本の話

読者と作家を結ぶリボンのようなウェブメディア

キーワードで探す 閉じる
「胃弱には晩酌が一番」!? 夏目漱石と“名前はまだない”「猫」がのんだビール

「胃弱には晩酌が一番」!? 夏目漱石と“名前はまだない”「猫」がのんだビール

木村 衣有子

木村衣有子『BOOKSのんべえ お酒で味わう日本文学32選』より


ジャンル : #随筆・エッセイ

夏目漱石の作品のなかでもとりわけ知られている『吾輩は猫である』には、お酒にまつわる描写が多く登場する。さて、苦沙弥先生が胃痛を治すために飲む日本酒の銘柄は? そして「猫」が飲んだビールの味とは――?

『吾輩は猫である』から『しらふで生きる』まで、お酒にまつわる文学作品を紹介するブックエッセイ『BOOKSのんべえ お酒で味わう日本文学32選』から、夏目漱石『吾輩は猫である』について書かれた章を、1章まるごと公開します!


猫が飲んだビール
夏目漱石『吾輩は猫である』

『BOOKSのんべえ お酒で味わう日本文学32選』(木村 衣有子)

 猫小説、文明開化小説、恋愛談義小説、胃弱小説と、夏目漱石『吾輩は猫である』はいろいろな角度から読むことができて、そこが面白い。比較的胃弱の私にとっては、物語の中心人物である苦沙弥先生の、それゆえの苦労には、読み返す度に共感せざるを得ない。

 年明け、苦沙弥先生は日記にこうつける。

神田の某亭で晩餐を食う。久し振りで正宗を二三杯飲んだら、今朝は胃の具合が大変いい。胃弱には晩酌が一番だと思う。タカジヤスターゼは無論いかん。誰が何と云っても駄目だ。どうしたって利かないものは利かないのだ。

寒月と傾けた三杯の正宗はかに利目がある。これからは毎晩二三杯ずつ飲む事にしよう。

『猫』とほぼ時を同じくして発表された村井弦斎の『酒道楽』にも「正宗」は登場する。当時流行った「○○正宗」という銘柄の日本酒一般を指していると思われる。尖った日本酒ファンに支持されている「白隠正宗」はもちろん、「正宗」を名乗るお酒は今日も数多ある。ついでにいうと「タカジヤスターゼ」とは実在した胃薬の名称である。

 漱石自身、胃弱である上に、お酒は強くなかった。全く飲めなくはなかったようだけれど。自身を重ねたと思しき苦沙弥先生も、お酒はすごく弱いという設定である。弱いのにかつて学友のみりんを盗み飲みしたら顔が真っ赤になって早晩ばれたという騒動を、旧友に蒸し返されてからかわれたりしている。

 先生、と呼ばれるのは、中学校で英語を教えているから。その元生徒、元同級生、友人、姪らが入れ替わり立ち替わり苦沙弥先生の家を訪れる。彼らとの洒脱かつ愉快なやりとりをこちらに伝えるのが、主人公である「猫」である。皆さんご存知のとおり、名前はない、拾われた猫。

 前に読んでから間が空いて、私は苦沙弥先生の年齢を追い越してしまった。そのことを鑑みつつ読むと、苦沙弥先生の挙動は、妻子のある30代半ばの男性にしてはずいぶんじじむさく感じられる。あくまでも今の感覚で読んでいるからかもしれない。さりながら、作中でも、偏屈、頑固と、周りの人々からは評されている。でも、嘘がないところを慕う訪問客が絶えることはない。

 胃痛に効きそうなことをあれこれ試してみてはやめることを繰り返している苦沙弥先生だから、晩酌も続かないかなという予想に反し、半年以上経った初秋の、銭湯から上がってきてすぐの夕餉の場面で、日本酒を飲んでいた。

「豚と芋のにころばし」をつまみに、もっと上等な肴を出して欲しいようなことを妻に言いながら、苦沙弥先生はお酒を飲む。

「平生なら猪口に二杯ときめているのを、もう四杯飲んだ。二杯でも随分赤くなるところを倍飲んだのだから顔が焼火箸の様にほてって、さも苦しそうだ」、と、お膳の傍に座った猫は観察する。「なに苦しくってもこれから少し稽古するんだ。大町桂月が飲めと云った」、先生はそう強がってみせるものの、妻にこうすげなく返される。

「馬鹿を仰しゃい。桂月だって、梅月だって、苦しいをして酒を飲めなんて、余計な事ですわ」

 日本酒に対しては積極的な姿勢を見せる苦沙弥先生でも、『猫』が発表された時点ではまだ新味のある飲みものだったビールには冷たい。シャンパンも会話の中に登場するけれど、実際に飲まれる場面はなかった。

 物語の終盤に登場するビールは、あまりにも苦い印象を残す。

 来客が手土産に持参した、近所の酒屋で買った瓶ビール4本。瓶は縄でくくって手に提げてきたもよう。持ってきた当人がいちばん機嫌よく飲み、彼らが帰った後、飲み残しがそのままにされていたところに猫がやってくる。

月夜と思われて窓から影がさす。コップが盆の上に三つ並んで、その二つに茶色の水が半分程たまっている。の中のものは湯でも冷たい気がする。

 冒険心を起こして猫はビールを飲む。おいしいとは感じられないのに飲み干してしまう。

次第にからだが暖かになる。眼のふちがぽうっとする。耳がほてる。歌がうたいたくなる。猫じゃ猫じゃが踊りたくなる。

 苦沙弥先生の体感以上に仔細に酔いがえがかれる。そして猫は、文字通り、我を失う。

 漱石にとって酔いとはなにかというと、その苦しさばかりが印象に刻まれていたのかと思う。のんべえが猫というキャラクターを動かしていたら、また別の結末を迎えさせたのでは、とも。

『猫』の第1話が発表された明治後期には、東京ではエビスビールがよく飲まれていたそうだ。『猫』を完結させてから『草枕』の次に発表した『二百十日』にはエビスが登場しているから、猫が舐め尽くしてしまった飲み残しのビールもエビスかもしれない。

単行本
BOOKSのんべえ
お酒で味わう日本文学32選
木村衣有子

定価:1,650円(税込)発売日:2023年04月05日

ページの先頭へ戻る