『恋愛の発酵と腐敗について』錦見映理子
――不倫に破れ会社を辞めた主人公・万里絵(まりえ)が、穏やかな新たな暮らしを手に入れようと、縁のない街で喫茶店を開きます。そこにパン職人である虎之介(とらのすけ)という一風変わった男性客が。町の女たちが不思議な引力を持つ彼に振り回される、大人の群像劇です。
大塚 この小説は簡単に読もうとすればスッと読めてしまいますが、登場人物それぞれの恋や愛についての定義、濃度、経験が微妙に違うんですよね。グラデーションのようにもなっていて、素晴らしい書き分けだと思いました。色々な技巧もちりばめられていて、非常に考え抜かれた作品と感じます。
一方で、女性向けの色合いがやや強いようにも受け取れました。虎之介という奇妙な男性が、私には「そんなに沢山はいないにしても、こういう男性はどこかにいるだろうな」と思えたんです。でも男性からするとリアリティがないのかもしれません。この作品を男性が読むと一体どう感じるのか、気になります。
山本 実は、この本は最初大塚さんから薦められて読んでいたんです。個人的に虎之介は好きな人物でしたね。彼にぞっこんになる早苗(さなえ)が恋に突き進んでいく中、彼はそうすることへの恐れのようなものを感じている。違いの描き方も、上手だなと思った点の一つです。
自分がもし小説家で恋愛小説を書くとしたら、こういう作品を書きたいなと思います……いや、実際は書かないんですけどね(笑)。言葉のやりとりもリズムよく進んでいって、本当に上手でした。大衆小説のような、こういう言葉が来たらこう打ち返す、というテンポがよかったです。
そしてやはり、恋の書き分けですよね。早苗は恋愛を自分の中にスポンジのように吸収していく。万里絵は自我や社会からの目線と自分の恋心とが、水と油のように反撥しあう。違う状況からそれぞれの思いがどう展開していくのか、差異の捉え方が素晴らしかったです。
川俣 私は虎之介の何を考えているかわからないところにイラッとしてしまいました(笑)。女性からの一方的な好意を受けるだけで、何も返していないみたいな気がして。
山本 いいとこ取りみたいな感じですよね(笑)。だけれども、小説を通して手で触れるという行為が、意識と密接につながっていますよね。言葉や感情とは離れた、直感的な身体性の描き方にも惹きつけられながら読みました。
川俣 恋愛小説という観点から考えると、双方向の関係ができていないように見える。「これは恋愛なのかな?」ともやもやします。虎之介の思いがもう少し書いてあってもいいように思いましたね。
沢田 個人的な好みの問題にもなってしまうのですが、大人の恋愛小説をどう定義するかと考えた時に、今の時代に「不倫」ということではないのかなと思いました。週刊誌でもいやというほど見せられている通り、不倫は綺麗なものでも、ロマンチックなものでもないと、現代を生きる我々には刷り込まれている気がします。
その点、不倫の描き方に少し前時代的な感覚を覚えました。昭和らしいドラマ『金曜日の妻たちへ』や、平成に大ベストセラーとなった渡辺淳一作品に近い雰囲気です。
大塚 私としても、昭和の香りは気になった点ではありました。錦見さんの文体は、ひところの中間小説のようでもありますよね。加えて、物語が冒頭と結末で全く異なる様子を見せてくる展開にもそう感じました。
とはいえ、そもそも「中間小説」という言葉自体がなくなりつつありますよね。「今、意外とこういう恋愛小説ってないかもしれない」とも思いました。
加藤 私は恋愛小説というよりも、女性が男性を踏み台にして強くなっていく物語だと感じながら楽しく読みました。だんだんと強くなっていく女同士が力を合わせてどんどん生きていく。どうやったら生きていけるのかを探りながら、みんなで同じように前を向いて歩いていく姿が、女同士の結託のようで、とても良かったです。
大塚 そうなんですよね。恋愛を肯定する作品ですが、「恋愛小説」と言ってよいのかという葛藤があります。
『きみだからさびしい』大前粟生
――自らの男性性が相手を傷つけることを恐れる2十3歳の町枝圭吾(まちえだけいご)は、ある日出会ったあやめさんに心惹かれます。しかし彼女に「ポリアモリー」(双方公認で複数のパートナーと関係を持つライフスタイルのこと)であると告げられたこと、同僚の金井(かない)くんに好きだと告白されたことなど、人との関わり合いを通して圭吾は周囲との向き合い方を模索します。
山本 恋愛に対しての傷の物語でありながら、自分自身の物語でもありますよね。さらに、「自分の好きな自分でいたいから、相手を許せるし受け入れられる」みたいな考え方が芯にあって、いろいろな恋愛の在り方を定義しているなと感じました。登場人物それぞれの思いも熱く伝わってきましたし、感動しました。
文章についても、大前さんの幅広いテクニックが駆使されていますね。スリリングと言うか、いいリズムに乗って読めました。語り手が次々に変わっていく構成も、渋滞せずに進んでいきます。読んでいて興奮してしまいました。すごいと思います。
加藤 私は逆に、視点の移り変わりにちょっと引っ掛かってしまいました。流れるように読める部分もあれば、反対にしっかりと読ませる箇所もあるのですが、途中で誰視点の語りなのか、読み進めて確かめないとわからなくなってしまって。
小説全体としても、いろいろな状況下にいる人がどうやって生きていくかというテーマですよね。そこは理解しつつも、ちょっと自由すぎるかなというところが、少しだけ気になりました。
川俣 私も「今、誰視点の文章を読んでいるのだろう」と分からなくなる瞬間がありました。
ただ小説としては、新しい恋愛観を提示してくれていますよね。若い世代の考え方を発見できるのは、面白かったです。その分、地の文章のわかりにくさにつまずいてしまったのが、心残りでもあります。
大塚 私は読んでいて、大前さんはすごい書き手だなというのをまず感じました。言葉一つ一つが読者にどう伝わるのか、細心の注意を払って書いていらっしゃる。「どうやってこれを書いたんだろう」と思わせるほどの誠実さ、丁寧さをまず評価したいです。視点が自在に変わる構成も、非常に素晴らしいと思っています。登場人物が外見に至るまで細やかに造形されているので、読み分けはできました。
沢田 この小説が扱うようなジェンダーに関する問題は、大人よりも若者の方が寛容さを持っていますよね。若い層の支持を得そうな小説で、「大人の恋愛小説」の冠を付けるのは少し違うのかなという印象を受けました。
大塚 ひとつ気になったのは、「ポリアモリー」という言葉を出さなくてもよかったのではないか、という点ですね。この用語を用いることで、あやめさんという人間への理解が、一定の方向に引っ張られる部分があると思います。言葉を用いない方が彼女自身を掴めるような気がしました。
ただ、「恋愛なんて興味ないな、したくないな」と思っている読者がいたとして、その方たちに届くのは、候補作の中ではこの作品しかないですよね。もともとこの賞の趣旨として、あまり読まれなくなった恋愛小説で良質な作品をもっと多くの人に届けたい、という考えがありましたよね。そういう視点からも、この作品は素晴らしいと思います。
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