誉田の度を外れた厳しい指導に音を上げ、あるいは彼によって自尊心を粉々にされ、彼の元を離れたものの、どうしても精神的に離れられない江澤のような人たち。
ずば抜けた才能の持ち主と交際することによって、自身の凡庸さを思い知らされ、それゆえに対等なつきあいができないでいるあゆ子や有美。
才能や性差といった、錯覚も含めあらゆる意味での大きな「力」の前で、卑屈になり、媚びざるを得ない立場の人たち。
そして、「取り返しのつかないこと」にさいなまれる人たち。久文の妻は、夫は娘が倒れたときに飲み会にいっていたことを忘れることができないし、それによって久文もその日のことを忘れることができない。また、東北出身のあゆ子は、東日本大震災のときに実家にいなかったことに責めさいなまれている。そして誠もまた、終盤、取り返しのつかない事態にはじめて気づかされる。
これだけ多くのことが、誠の失踪というメインストーリーに付随している。ただ付随しているだけでなく、その本筋をふっと忘れてしまうくらい、生々しい肉声で語られていく。その肉声の強さが、小説に張り詰める緊迫感を作り出してもいる。
しかしながら、それぞれの肉声で語られるものごとは、わかりやすい解決を見ない。母と、再婚したフランス人の父とのあいだに何があったのかを誠は最後まで知らず、その父がどんな人であったのかもとらえられない。よって読者も、藤谷家がどんなふうないびつな家族であったのか、具体的には知り得ない。
あゆ子と誠が、この事件をまたいでどのような関係になるのかも、想像することができない。いや、公演に打ちのめされたあゆ子が、はたして誠を今までどおり恋人としてみられるのかどうかも、わからない。そもそもあゆ子と誠がどのような交際をしていたのかも、読み終えたあとではわからなくなってくる。
そして私には何より、終盤の、望月澪の声がうまく理解できず、非常に戸惑った。
しかしながら、その解決のなされなさ、理解できなさは、小説の欠点ではけっしてない。わかろうとしてもわかり得ないのが私たちの生きる現実であり、わかったつもりになることでふいに損ねることもあり得るのが、他者との関係性である。だから私たちはいつも、取り返しのつかない何かに向き合わされる。作者は、私たちの生きるそんな現実の生々しさを、この小説において再構築しようとしたのだと私は思う。豪と澪の関係を、私は有美と同様に理解できないけれど、でも彼らのあいだにあったのが愛でも絆でもなく、狂気に近いものであったことはわかる。さらに終盤で、有美が懸命に思考し理解しようとすること――ぜったいに力ではかなわないと感じ取ることによって、私たちは恐怖し、闘うことをやめて、服従し媚びることを自ら選ぶ、それがどういうことなのか、深く考えざるを得なくなる。
ここまでたくさんのテーマと問題提起を含有しつつ、もうひとつ重要なテーマがこの作品を覆っている。それは芸術とは何か、言葉をかえれば、人智を超えるという意味合いで、神とは何か、という非常に大きなものだ。
これだけ多くの登場人物に生身の声を与えながら、作者は誉田規一という人間にだけ、それをしていない。彼らの声によって誉田規一という人間は立ち上がるが、彼の声を私たちは聞くことがない。何を望み、何を求め、何を失い、何に苦しみ、何を目指しているのか、彼は語らない。誉田規一の声も感情も描かれていないため、小説の核の部分がまるで空白のように感じられる。この空白こそが、芸術とは、神とは何であるのかというテーマに通じている。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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