- 2022.05.31
- 文春オンライン
「CMに入ると赤ちゃんが心配でドキドキしてしまって…」 日テレ・永井美奈子元アナが“テレビから完全に離れる”までの“迷い”
長野 智子,永井 美奈子
『全力でアナウンサーしています。』(吉川圭三)刊行記念座談会
出典 : #文春オンライン
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
「芸人さんがスカートの中にはいってきたり……」長野智子が語る“全力でアナウンサーをしていた”時代 から続く
1980年代に「女子アナブーム」を巻き起こし、テレビの黄金時代を担った長野智子さんと永井美奈子さんが、映像メディアの舞台裏を語りつくす。司会は、日本テレビでプロデューサーを務めた吉川圭三さん。女性アナウンサーのセカンドキャリアに迫る。(全2回の2回目。#1を読む)
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「本当に自分のやりたいことじゃない」という逃げ
吉川 長野さんは、「ひょうきんアナ」として全国的に知名度を得て、永井さんは「24時間テレビ」の総合司会を担当された後、お二方ともフリーアナウンサーへと転身します。その決断を振り返って、いかがですか?
長野 結婚して会社を辞めたのは27歳の時でした。そこからフリーアナウンサーとして、バラエティの仕事をたくさんいただきました。華やかで楽しくて、やりがいもありました。
ただ、これまでフジテレビの長野智子として、全力投球してきたんですが、「フジテレビ」が取れて、ただの「長野智子」となると、出演している芸人の方と同じポジションになる。彼らは、人生をかけて戦っている。報道をやりたかった私の場合はどこかに、「本当に自分のやりたいことじゃない」という逃げがあって。そんな風に考えている自分に嫌気がさしてきたんですね。
夫の海外転勤で6年間ニューヨークへ
永井 局アナ時代は、司会の役割が多かったので、ひな壇に芸人さんやタレントさんと並んだことがなかった。フリーとして同じ立場になって感じたのは、「腹のくくり方が違うな」と。みなさんは、「生きるか死ぬか」で芸能界に飛び込んできている。就職試験を受けて会社員として、この仕事をスタートしている私は甘いな、と痛切に感じました。
「笑っていいとも!」のレギュラーの仕事をいただいたことがあったんですが、どこにも自分の居場所がなくて、「居た堪れない」とずっと考えていました。「ギャランティを頂いているのにごめんなさい」って。
長野 テレビ局の看板の大きさを、フリーになった瞬間に感じますよね。そして32歳のときに、アメリカに行く決断をしました。
永井 あの決断には驚きました。
長野 夫が海外転勤で6年間、ニューヨークに行くことになったんです。彼は日本に残って仕事を続けていいと言ってくれたのですが、報道という目標に挑戦する最後のチャンスだ、と。すべての仕事を断って、渡米を決断しました。海外赴任が終わる6年後が2001年と聞いて、「21世紀になって戻ってきたら、私のことを誰も覚えていないだろうなぁ。でも今よりも自分自身を好きになっているはずだ」と、思いながら。
永井 ニューヨーク大学大学院で学んでいた長野さんに会いに行きましたよね。
長野 そうそう。一緒に食事をしていろいろ話したよね。
永井 私が会社を辞めるか辞めないかくらいの時期でした。同じころに、上司から「永井は踊り場のない階段を上り続けてきたからな」と言われたことを覚えています。長野さんの学ぶ姿に刺激を受けて、私も「いったん仕事を離れて充電をして、いろんなことを吸収しよう」と思ったんです。少し先になりますが、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科で勉強をすることもできました。
結婚、出産、子育てと仕事。
長野 永井さんがフリーアナウンサーをしながら出産をしたのはいくつのときでしたか?
永井 36歳ですね。こうみえて、テレビの仕事は命がけでやっていたんです。
吉川 働く姿を見ていたからよく知っています。
永井 その「命がけ」が影響したのかもしれないんですけれど……。第一子を産んだ1か月後に、愛子様がお生まれになって、ご生誕記念の特別番組の司会として復帰させていただいたんです。実家の両親や主人にもサポートしてもらって、万全の態勢で臨んだのに、本番中は集中出来るのですがCMに入ると、赤ちゃんが無事か心配でドキドキしてしまって。「何かにはさまれてけがをしていないか」「ちゃんと息をしているか」ということばかりが頭に浮かんで。生放送が終わると、猛スピードで家に帰ったんです。
長野 そんなことがあったんですね。
永井 そのときにいろんなことを考えました。
スタッフのみなさんが懸命に準備して、それを最後に仕上げるのがアナウンサー。責任の重い仕事なんです。それを「子供のことを気にしている」状態で続けていくのは、仕事にも、子供のためにもよくないな、と思って。
日本に帰国する決断
吉川 子育てを最優先にする決断をしたんですね。その逸話は、小説『全力でアナウンサーしています。』のなかでも、使わせていただきました。仕事と結婚、出産、育児というのは、とても大切な問題ですよね。
永井 仕事はキャリアを重ねることで、うまくバランスがとれますが、子育ては、親の思い通りにはいかないことの連続です。私は不器用でしたから、両立は難しかったですね。アナウンサーって真面目な人が多いので両方完璧にやろうとして壁にぶち当たる事があるのかもしれない。
長野 すべてのテレビの仕事から離れる、という決断に後悔みたいなものはある? というのは、すごく悩んだんじゃないかなぁと思って。女性アナウンサーはテレビの仕事が大好きで、世間が思っているよりも、全力で取り組んでいると思うんです。そのなかで、仕事か育児か、どちらかを選択しなくちゃいけない、というのは、大変な決断だと思うんです。
永井 それが正しかったかどうかは、死ぬときになってみないと分からない。上手に両立している人も沢山いるので、人それぞれに最良の選択肢があると思いますけれど。
長野さんのすっぱり仕事を辞めて渡米した決断も、凄かった。でもそこで充電したことが次のステップに繋がりましたよね。
吉川 日本に帰国する決断はどんなタイミングだったのですか?
長野 テレビ朝日の方がわざわざニューヨークまで来てくれて、「ザ・スクープ」のキャスターのオファーをしてくださったんです。報道の仕事をするために勉強していたので「キター」って、夫を置いて帰国しました(笑)。
永井 そこから「報道ステーション」や「サンデーステーション」など、まさに報道を舞台に戦ってこられましたよね。
「女子アナ」と呼ばれて。
吉川 ジェンダー問題が、きちんと議論される時代に、お二人は、「女子アナ」と呼ばれていたことをどう感じますか?
長野 私がフジテレビに入社した翌年くらいから、女性アナウンサーが大勢出演する「女子アナスペシャル」といった特番が組まれるようになりました。
永井 「女子アナ」と言えば、フジテレビのアナウンサーたちを指す言葉でした。私が日本テレビに採用されたときに、「フジテレビっぽい人材が欲しかった」と言われました。内定の調印式の時には「君を採ったのは冒険だった」とも(笑)。フリーアナウンサーになってからも、「フジテレビ時代にね」と声をかけられることも多くて。私は日テレなんですけれど(笑)。
吉川 プロデューサーの立場から言うと、永井さんに司会をしてもらうと、番組に華やかさが増すんです。かつ、出演者のいい面を引き出す能力も抜群でした。ビートたけしさんは、いつもご機嫌でしたからね。今の時代、こういった表現で評価することはダメかもしれないですが……。
アナウンサーをタレントのように売り出した時代
永井 吉川さんの小説『全力でアナウンサーしています。』の帯には「30歳限界説」「アイドル化」「結婚」と書かれていて、「女子アナ」の存在について、論考されていますね。
吉川 現役のアナウンサーや、アナウンス学校で教鞭をとっている方にも話を聞いて、「女性アナウンサーの今」について書きました。
長野 「かわいさを武器に隣で座っていたらいい」という女性アナのステロタイプをテレビ局が生み出しているとの批判があると思います。それを踏まえたうえで、誤解を恐れずに言うと、テレビ局が自社の社員であり、地味な職種であるアナウンサーを、ある種タレントのように売り出した。そのことを時代が新鮮に受け止めた。私も局の顔として、いろんな方に知ってもらって、いろんな仕事に繋がった。テレビというメディアも成長していった。私たちの時代では、ある種「WIN-WIN」の部分もあったと思うんです。あっ永井さん、同じ時代にしてごめんね。
「女子アナ」というワードによる、会社・個人の成長
永井 いえいえ、一緒です(笑)。私は今、「女性アナウンサーという生き方」というテーマで講演をすることが多いのですが、局アナというのは、いろんなことを経験できるんです。そのことを「チャンス」と捉えれば、抜群に面白い仕事だとお話ししています。これまでの経験を生かして、音楽フェスをプロデュースしたり、大学で講義をしたりしていますが、入社した時は、そんなこと思いもしなかったですからね。
長野 テレビ局の仕事は、毎日が文化祭みたいだったと言いましたが、個人的には「女子アナ」というワードは、キラキラと輝いた青春の思い出も含まれたものになっているんです。会社と私個人がともに成長させてもらえた時間でしたね。
永井 私もそう思います。後輩のアナウンサーたちを見て、みんな性格が良さそうだなぁということを元同僚に話したら、「違うよ、永井。性格がよく見えるのは、きちんと休暇を取っているからだよ」と言われたんです。私は、仕事の記憶がないくらいで、オンエア中も寝てしまうくらいの忙しい時代だったから、画面ではさぞ怖い顔をしていたんだろうなぁ。
長野 大丈夫、可愛かったから(笑)。
写真=杉山秀樹
長野智子 ながのともこ
1985年、フジテレビに入社、90年に退社し、フリーアナウンサーとなる。95年の秋より、夫の赴任に伴い渡米。ニューヨーク大学大学院において「メディア環境学」を専攻。99年5月修士課程を修了し、2000年4月より「ザ・スクープ」のキャスターとなる。「朝まで生テレビ!」「報道ステーション」「サンデーステーション」のキャスターなどを経て、現在は、国連UNHCR協会報道ディレクターも務める。
永井美奈子 ながいみなこ
1988年、日本テレビに入社。「マジカル頭脳パワー!!」「24時間テレビ」などを担当。96年に退社し、フリーアナウンサーとなる。「笑っていいとも!」などにレギュラー出演した。結婚、出産を経て、2003年慶應義塾大学政策・メディア研究科修士を修了、現在、同大学湘南藤沢キャンパス(SFC)上席所員、成城大学文芸学部で非常勤講師を務める。フリーアナウンサー、母、妻、研究者として多方面で活躍している。
吉川圭三 よしかわけいぞう
1957年、東京都生まれ。早稲田大学理工学部卒業後、82年に日本テレビ入社。「世界まる見え!テレビ特捜部」「恋のから騒ぎ」「特命リサーチ200X」などを手掛けた。アナウンス部長、制作局長代理などを経て、現在、ドワンゴのエグゼクティブプロデューサー。著書に『泥の中を泳げ。 テレビマン佐藤玄一郎』(駒草出版)、『たけし、さんま、所の「すごい」仕事現場』(小学館新書)、『ヒット番組に必要なことはすべて映画に学んだ』 (文春文庫)。
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