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『スペンサー ダイアナの決意』――天才たちが映画に仕掛けた美しい魔法

『スペンサー ダイアナの決意』――天才たちが映画に仕掛けた美しい魔法

透明ランナー

透明ランナーのアート&シネマレビュー「そっと伝える」

出典 : #WEB別冊文藝春秋

 36歳の若さでの事故死から四半世紀経ってもなお色褪せない人気を誇るダイアナ妃。彼女を描いた映画『スペンサー ダイアナの決意』が全国で公開されています。

 舞台は1991年のクリスマス・イヴ。英国ロイヤルファミリーの人々はエリザベス女王の私邸に集まるのがならわしで、ダイアナもひとり車を走らせて向かっていました。

©Pablo Larrain

 屋敷に入るやいなや、玄関ホールで待ち構えていた侍従から体重を量るよう言われます。「クリスマスにたくさんご馳走を食べて幸せになるはずだから、ここを出るときには体重が3パウンドは増えていなければならない」。いきなり息の詰まるしきたりを強要されるダイアナ。彼女は当時摂食障害に悩まされていました。その後も度重なるストレスにさらされ、次第に精神を崩していきます。そして3日目の12月26日(ボクシング・デイ)、彼女は自身と王室の運命を決定づけるある行動を起こします。
 ダイアナの細かな仕草まで完璧に演じきったクリステン・スチュワート(1990-)は、本作でアカデミー主演女優賞にノミネートされました。

 この映画は有名人の生涯を順に追っていくようなありきたりな“伝記映画”ではありません。1991年12月24日から26日までの「運命の3日間」を切り取り、彼女の内面に起こった変化を丹念に描き出します。映画の冒頭で「A Fable From a True Tragedy」(現実の悲劇にもとづく寓話)と示されるように、現実のダイアナの人生をベースとしながら、そこから想像力を飛躍させ、普遍的で洗練された“寓話”を創り出しています。

 監督はチリ出身のパブロ・ラライン(1976-)。英語作品としてはジョン・F・ケネディ元大統領の妻ジャクリーン・ケネディをモチーフにした『ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命』(2016)に続いて2本目です。ちょうどこの記事を書いている最中、オペラ歌手マリア・カラスをモチーフにした新作映画(アンジェリーナ・ジョリー主演)の製作が発表されました。

 私は2009年にララインの日本未公開映画を観てから「この監督は天才! 今後とてつもない作品を生み出すはず!」とあらゆるところで言って回っていましたが、当時はチリ人の監督のことなど誰も知らず、相手にされませんでした(泣)。
 それから13年。全国でララインの作品が上映され、公開3日間で約3万人を動員し、洋画実写動員1位というスタートを切りました。長年のララインファンにとって感無量以外の何物でもありません。

 私には日本で最も早くララインを“発見”したという自負があり、本作のレビューを書けるのは心の底から嬉しいことです。この記事では彼の経歴を紹介しつつ、“天才”パブロ・ララインとスタッフたちが『スペンサー』に込めた美しすぎる魔法を解き明かしていきたいと思います。

私が好きなのはこちらのティザーポスター(米国劇場公開用ポスターに先行して作られたもの)です。映画を観た後でこの画を観ると胸がいっぱいになります。

天才パブロ・ラライン

 パブロ・ラライン。1976年、チリの首都サンティアゴ生まれ。両親は2人とも閣僚経験がある保守派の大物政治家です。弟のフアン・デ・ディオス・ララインは映画プロデューサーを務めており、兄弟で制作会社Fabulaを運営し、ほぼすべての作品を共同で制作しています。

 長編デビュー作「Fuga」(2006)がカルタヘナ国際映画祭などで賞賛された後、転機となったのは2本目の「Tony Manero」(2008)でした。

 舞台は1978年のチリ。映画『サタデー・ナイト・フィーバー』 (ジョン・バダム、1977)でジョン・トラボルタ演じる「トニー・マネロ」に異様な憧れを抱く52歳の男性が主人公です。「トニー・マネロそっくりさんコンテスト」の優勝を目指すうちに、次第にトニー・マネロと同化していき、中年男性は社会規範から緩やかに逸脱していきます。カンヌ国際映画祭監督週間に選出され、ロッテルダムやイスタンブールなど世界各国の映画祭で賞を受けました。私はそのすさまじい演出と構成力に圧倒され、この監督は本物の天才だと熱狂したのが13年前のことでした。

 この作品を理解するには当時のチリの社会背景を知る必要があります。アウグスト・ピノチェト(1915-2006)が1973年に軍事クーデターで政権を掌握、独裁体制のもと秘密警察によって反政府派の市民が投獄され、日常的に拷問が行われていました。「Caravana de la Muerte」(死のキャラバン)と呼ばれる処刑部隊はヘリコプターから市民を突き落として殺害していました。

 社会から逃避するように病的にトニー・マネロに傾倒していく男の生き様を通じて、当時の市民の絶望感、個人の尊厳の蹂躙、社会状況の悲惨さを克明に描き出していきます。一見コメディタッチの作品ながら、歴史に対する深い洞察と政治批判が込められています。 

 

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