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忘れたことを忘れないために

忘れたことを忘れないために

文:古市 憲寿 (社会学者)

『帝国の残影』(與那覇 潤)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #随筆・エッセイ

 だが雉真稔の出征に涙を流すことで、あの戦争の記憶を継承したことになるのか。「歴史」を感じ取ったことになるのか。

 思い出すのは安田武の論考だ。恐らく雉真稔と同い年なのだが(9)、1922年に生まれた安田は上智大学在学中に学徒出陣、ソ連軍との戦闘を経て、捕虜となった。復員後は出版社勤務を経て、評論家になる。

 彼が訴えたのは戦争体験の「語りがたさ」だ。戦争体験は圧倒的で、それゆえ安易に一般化したり抽象化することができない。戦争体験とは、直ちに反戦や平和のメッセージに転化されるような、そんなわかりやすいものではない。

 もちろん、文筆家である安田は戦争について語る。語るのだが、そこには諦念と皮肉が満ちている。初出が1961年という「一九七〇年への遺書」という文章には次のようなフレーズが登場する。

「若い世代は『記憶というもの』をもたないからね。記憶がないからね」

「その上 旧い世代も忘れてゆくんだよ。記憶を喪失するんだよ(10)

 この諦念に、近年の與那覇さんの姿を重ねるのは、あながち見当外れでもないだろう。本書『帝国の残影』や『中国化する日本』を2011年に出版後、テレビや雑誌、SNSで「歴史学者・與那覇潤」は大活躍した。だが重度のうつにより、やがてメディアのみならず大学の職も離れてしまう。

 2018年から執筆活動を再開するが、そこで繰り返し語られるのは「歴史が終わった」という諦念である。実際、国家権力の拡大を警戒してきた人々が、感染症の流行に際して、容易く住民に対する私権制限に賛成したり、学者までもが容易くフェイクニュースに踊らされる様を観察していると、比喩ではなく「歴史が終わった」と思ってしまうことがある。

 

 もっとも「歴史の終わり」に希望を見出すことも可能だろう。

 與那覇さんは、近年の総理大臣談話を例に出しながら、歴史の語り方が「神話」に近付きつつあることを指摘する。舞台設定はあるものの、誰が主人公かがはっきりせず、登場人物を入れ替えれば、他の部族(国民)とも交換可能な物語の群れだというのだ(11)

 そのような時代だからこそ、近隣諸国の人々とも、歴史抜きの関係構築が可能なのではないか。実際、第二次世界大戦後のヨーロッパでも、「忘却の政治」に成功したからこそ、戦後復興が成し遂げられたという指摘がある(12)。1946年9月19日、イギリスのウィンストン・チャーチルは、ヨーロッパ合衆国を提案した有名な演説で、ヨーロッパが破滅的な運命から救われるためには、過去の犯罪と愚行に対する忘却(oblivion)が必要だと訴えている(13)

 だが戦後のヨーロッパが必要としたような戦略的忘却とは別の現象が起こっている可能性がある。まさに10年前の與那覇さんが危機感を抱いた身体知の問題だ。我々は、歴史を忘却したという事実さえ忘れ始めているのではないか。

 流れゆく記憶の堤防としての役割が小津映画にはあるのかも知れない。「昭和」や「あの戦争」を理解しようとする時に、本書を副読本として小津映画を鑑賞する価値は、ますます高まっているように思う(14)

 小津が、戦争を知っているからこそ、戦争を撮れなかった映画監督だとするならば、與那覇さんは、歴史を知っているからこそ、歴史を書くことに躊躇(ためら)いを感じている歴史学者とでも呼べるのではないか。こうして2011年に書かれた『帝国の残影』は、2022年の與那覇潤という「元・歴史学者」と不思議と符合する。

 だが小津が戦争の痕跡を作品に残し続けたように、與那覇さんの作品群もまた、歴史を現代に伝え続ける。結果的に、歴史の忘却に抗うことになるだろう本書が、こうして文庫化されることを喜びたい。一見すると「平和的」で「牧歌的」に思えてしまう小津映画の家族に「帝国の残影」を読み解いた「歴史学者」の能力は、これからも必要とされ続けるだろう。

 本人はそう呼ばれるのを嫌がるかも知れないが、與那覇さんは「昭和」や「戦争」を身体知と共に語れる最後の歴史学者の一人になるのだと思う。


(9)このようにさらっと書いたところで「フィクションと史実を混同するな」と怒る人も、もはやいないのだろう。

(10)安田武『戦争体験:一九七〇年への遺書』267-268ページ、ちくま学芸文庫、2021年。

(11)與那覇潤『歴史がおわるまえに』亜紀書房、2019年。

(12)飯田芳弘『忘却する戦後ヨーロッパ:内戦と独裁の過去を前に』東京大学出版会、2018年。

(13)Winston Churchill, speech delivered at the University of Zurich, 19 September 1946.

(14)與那覇さんに言わせれば、最もあの戦争の本質を捉えた映画は、宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』だと言う。クシャナと風の谷の王女ナウシカの対立が、日本近世と中国近世という二つの「文明の衝突」の戯画として解釈できる、というのだ。詳しくは『中国化する日本 増補版』214ページ参照。

文春文庫
帝国の残影
兵士・小津安二郎の昭和史
與那覇潤

定価:1,463円(税込)発売日:2022年10月05日

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