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冷淡な神に選ばれたい私たち

冷淡な神に選ばれたい私たち

文:角田 光代 (作家)

『カインは言わなかった』(芦沢 央)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #エンタメ・ミステリ

 もし誉田規一の心情がほんのわずかでも描かれていれば、読者はそこに彼の「人間味」を見るだろう。そして人間味を見てしまったら、彼独自の制作方法は、ある種、常軌を逸したハラスメントともとらえられかねない。しかし誉田の存在を空白としたことによって、この小説は、ハラスメントか否かという点で読者が立ち止まるのを防いでいる。この小説で、誉田の位置はそれこそ人智の及ばない領域にある。彼が何ものをも犠牲にしても追い求める舞台の完成度を、カンパニーのだれもが思い描くことはできない。それこそが神の領域にあるからだ。

 神さまが、なぜアベルの捧げものを喜び、なぜカインのそれに見向きもしなかったのか、聖書に説明はない。私たちそれぞれが解釈することはできるけれど、神さまの本意はわかりようがない。深い理由があるのかもしれないし、もしかしたら気まぐれかもしれない。私自身はキリスト教徒ではないので、キリスト教における神さまの概念とは異なると思うのだけれど、でも、歳を重ねるにつれて、神さまというのはもしかしたらものすごく気まぐれで冷淡な面もあるのではないかと思うようになった。熱心に祈れば聞き入れてくれるということもないし、信仰のあかしを行動で示したとしても、かならずしもそれに応えてくれるわけでもない。善き人がとんでもない方法でいのちを奪われ、理不尽な苦しみを私たちは試練ととらえることしかできない。

 それでも私たちは神さまに――神的なものに、選ばれたい。生きていることを認められたい。神さまも見過ごすほど自分はちっぽけな存在であると、どうしても思いたくない。

 神さまを、芸術とも才能とも言い換えることができることに、この小説を読んでいて気づかされた。どんな分野にせよ、それらにかかわることになったならば、喉から手が出るくらい私たちはそれを欲するし、それらに選ばれたい。しかしそれらは冷淡で気まぐれで、努力に報いるとはかぎらない。願いの強さに応えない。どんなに「媚び」ても通用しない。気まぐれに選んだふりをしたり、他者を選んだりして、私たちを翻弄する。

 しかしながら、そんなふうに人間を翻弄する宗教も芸術も、もとをただせば人間のためにある。人間に見向きもされなければ、成立しないという皮肉な矛盾がある。この小説の冒頭とラストに評論が置かれることによって、神の領域を目指す芸術家の作品をジャッジするのは、神ではなく、人間なのだと読み手は思い出す。作品は、神ではなく人間に捧げられている。そうして私は理解できなかった望月澪の言葉に、もう一度耳をすませることになる。彼女が何におびえ、何に抵抗したかったのか。「もう誰からもあの絵は、暴力にねじ伏せられている女性にしか見えなくなってしまう」。そうではないことをたとえ神さまが知っていたとしても、人間が「そう」判断すれば、そのように定着してしまう。彼女の悲痛な叫びが、読み終えてからようやく私の胸に響く。

 神とは何か、芸術とは何かと突き詰めながら、それらを受け取るのは、あるいは拒否するのは、濁とした現実を生きる私たちだと気づかせる。誠と豪の行方ではなく、それこそがこの小説最大の謎解きなのではないかと、私は衝撃を持って思う。

 小説内に「沼」の話が出てくるけれど、まさに、この小説そのものが、底の知れない沼のようだ。読みはじめたら、逃げられずに沈んでいく恐怖を快楽にかえて、読み耽るしかない。

文春文庫
カインは言わなかった
芦沢央

定価:858円(税込)発売日:2022年08月03日

電子書籍
カインは言わなかった
芦沢央

発売日:2022年08月03日

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