- 2022.06.15
- 書評
名もなき人々の視点から描いた〈安史の乱〉。清張賞受賞の一大歴史ロマン
文:三田 主水 (文芸評論家)
『震雷の人』(千葉 ともこ)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
先に述べたように唐の人々を大いに苦しめた安史の乱の被害は、本書でも随所に描かれるように、長安や洛陽をはじめ、燕軍が攻め込んだ先での蛮行が、その大半の原因であることは間違いありません。しかし同時に、それを防ぐ力を持ちながらもそうしなかった、そうさせなかった唐の政の疲弊と腐敗を無視するわけにはいきません。燕軍を迎え撃つべく出陣した将軍を些細なことから更迭し、罰する。それでいて迫る燕軍に立ち向かうこともなく、民を見捨てて逃げ出す――二人の主人公が――特に安禄山らを追って洛陽、そして長安へと旅する采春が目撃したように、唐という国の乱れこそが、安史の乱を生んだといえます。
しかし、世を乱し人々を苦しめるのは、こうした国というシステムや、それを直接動かす人間たちだけではないことをも、本作は鋭く抉りだします。本作の冒頭で描かれる、軍人になる前の張永――彼は下級役人として大雨への対策に当たり、誰よりも避難の必要性を訴えながらも無視された上に、いざ実際に被害が出てみれば上司から全ての責任を押し付けられただけでなく、町の人々からもいわれのない憎しみをぶつけられてきました。それは理不尽な出来事に対して何の力も持たない人間の、止むに止まれぬ行動の帰結かもしれません。しかしそこにはむしろ、いわゆる同調圧力――周囲と異なる意見を持ち、行動する者に圧力をかけ、時には敵視する、人間の悪しき心の動きがあると感じられます。
話が変わるようですが、冒頭に触れたように、本書は二〇二〇年に刊行された初版の単行本に、大きな加筆修正を加えたものです。その加筆修正は、新たに付け加えられた物語の冒頭と結末を含め、驚くほどの分量に及ぶのですが――そのため、本書は初版を御覧になった方でも新鮮な気持ちで読むことができることは間違いありません――その大半は、この物語が描かんとするものをより明確に、より鋭く浮き彫りにするためのものであると言ってよいでしょう。そしてその中で、キーワードとなる言葉が幾つか存在します。
その一つが「悪い流れ」です。力で以て他者を圧し、己の意を通さんとする。己の利を貪るために、他者を踏みつけて顧みない。自分の無力さから逃れるために、他者を生贄とする――そんな人間の悪行・愚行は、決してそれぞれが独立して行われるわけではありません。一つ行われればそれは社会の箍を緩めて他の行いを呼び、そしてそれがさらに更なる行いを招く――そして世の中は際限なく悪い方向に転がっていき、その果てに待つものは、安史の乱のような巨大な死と暴力であると、本作は訴えます。
しかし、このような「流れ」に対して、一人の人間に為すすべはあるのでしょうか。例えば相手が安禄山のように形ある存在であれば、采春がそうしようとしたように力によって除くことができるかもしれません。しかしこの「流れ」は、言うなれば人間の心の有り様の現れなのです。
それでは、人間は全く無力な存在なのでしょうか。ただ流されて犠牲になっていくしかないのでしょうか? ――否、と本作ははっきりと語りかけます。確かに一人の人間にできることは限りがあるかもしれない。しかしそれでも、人間は自分だけの意思を持って、世をより良き方向に変えるために行動を始めることができる。仮に一人が道半ばで倒れたとしても、その想いは他の人間に文字や言葉として伝わり、やがて本当に世を変えることができるのだと。
そしてそれは本書のもう一つのキーワード――「一石を投じる」という形で示されることになります。本作においては、先に引用した季明の言葉だけでなく、張永も采春も、いや、彼らの周囲の様々な人間たちも――誰かの投じた「一石」をきっかけに己の想いを改め、そこからそれぞれの形で「一石を投じる」のです。
そしてその「一石」が決して無駄な行動などではないことを、本作は極めて意外な登場人物の姿を通じて、ほとんど衝撃的に、そして極めて感動的に描き出すのです。死と暴力の化身のようなある人物を通じて……
本作の初版が刊行された二〇二〇年は、いわゆる「世界終末時計」が、カウントされて以来最短の、残り百秒を記録した年でした。そしてそれ以降も、世界は悪い方向に大きく動き続けているように見えます。疫病、気候変動、核問題――そして戦争と。
そんな「悪い流れ」に負けそうな時、自分が無力に感じられた時、自暴自棄になりそうな時――貴方に本作を手に取ってほしいと心から願います。たとえ極めて険しい道のりであっても、行く手に見えた希望が消えたように見えても、それでも人は「一石を投じる」ことができるのだと。そして全てはそこから始まるのだと――そう本作は伝えてくれるのですから。まさしく、震雷の如く力強く。
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