- 2023.03.15
- 文春オンライン
「性犯罪者の伜、中卒、正規の職歴はないかわりに前科は有り」男はなぜ“負の生涯”を送った作家にすがりついたのか
町田 康
町田康が『蝙蝠か燕か』(西村賢太 著)を読む
人生というのは迷いの多いもので、時折、「自分はいったい何の為に生きているのか」なんてことを考えて答えが見つけられず悩む人は少なくないように思う。それに対して、1000年前のワカメのような愚劣な髪型の、低級動物霊みたいな兄ちゃんが、「人は幸せになるために生きているんだよー。どうかあなたも幸せになってくださーい」とフワフワ言葉で答え、「そうかー。人間は幸せになるために生きているのか」と真に受けて、幸せになるべく様々に努力、だけど悉く失敗して涙にくれ、更なるフワフワ言葉を求めて流浪する、なんて悲惨な姿を時折見かけるが、なんでそんなことになるかというとそもそもの問いの順番を間違えているからである。どういうことかと言うと、人生において先ず問わなければならないのは、「どうやって生きるか」であって「どのように生きるか」はその次に来る問いである。と云うのはそらそうだろう、最初から、「いい感じで生きる」というハードルを設けていたら、その手段は限定され、結果、その生は、一定の条件に恵まれていない限り困難なものとなるのである。これをわかりやすく言えば、「たとえ恰好悪かろうがとにかく生きる為の手段を持たなければ生きられない」ということである。
というと経済のことだけを言っているように聞こえるがそればかりではない。『蝙蝠か燕か』において西村賢太は物語の主人公・北町貫多について、「性犯罪者の伜、中卒、正規の職歴はないかわりに前科は有り」と書いているが、そのような者が矜恃を保って生きる為には他の人間とはまた別のツールが必要となってくる。それがなになのかは、そしてまた、どれほどそのツールに頼って生きるかは、人によって違ってくるだろうが、西村賢太著すところの北町貫多にとってそれは私小説、それも藤澤淸造という大正から昭和にかけて活動した作家の小説とその人の生き方そして死に方であった。とだけ書くと多くの人は、「さぞかし立派に生きて立派に死んだ作家なのだろう」と思うだろうが、そうではなくその逆で、作中には、「生き恥にも死に恥にも塗れた“負の生涯”」と書かれてある。
なぜそんな作家に、「すがりつく」ように生きたのか。どんなミステリーよりも深い謎と深い謎解きが本作の中にはあった。それは、「おまえはどのように生きてきたのだ」という容赦ない問いに対する苛烈な答えである。そしてそれは、「おまえは自恃の念を持って生きているのか」という読者への問いでもあるのである。
まるでその死を予感していたかのような、これまでの作品には見られなかった悲しみと湿り気を帯びた文章に作者の面影が偲ばれる。と同時に目の前をよぎるものが蝙蝠であったとしても燕であったとしても見事に「歿後弟子」としての生を全うした作者に無限の敬意を感じた。
にしむらけんた/1967年、東京都生まれ。2007年『暗渠の宿』で野間文芸新人賞、11年「苦役列車」で芥川賞を受賞。著書に『どうで死ぬ身の一踊り』『一私小説書きの日乗』(既刊7冊)『瓦礫の死角』『雨滴は続く』など。2022年2月5日急逝。
まちだこう/1962年、大阪府生まれ。「きれぎれ」で芥川賞、『宿屋めぐり』で野間文芸賞を受賞。他著に『告白』『私の文学史』など。
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