっています。昔は生活の中に絵画があった」と言う。ああ、なるほどなあと私は思う。稲垣足穂が「少年の存在というのは常にY字路の前で立ちつくすという存在ではないのか」と言うと、それに対して三島由紀夫が「私はY字路の前で椿事の起こるのを待っていた」と応じる。横尾忠則のY字路の連作に感嘆してきた者としてはドキッとするような言葉である。
こうして、とほうもない言葉と想念のパノラマが繰り広げられる。おそらくここにおいて、横尾忠則は著者というよりも、一個の媒体(medium)なのだ。彼は次々に降り注いでくる言葉を記録する。だから、読者はこれを一つの創作として読むのではなく、横尾忠則のリアルな体験として読むべきなのである。
ピカソも谷崎潤一郎も登場するが、そんな中に混じって、亡き愛猫タマも姿を現わす。
タマ「あなたと私がいた成城の時代は祝祭ですよ」
俺「タマはいいこというようになったね」
ちょっとほっこりする。
最終章ではみんながよってたかって最近の横尾忠則の作品についてあれこれ語り、それに対して横尾氏は「今日は色んな人がぼくの近作について語ってくれたけれど、自分ではこんな風に語れない」と応じる。でも、これ、自分で書いてるのでしょう? いや、だから、本書に溢れている言葉は、横尾氏を通り抜けて響いてきた声なのだ。
バミューダ・トライアングルでは、海底から発生した大量の泡が船体を覆い、船が浮力を失って沈没するという説がある。私も、魔の海域に入り込んだかのように、沈没した。
よこおただのり/1936年兵庫県生まれ。美術家。毎日芸術賞、旭日小綬章、朝日賞等受賞・受章多数。著書に『ぶるうらんど』(泉鏡花文学賞)、『言葉を離れる』(講談社エッセイ賞)、『横尾忠則 創作の秘宝日記』、『GENKYO 横尾忠則Ⅱ Works』等。
のやしげき/1954年生まれ。哲学者。東大名誉教授、立正大学教授。近著に『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』という戦い』。
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