與那覇潤さんは比喩が上手だ。現代日本を「最も高度に発展した途上国」と表現したり(1)、平成史を「ループもののアニメ」に喩えたり(2)、あの網野善彦を「『もののけ姫』の事実上の原作者くらいに思っておいてください」と説明する(3)。
比喩というのは、物事に対する根源的な理解と、サービス精神なしにはできない。そう、與那覇さんは著者として、非常にサービス精神旺盛なのだ。手を替え品を替え、何とか歴史と現代を越境しようとする。
だから與那覇さんの著作である以上、何をテーマにしても面白いに決まっているのだが、それでも本書は少し特殊である。
タイトルにある通り、主役は映画監督の小津安二郎だ。配信で手軽に昭和の映画を観られる時代とはいえ、「小津安二郎って昔の映画監督だよね」「なんか家族の映画をよく撮ってたらしいよ」くらいの知識しか持たない人も増えているだろう(4)。
とあるベストセラー編集者から「100分の1の法則」を聞いたことがある。当代流行のエビデンスなどないただの経験則なのだが、「本はどんなに売れても、その主題に関心を持つ人の100分の1程度と思っておいた方がいい」というものだ。たとえば「日本」や「マネジメント」「お金」「話術」など、ほとんどの日本語話者が興味を持つテーマであれば100万部単位のヒットを狙えるが、元からマイナーな分野では自ずと上限がある。
その意味で、「小津安二郎」が主役の本は、令和の出版市場では少し分が悪い。しかも人間というのは、とことん死者に対して冷淡だ。どれほど時代を華やかに彩ったスターも、この世を去ってしばらくすれば、ほとんど顧みられることはなくなる。
一方で、蓮實重彦による批評を筆頭に、小津研究には膨大な蓄積がある。2012年の時点で映画学者の晏妮は「ここ二〇年、小津安二郎はもっとも多く語られてきて、また今後も引き続き語られていく映画作家の一人」と評価していた(5)。
つまり興味を持つ読者は限定的かも知れないのに、研究者によって小津は語り尽くされていそうという、難しい領域に與那覇さんは挑戦したことになる。
小津映画に描かれる「日本」と、現代の「日本」は、人々の心性から所作に至るまで大きく違う。映画監督志望の学生も、スタジオドラゴンの脚本術やA24のブランド戦略には興味を持っても、かつてほど小津安二郎を顧みることはない。何せ、小津がこの世界を去ってから、もうすぐ60年である。
だが実は、この時間にこそ、小津映画に着目する理由があるし、本書『帝国の残影』を手に取る意義がある。
小津をめぐる「大謎」
與那覇さんが明かすように、本書執筆の動機には、大学教員としての経験があったという。学生に小津映画を観せても、身体知を共有していないため、そこに「歴史」を感じ取ることができないというのだ。現代の学生にとって、小津映画は古代の木簡や近世の崩し字と近い存在になっているのではないか。
そこでサービス精神旺盛な歴史学者は、本書の執筆に踏み出す。言うなれば、與那覇さんは小津映画を比喩に用いながら、「昭和」や「戦争」という近代史に新しい光を当てようとした。だから小津ファンはもちろん、一作も観たことがないどころか観る予定もない読者にとっても開かれた本となっている。
むしろそうした読者の方が、本書にちりばめられた小津をめぐる数々の「謎」に対して、新鮮な気持ちでページをめくることができるだろう。
たとえば、『東京物語』に代表されるように、一貫して家族をテーマにした作品を撮り続けた小津は、自らは独身を貫いている。そもそも小津は様式美としての家族と家屋を描いたわけで、撮影当時のリアルな日本を活写したわけではない。「ブルジョワ趣味の絵空事」とさえ批判された小津映画を、なぜ現代人は「日本的」と思ってしまうのか。
そして本書の「大謎」は、副題にも掲げられた「兵士・小津安二郎」をどう理解するかという点にある。1903年に生まれた小津は、映画監督になった後の1937年から1939年にかけて、日中戦争に召集されている。
当時、小津は新聞のインタビューに対して「戦争を体験して初めて生きた戦争映画を作れるという自信がついた」「生還する暁にはこの体験を基礎にリアルな映画を作ってみたい」と語っている(本書21ページ)。
(1)NHK「新世代が解く!ニッポンのジレンマ『元日SP僕らが描く この国のカタチ2014』」2014年1月1日放送。
(2) 與那覇潤『平成史:昨日の世界のすべて』文藝春秋、2021年。
(3) 與那覇潤『中国化する日本 増補版:日中「文明の衝突」一千年史』文春文庫、2014年。ちなみに同書は2022年6月から最高裁判事となった今崎幸彦も「印象に残った本」として挙げている(「裁判所」ウェブサイト参照)。
(4)文春学藝ライブラリーを手に取る上に、このように文字の小さい注釈まで読む読者は別かも知れない(リップサービスです)。
(5)晏妮「書評 小津安二郎研究の新しい地平:與那覇潤著『帝国の残影 兵士・小津安二郎の昭和史』を読む」『歴史評論』No.744、2012年4月。同書評は、『帝国の残影』における暴力描写の検証など多くの研究者が見落としていたディテールへの注目、そして広範な歴史的文脈から小津を捉え直す試みを高く評価している。
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