先崎先生の著書はたくさんありますが、どれも僕が一番知りたい棋士の日常について書かれていて、大好きです。
中でも本書は、話題の将棋メシ、勝負メシがテーマ。勝負に生きる棋士たちが、どんな店でどんな会話を交わしているのか、がぜん興味を惹かれますね。
でもその前に、ここに書かれている店の料理が、どれも美味しそうなんです。ちょっと食べてみたい、という気持ちになるでしょう? それがこの本の凄いところです。
実は僕、本書に登場する七軒の店のうち、三軒には行ったことがあります。
最初に行ったのは、第七局に出てくる「ふじもと」。
千駄ヶ谷の将棋会館にほど近い鰻屋さんですが、当時の僕はまだ将棋にはうとくて、友人とその辺りに出かけた時に、たまたま通りかかって入りました。
本書では、加藤一二三九段が将棋会館での対局中に、スーツの右と左のポケットから順番にお金を取り出して、
「あ、わたくすはですね、二千円のうなずーとですね、肝吸いをお願いします」
と、まったく同じセリフで昼夜続けてここから鰻の出前を取っていた、という伝説のエピソードが紹介されています。そこまで愛された店に相応しく、今思えば確かに「ふじもと」には、加藤九段がサインをした立派な将棋盤が飾られていました。
ところが、その頃の僕は加藤九段のことを「面白くてカワイイひふみん」としてしか知らず、「ああ、あのおじいちゃん、ここにも来んねんなあ」と思っただけでした。
ある番組で、中華料理店のロケに一緒に行った時など、運ばれてきたチャーハンをカメラが回る前に食べ始める加藤九段に、「ひふみん、まだやで。食べたらアカーン」なんて気安く注意していたんですから、そら恐ろしいことですよ。
僕は観る将棋、略して「観る将」専門です。藤井五冠の登場や、AIのわかりやすい対局解説など、きっかけはいろいろありますが、将棋って、棋士って、こんなに凄いんや! と、知れば知るほど深みにハマってしまい、気づけば将棋をよく知らない周囲の人に熱く語るようになっていました。その時に話すんですが、僕らが朝起きて仕事に行く頃に対局が始まります。ある程度働いて昼飯を食べて、また午後から仕事して、終わってサウナに3セット入って、晩御飯を食べながらひとしきり飲んで、家に帰って録画したドラマを見終わって、さあそろそろ寝ようかな、というその頃まで、まだ対局が続いているんです。盤を挟んで闘い続けることがそこまで楽しいと思える超人、あるいは奇人かもしれない、そんな棋士たちの繰り広げる真剣勝負に惹かれます。
芸人になるのも大変だとよく言われますが、棋士はそれよりもずっとずっと狭き門をくぐらないとなれません。僕にとってプロ棋士は、ドラゴンボールの超(スーパー)サイヤ人みたいな存在なんです。中でも加藤一二三九段は、史上初めて中学生でプロ棋士になった方。
「神武以来(このかた)の天才」とまで言われた人に「ひふみん、まだやで」って、僕は何という失礼をしてしまったんだろう、と思っております。
「ふじもと」の鰻は、将棋連盟ではお詫びやお礼の印に棋士がふるまう、世間で言えば虎屋のようかんみたいな存在なんですね。この本で改めてこの店の凄さを学びました。
先崎先生と初めてお会いしたのは、室谷由紀女流三段が挑んだタイトル戦の最終局を観戦に来ないか、と瀬川晶司六段に誘って頂いて、将棋会館に行った時なんです。先崎先生は室谷三段を対局前からずっと指導していて、本書にも登場する鈴木大介九段と駆け付けておられたんです。これは大変なところへ来てしまった、と思いました。
控室でプロの棋士たちが局面を検討している時のトークって、外国語レベルでわからないんですよ。「2八銀」「4六…」みたいな数字のやり取りが続いて、時折りみんなで一緒に笑ったりしている。
何がおもろいねん!
「あのー、この次の一手の意味ってどういうことなんですか」と恐る恐る聞いてみたら、先崎先生はふっと表情を変えて「ああ、これはですね」と、解説して下さるんです。まるで闘気をまとって戦っていた超サイヤ人たちが、天空から降りて人間に優しく教えてくれるみたいで、人知を超えた存在を感じた瞬間でした。
第二局に出てくる蕎麦屋「ほそ島や」には、将棋を好きになってから行きました。
「メニューの中で、棋士に意外と人気なのがカレーライスと中華そばである。私が棋士になって三十数年、これは変わらない」と本書にありますが、当然、僕もこのどちらかを食べるつもりだったんです。
ところがメニューを出されたら、他に食べたいものがいろいろあって長考に沈んでしまい、あろうことか鳥南蛮そばを注文するという悪手を指してしまいました。いや、美味しかったですよ、もちろん。
でも、棋士にとって若かりし頃の体に染み込んで消えない「原風景の味」、とまで書かれたソウルフードを食べなかったのは、将棋メシファンとして問題ですね。
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