- 2022.05.31
- 文春オンライン
「芸人さんがスカートの中にはいってきたり……」長野智子が語る“全力でアナウンサーをしていた”時代
長野 智子,永井 美奈子
『全力でアナウンサーしています。』(吉川圭三)刊行記念座談会
出典 : #文春オンライン
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
1980年代に「女子アナブーム」を巻き起こし、テレビの黄金時代を担った長野智子さんと永井美奈子さんが、映像メディアの舞台裏を語りつくす。司会は、日本テレビでプロデューサーを務め、『全力でアナウンサーしています。』を刊行した吉川圭三さん。涙と笑いにあふれた女性アナウンサーの真実に迫る。(全2回の1回目、#2へ続く)
◆ ◆ ◆
「報道」を志すようになったきっかけ
吉川 このたびは、お集まりいただきまして、有難うございます。本日はテレビの黄金時代を担ったお二人に、映像メディアの光と影、いや、涙と笑いについて語っていただければと思います。
永井 数多くのヒット番組を手掛けた吉川さんの司会でしたら、安心してお話しできます(笑)。私は、ここにいらっしゃる長野智子さんが憧れの存在でした。川島なお美さんなどを輩出したミスDJリクエストパレードのラジオパーソナリティから、85年にフジテレビに入られたんですよね。
長野 えっ、ミスDJのことを知っていたの(笑)。当時はミスDJといっても私は話題にもならない存在だったからそんな華やかなイメージとはほど遠かったのですが。
永井 フジテレビの採用担当の方も知っていたと思いますよ。入社当初から報道志望だったのですか?
長野 入社の際はまったくの白紙でした。最初は「夜のヒットスタジオ」のリポーターを担当していたんですが、85年8月に「日本航空123便墜落事故」があって、新人の私も取材に駆り出されました。このときから、「報道」を志すようになったんです。
鼻濁音のある自分の姓を恨んだ
永井 その思いとは裏腹に、「ひょうきんアナ」への道を……。
長野 当時、上司だった露木茂さんに、「報道をやりたいんです」と伝えていたんですが、そうしたら、天気予報を経て、今の「めざましテレビ」の枠で、川端健嗣さんとともに、メインの司会を担当させてもらうことができました。このまま報道の道を歩んでいけるかな、と思っていたら、入社2年目に、「長野、秋から『ひょうきん族』だから」と言われて。
永井 突然ですよね。その理由は説明をうけたのですか?
長野 プロデューサーの横澤彪さんから「朝の番組で踊る天気予報、というコーナーを担当していたのをみて『こいつは面白い』と思った」から、だと。
永井 あの頃、「女子アナ」と言えばフジテレビでしたから、私もフジの入社試験を受けたんです。ところが露木茂さんに落とされてしまって(笑)。「はい、自己紹介して」「永井美奈子と申します」と答えた瞬間に、「『が』は鼻濁音なんですよ」と。今では笑い話になっていて露木さんにも可愛がっていただいていますけれど。
長野 私も入社前は、アナウンス研修なんて受けていなかったよ。
永井 長野さんはきっと、「が」が発音できたんですよ。私は、鼻濁音のある自分の姓を恨みました(笑)。
一番忙しい時期の記憶が曖昧
吉川 長野さんは、「オレたちひょうきん族」の「ひょうきんアナ」として、また永井さんは、日本テレビ開局40周年企画の女性アナウンサー3人組歌手ユニット「DORA」の一員として、一世を風靡しました。お二方の在局中の一番の思い出って、なんでしょうか。
長野 思い出がたくさんありすぎて迷いますね(笑)。
永井 私はなさ過ぎて。
長野 えっ、どうして?
永井 あまりに忙しい日々だったので、「DORA」として活動していた時期の記憶がほとんどないんです。
長野 ピンクレディーみたいな発言!
永井 そういうと烏滸がましいのですが、一番忙しい時期の記憶が曖昧で。ただ、目の前の仕事をこなしていたから、当時のことをあまり覚えていないんです。月の残業が200時間を超えていて、警備室の方から仮眠室の鍵を「これは永井さん専用ですから」と渡されていましたから。
長野 200時間はすごい! 私は184時間かな。フジテレビの仮眠室は男性の方も利用していたから、「寝るときはヒールの靴だけは隠したほうがいい」とアドバイスされていました。
永井 私は鍵のある個室だったので、そこは助かりましたね。
番組内での「公開セクハラ」
長野 さすが、日テレ! 私が真っ先に思い出すのは、「ひょうきん族」に出ることになったときに、たけしさんやさんまさん、島田紳助さん、片岡鶴太郎さんなど、一流の芸人と共演することになって、どうしたらいいの?と戸惑ったことですね。
永井 ニュースを読む技術などは、トレーニングできますが、バラエティの技術は努力する方法が難しいですよね。
長野 そうなんですよ。当時、収録が夜中の2時、3時に終わってから、朝まで飲みに繰り出したりすることも多くて、共演者はものすごく仲が良かったんですね。だからとても楽しかったんだけれども、自分はどうすればいいのか、悩みに悩んでしまって……。休みになると一人で新幹線に乗って、大阪の「うめだ花月」(演芸場)に通っていました。舞台を見ながら、「大阪の人はどうしてここで笑うのか」とメモを取りながら(笑)。
永井 長野さんとは長いお付き合いですが、初めて聞きました。
長野 プロデューサーの横澤彪さんに相談したら、「長野は天才型じゃない。だから壁にぶつかったときに乗り越えようとはせず、壁の前で諦めずにうろうろしていなさい。そうすればいつか壁の中に扉が出てくるから、そのとき、扉を開けて壁の向こうに行けばいい」と。この言葉で肩の力が抜けました。
永井 さすが横澤さん。
長野 まあ、番組内では「公開セクハラ」にあってはいましたけれどね……。
吉川 日曜の夜8時台に、西川のりおさんに、胸をわしづかみにされているシーンが放送されていました。
「作っている人が楽しくないと、見ている人も楽しくない」
長野 ロングスカートを穿いていると、ジミー大西さんが必ずスカートの中に入ってきたり(笑)。西川のりおさんがいつものように私に抱き着いてきたときに、山田邦子さんが「長野、蹴とばしちゃいなよ」と耳打ちしてくれたんです。「いいんですか?」と聞きつつ、思いっきり蹴飛ばしました。「変なアナウンサーが出てきた」と、話題になって、みなさんに顔と名前を覚えていただいた(笑)。
永井 それが、「うめだ花月」に通った長野さんの前に現れた「扉」だったんですね。
長野 山田邦子さんには感謝です。スタッフ、出演者たちとの奇蹟的な出会いは宝物です。「面白いものを作ろう」という同じ志を持った仲間たちと、一生懸命、全力で準備をして、なんとか放送にこぎつけて、打ち上げをして。テレビ局って、毎日が文化祭だな、と思っていました。
永井 すごく分かります。文化祭当日にどれだけのことができるか、と。私も含めて、残業時間や福利厚生のことなんて、まったく考えてない人たちばっかりでしたね。
長野 今の時代にこんな話をしていたら、「何を言っているんだ」と叱られると思いますが、当時はそんな雰囲気だったんです。
永井 あの当時の日テレは4冠王でそれを牽引した演出家の一人が、吉川さんでした。「世界まる見え!テレビ特捜部」「恋のから騒ぎ」手がける作品全部ヒット作でしたよね。私も特番で良く声をかけて頂きましたが、吉川さんには決して妥協というものがない。
吉川 私もむちゃくちゃでした(笑)。ただ、「作っている人が楽しくないと、見ている人も楽しくない」という考えで仕事をしていましたね。
業界の逸話をブレンドし、キャラクターを作り上げた小説
ところが、体重がみるみる増えて、危険領域に達してドクターストップとなったときに、プロデューサー職をいったん離れて、アナウンス部に部長として配属されたんです。そのときに、目の当たりにした「アナウンサーたちの生き方」が面白すぎて、今回、小説として『全力でアナウンサーしています。』を書かせていただきました。誰も食べたことがない珍味のような小説ができたとは思うんですが……。
永井 噛めば噛むほど、味わい深かったです。
吉川 キー局の看板アナウンサーたちを「引きずり降ろそう」とするテレビ局の「闇」の勢力がありまして、それに対して戦う人たちを描いた話です。
長野 私は、登場人物があまりにも濃くてびっくりしました。ありえない話の連続で、どこかにモデルがいるのかな、って。フジにはこんな人いなかったですが、日テレにはいたのかしら?
吉川 直接のモデルはいないんです。小説を書こうとおもったときに、7人のテレビ局のアナウンサー経験者に取材したり、自分が見たことを交えたり、この業界にあった逸話を、いくつもブレンドして、キャラクターを作り上げていったんです。
長野 女性アナウンサーを目指す人は、心のどこかに欠落がある、という文章があって、「もしかして私にも、そういうところがあったりするのかな」と、ちょっとドキッとしました。
限りなくフィクションだが、時折リアルの香り
永井 アナウンサーの持ち物、どういうところで飲み会をして、どんなところで食事をするかなど、そういうところは全てリアルでしたけれど、本来、アナウンサーって、地味な仕事ですから、それをここまでのエンタメにするのは、さすがだなと思いました。
長野 女性アナウンサーって、お互いのことを意識していないんですよね。それぞれの現場のことしか考えていない。仕事で一緒になることなんて、「女子アナスペシャル」といった特番くらいですからね。
永井 まさにその通り。でも女性アナウンサー同士が絡まないと、物語にならないですからね。この小説は、限りなくフィクションなんだけれど、私は時折、リアルの香りがして怖かったですね。
吉川 後編では、女性アナウンサーの結婚、セカンドキャリアについて、うかがっていきたいと思います。
写真=杉山秀樹
長野智子 ながのともこ
1985年、フジテレビに入社、90年に退社し、フリーアナウンサーとなる。95年の秋より、夫の赴任に伴い渡米。ニューヨーク大学大学院において「メディア環境学」を専攻。99年5月修士課程を修了し、2000年4月より「ザ・スクープ」のキャスターとなる。「朝まで生テレビ!」「報道ステーション」「サンデーステーション」のキャスターなどを経て、現在は、国連UNHCR協会報道ディレクターも務める。
永井美奈子 ながいみなこ
1988年、日本テレビに入社。「マジカル頭脳パワー!!」「24時間テレビ」などを担当。96年に退社し、フリーアナウンサーとなる。「笑っていいとも!」などにレギュラー出演した。結婚、出産を経て、2003年慶應義塾大学政策・メディア研究科修士を修了、現在、同大学湘南藤沢キャンパス(SFC)上席所員、成城大学文芸学部で非常勤講師を務める。フリーアナウンサー、母、妻、研究者として多方面で活躍している。
吉川圭三 よしかわけいぞう
1957年、東京都生まれ。早稲田大学理工学部卒業後、82年に日本テレビ入社。「世界まる見え!テレビ特捜部」「恋のから騒ぎ」「特命リサーチ200X」などを手掛けた。アナウンス部長、制作局長代理などを経て、現在、ドワンゴのエグゼクティブプロデューサー。著書に『泥の中を泳げ。 テレビマン佐藤玄一郎』(駒草出版)、『たけし、さんま、所の「すごい」仕事現場』(小学館新書)、『ヒット番組に必要なことはすべて映画に学んだ』 (文春文庫)。
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