- 2022.06.15
- 書評
名もなき人々の視点から描いた〈安史の乱〉。清張賞受賞の一大歴史ロマン
文:三田 主水 (文芸評論家)
『震雷の人』(千葉 ともこ)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
唐の天宝一四(七五五)年に勃発し、終息までに実に八年を要した安史の乱。本作はこの未曾有の大乱で許婚を失った娘とその兄を中心に展開する一大歴史ロマン――第二七回(二〇二〇年)松本清張賞受賞作の雄編に、大幅に加筆修正を加えた作品です。
中国河北・平原郡の軍大隊長である張永と、彼の妹で武術の達人の采春、そして平原郡太守・顔真卿の甥・季明。親友である季明と采春の婚礼を目前に控え、明るい未来を夢見ていた張永たちの運命は、燕国皇帝を僭称する安禄山の蜂起により、一変することになります。
顔真卿の命を受け、叛乱軍を迎え撃つ張永と、兄を扶けて最前線で戦う采春、そして常山太守である父を支え、河北の各郡を糾合すべく奔走する季明。しかし味方の軍に裏切られた常山軍は籠城戦の末に敗れ、捕らえられた季明は賊軍に下るのを潔しとせず、凶刃に斃れたのです。
この突然の悲報に、許婚の仇を討つべく平原郡を飛び出し、旅芸人の一座に潜り込んで洛陽の安禄山の命を狙う采春。共に国を変えようと誓った親友の死に大きな衝撃を受け、妹の身を案じつつも、故郷を守るために戦いを続ける張永。それぞれの道を辿ることとなった兄妹は、やがて意外な形で再会することに……
唐の絶頂期から一転、一時は時の玄宗皇帝が首都・長安を捨てて逃げるという事態にまで至った大乱として、最近ではドラマ『麗王別姫~花散る永遠の愛~』など、しばしば中国の歴史ものの題材となってきた安史の乱。しかしそこで描かれる乱の姿は、「長恨歌」に描かれた楊貴妃の悲劇的な運命を含め、大所高所からの――歴史に名を残した人々のドラマとして描かれることが多かったと感じます。一方、この乱の死者は二次的なものも含めて一説によれば約三千六百万人――当時の唐の人口の三分の二が失われたとも言われています。数字の正確さはここでは措きますが、この乱の被害は、むしろ名もない庶民たちにとって、より大きなものであったのは間違いのないことでしょう。本作は、こうした名もない人々の視点から語られることになります。
そしてそれを代表するのが、本作の張永と采春の二人であることは言うまでもありません。二人は超人的な英雄豪傑でも貴顕の身分でもない、当時どこかにいたかもしれない、歴史に名の残らない庶民の一人なのです。
もちろん二人は、決して無力な存在ではありません。季明や顔真卿に見出され軍人として力を尽くす張永と、旅の僧俠から武術を学び、並みの武人では及びもつかぬ腕前を持つ采春と――特にこの時代に規格外というべき采春のキャラクターは、自らの手で許婚の仇を討つという動機づけといい、その目的に向けた破天荒で波乱万丈な冒険ぶりといいまさに俠女、中華冒険活劇の主人公に相応しい存在といえます。
しかし二人の、特に采春の運命は、物語半ばを過ぎた辺りで、全く思いも寄らぬ方向に向かっていくことになります。そして、その二人の運命の変転に大きく影響を及ぼすのが、物語の途中で非命に倒れる季明の存在なのです。
名書家である顔真卿の書に今も名を残す実在の人物である季明――彼は名門・顔家に生まれて尊敬する叔父のように書に打ち込み、そしてこの国を変えるべく政に情熱を注いできた、張永や采春とは生まれも育ちも全く異なる人物です。しかしその理想に燃える姿は二人を惹きつけ、彼らを友情と愛情で堅く結びつけることになります。
もっとも「武」の二人に対して、あくまでも季明は「文」の人。そのため物語冒頭で、彼は平原を襲った安禄山の子・安慶緒と対峙した際に、ただの書生と侮られることになるのですが――しかし彼はそこで一歩も引かず、言葉を返すのです。
「武力が人を動かすのはいっときではありませぬか。(中略)しかし、文字や言葉は違いますぞ。一字、震雷の如しといいます。ひとりでは何もできなくとも、人の書いた一字、発した一言が、周囲の人を変え世を動かすのです」と。
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