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直木という特殊な才能を制御できるのは俺だけだ。 失敗続き、借金まみれの直木三十五に盟友・菊池寛が出した処方箋とは?

ジャンル : #歴史・時代小説

文豪、社長になる

門井慶喜

文豪、社長になる

門井慶喜

くわしく
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 臨時増刊「オール讀物號」は、実際よく売れた。寛はその売り上げの報告を聞いて、

「半年後、いや四か月後には二号目を出そう」

 と言った。社員は沸いた。寛はつづけて、

「今回はいろいろの事情があって実現しなかったが、二号目には、きっと直木に書かせよう」

 注文を出させた。

 直木は、これを引き受けた。ところが締切の日が来ても原稿をよこさない。担当の若い社員が、

「直木先生、まだ一行も書いてないんです。他社の仕事がいそがしいって」

 と泣きそうな顔をするので、

「あいつめ」

 寛は舌打ちして、椅子から立ちあがり、

「あいつはいま、どこにいる?」

「地下に」

「レインボー・グリルか」

「はい」

「よし、ひとつ僕が行ってやる。うんと尻を叩いてやろう」

 文藝春秋は、このときには東京市麴町区内幸町(うちさいわいちよう)一―二、大阪ビルヂング内に移転している。レインボー・グリルは、そのビル内のレストランの名前である。

 入居者全体の共用施設であって、文藝春秋社専用ではないのだが、しかし多数の社員がふだんからそこで飲み食いしつつ著者と雑談をしたり、印刷屋と打ち合わせをしたり、はなはだしきに至っては編集会議をひらいたりしているため、何となく専用めいている。

 寛はその雰囲気がかねて好きだった。応接室よりも開放的で、それでいてホテルのロビーのような場所よりももう少し閉鎖的というか、気が置けない。

 しいて言うなら、談話をたのしむサロンに近いか。そのサロンめいたレストランのいちばん奥のすみの席で、直木は原稿を書いていた。

文藝春秋祭 大阪ビル・レインボーグリルでの菊池寛

 向かいの席が、あいている。寛はわざと大きな音を出して尻を落として、

「それは、うちのか」

 直木は顔を上げもせず、

「『改造』だ」

「他社か」

「うん」

「うちのを書け。締切はおとといだ」

「鯖(さば)を読んでる。まだ間に合う」

「まあな」

 と、寛もあっさり認めてしまう。直木のような雑誌編集のうらおもてを知りつくしている相手には、こんな交渉はもともと何の意味もないのだ。寛は手をのばし、直木が注文したらしい飲みかけのアイス・ティをがぶりと飲んで、

「いつから書ける?」

 直木は、ひぃ、というような甲高い咳をひとつして、

「あと十二、三枚だ。終わったら取りかかる」

「そうか」

「一時間後だな」

「ほんとか」

「ああ」

 この間、直木は、寛とは目を合わせていない。あくまでも顔を伏せ、ペンを持ち、こちょこちょと原稿用紙のマス目を埋めながら話している。

 その埋めっぷりは、たいへんなものだった。寛の倍は速い。これならなるほど一時間で十二、三枚という神業もじゅうぶん可能ではないか。

 一枚ぶんを埋めてしまうと、直木は、それを手で横へ払ってしまった。

 カルタの札でも払うような手つきである。横には若い女がすわっていて、それを上手に受け止めて、裏返して、それまでの原稿の束の上にのせて両手で立たせ、トントンと音を立てて端をそろえた。見るからに慣れた仕草である。

 寛は、

「わかったよ、直木。それまで織恵(おりえ)さんと話していよう」

 と言い、その若い女へ、

「こいつの世話はたいへんだろう、織恵さん?」

 寛もかねて顔見知りの直木の愛人、香西(こうざい)織恵である。原稿の束を寝かせて置いて、にっこりして、

「ええ。たいへん」

「僕のとこへ来てもいいよ」

「あらあら」

「うんと可愛がってあげる」

「そういえば、あしたは晴れますかしらね。帝劇へ梅幸(ばいこう)を見に行くんですけど」

 会話がうまい。いかにも昭和という新時代の都会の女性という感じがして、寛は気持ちよく雑談した。

 ときおり直木も口をはさんだ。結局、執筆は三十分あまりで終わってしまって、直木は、

「おーい」

 とレストランの女給仕を呼んで、原稿用紙の束を突き出して、

「もうじき『改造』の記者が来る。渡しといてくれ」

 女給仕が原稿を受け取ると、直木はさらに財布から十円札を一枚出して、

「チップだ」

 寛は反射的に、

(多すぎだ)

 と思ったが、こっちが口を出すことでもない。だいいち、もう待ちきれないのだ。

「よし。直木」

「ああ」

「それじゃあ」

 寛は立ちあがり、

「飲みに行こう!」

「ひぃ」

 と、直木はまた咳をした。承知した、の意らしい。一緒に来ていた若い社員があわてて背広の裾を引いて、

「菊池さん。菊池さん」

「何だね」

「あの、『オール讀物』の原稿は……」

「あしたから書く。それでいいだろう」

 と、まるで直木本人であるかのように一蹴して、ふたりで夜の街へ出た。

 銀座のカフェで女給をからかい、それから新橋の待合へ。なじみの芸者を呼んで深夜まで痛飲した。直木は酒は飲めないが宴席が好き、というより、宴席で女と話すのが大好きなのである。

 寛は、酔った。これほど飲んだ夜はなかった。自分がこの直木三十五という男を、

(流行児にした)

 その自負が、何より旨い酒の肴だった。もちろん本当のところは直木を流行児にしたのは他の誰よりも直木本人であり、その才と意志の力にほかならないのだが、そもそもの話をするならば、もしも自分が「文藝春秋」に文壇ゴシップを書かせていなかったら。

 その総合雑誌化ののちも根気づよく普通の随筆を書かせていなかったら。大阪で失敗した直木をふたたび東京であたたかく迎えて「小説を書け」と𠮟咤(しった)していなかったら。そのいずれかひとつが欠けていても、作家・直木三十五が世に出ていなかったことは確実なのである。

 直木も、さだめし恩に着ているはずである。何しろ浪費家だからまだ借金は少し残っているらしいが、これも近いうちに完全になくなる。そうなればもう恐いものなしだ。直木の名はますます大きく重くなり、天下第一等になり、そうしてそれを目次に載せた自分の雑誌もますます売れる。お金が儲かる。

(永遠に)

 とまでは思わない。

 そこまで寛は夢想家ではない。ないがしかし寛はこのとき四十三だったし、直木は四十になったばかり。先は長いはずだった。今後もどんどん書かせよう、依頼の雨を降らせようと思いながら新橋の待合を出たとき、直木は、

「これから書く」

 と言った。寛は呂律(ろれつ)のまわらぬ口で、

「何を?」

「貴様の原稿だ」

「ああ、たのむ」

 酒を飲まない直木には、こんなことも可能なのである。寛は大声で、

「たのむ。たのむ」

 くりかえしつつ、その痩せた背中をばんばん叩いた。ごりっと背骨の感触があって、

「うっ」

 直木が顔をゆがめた、ような気がした。

 それからまもなく、直木は、織恵への態度が一変した。

 各社の記者の前で平気で𠮟る。どなりつける。とうとう織恵が耐えきれず、

 ――直木のもとを、去った。

 と聞いたのは、三年後のことだった。

 つまり織恵は三年も耐えたのである。寛はつい、

「かわいそうに」

 と口に出した。

 織恵がではない。直木がかわいそうだと思ったのだ。なぜなら寛は、このころにはもう、

(結核)

 その確信を持っている。

 死病である。寛がそれに気づいたのは、あの、

「ひぃ」

「ひぃ」

 という甲高い咳がきっかけだった。

 日を追うごとに激しくなった。直木はいつからか、袱紗(ふくさ)づつみに大量のちり紙を入れて持ち歩くようになった。ちり紙には痰(たん)を吐くのである。十分か十五分に一度くらい、ときには二、三分に一度の頻度でそれをやるため、少量では足りないのだと寛はわかった。

 体つきも、気の毒だった。もともと鉛筆のようだったのが、さらに痩せほそり、肌の色が悪くなった。或るとき寛が、

「体重は、いくらだ」

 と聞いたところ、

「十二貫を切った」

 と答えた、ということは四十五キロ以下である。これで健康だと思うほうがどうかしている。本人もとつぜん胸が痛んだり、その痛みが背中へまわったりするらしく、ことに背中は深刻だった。どうやら織恵が逃げ出したのは、これが原因らしかった。痛みで直木にやつあたりされたのもそうだけれども、記者のいないときに四六時中、背中を揉ませられたのが体力的に保(も)たなかったのだ。

 そんなふうに衰弱しながら、しかし直木は、仕事はした。原稿の注文はすべて引き受け、すべて書いた。

 あの小さな字で書きとばした。それがまた読者に受けるものだから注文はいよいよ多くなる。執筆量も多くなる。宴席好きも相変わらずだった。夜になるたび、まるでそれが義務ででもあるかのように誰かを誘って銀座へ行く。待合へ行く。そうして湯水のように金を使う。

直木三十五(晩年)

 誰かから、

 ――静岡に、美人の芸者がいるらしい。

 と聞けばさっそくその店へ行って口説きにかかるという具合で、或る意味、これほど勤勉な遊び人もなかった。たばこも吸った。一日に二箱。ときに胸がごろごろ鳴っても、かまわず吸いつづけた。安い国産は吸わなかった。

 織恵のあと、直木は、新しい愛人を得た。

 真館(まだち)はな子という女だった。紹介したのは寛である。もともと文部省傘下の大日本聯合婦人会という団体の会計をしていたというので、直木のところへ連れて行って、

「秘書に雇ってくれないか」

 と言ったところ、直木は、はな子の顔をじっと見て、

「秘書もいいが、女房にはどうだ」

 直木はこのとき、妻と正式に別れたばかりだった。はな子もまた離婚歴のある女だった。直木ははな子をふたりきりの旅行へ誘い、こう言ったという。

「僕はこれから一年間うんと働いて、金をこさえて、その後一年養生する。それからほんとの結婚をしよう」

 ふたりは、生活をともにするようになった。事実上の夫婦になった。でもやはり駄目だった。はな子は或る日、寛のところへ来て、

「もう、無理です」

 泣きだしたのである。あんまり小言がやかましく、或る日など、やかんの湯の沸く音がうるさいと言い出して、そのやかんを投げつけたという。

 香西織恵のときとおなじだった。いや、いっそう情況は、

(悪いな)

 その日はどうにかはな子をなだめすかして直木のもとへ帰らせたが、数日後また来て、こんなことを訴えた。

「あの人とふたりで海を見ていたら、沖に船が泊まったんです。そうしたらとつぜん怒りだして。私に『あの船を動かせ!』って」

 寛は、

(いよいよか)

 暗然とした。直木自身、もはや何を言っているのかわからないのではないか。

「これはもう、入院だね」

 と、はな子へ言った。もっとも寛はつづけて、

「どう言えば、聞き分けるかな」

 ため息をついた。それまでも入院を勧めたことはある。費用はいっさい文藝春秋社で持つとも言ったのだが、直木はそのたび、

「いそがしい」

 と言って、それきり無口になってしまうのだった。

 だが今回は、事情がちがうようだった。はな子から沖の船の話を聞いた数日後、こんどは直木が社に来て、

「入院するよ」

 寛はつとめて表情を変えず、

「そうか」

「君だけじゃない。各社の連中もうるさいんだ。嫌になっちまう」

「はな子さんもか」

「ああ」

「そうか」

 各社うんぬんも事実だろうが、それよりも、直木はもうよほど痛みが耐えがたいのだろう。寛は、

「入院したら、書くのはよせよ。退院したらまた書けばいい」

 直木は素直に、

「うん。そうする」

 入院先は、東京帝国大学医学部附属医院。整形外科の病棟だった。

 医師の診断は、脊椎(せきつい)カリエスだった。肺に生じた結核菌の病巣が血管を通じて脊椎へまわり、いわば背骨を腐らせる。

 だが診断は、これだけではなかった。入院から五日後には、

 ――脳膜炎の可能性あり。

 ということで内科病棟へ移された。寛が察したとおりだった。はな子へ沖の船を動かせと言ったのは、痛みの故のやつあたりというより、何か幻覚を見ていたのだ。脳膜炎は脳および脊髄をつつむ膜に病原体が入りこむことで引き起こされ、高熱や意識障害等をもたらす。菌はもう作家の頭脳まで侵していた。

 ベッドの上で、直木は毎日、頭痛を訴えた。

 右へ左へと寝返りを打って、シーツをぎゅっと握りしめ、

「痛い。痛い」

 どなりちらして、看護婦をののしった。

 鎮静剤の注射を要求した。腰が痛いと言うときもあり、背中が痛いと言うときもあったが、どこでも激痛であることは変わらなかった。

 鎮静剤は、一日に何本も打たれた。はじめは打つたび五、六時間ほども眠ったもので、周囲の者はほっとしたが、その時間もだんだん短くなった。体が薬に慣れたのだろう。食事はほとんど口にしなかった。栄養はもっぱら葡萄糖(ぶどうとう)の点滴で摂取した。

 病状は、もはや国民的な関心事になっていた。

 何しろ当代一の人気作家のそれである。新聞やラジオは連日それを報道した。きょうの体温、きょうの容態、きょうの言動……病院には記者たちが押しかけて来た。はな子や看護婦は対応できない。ほかの患者にも迷惑がかかる。寛はそこで病院側へ、

「となりの病室を、借り切ることはできませんかね」

 と提案して、了解を得た。

 ベッドを運び出し、かわりに椅子やテーブルやソファを持ちこんで、いわば文藝春秋社の出張所とした。社員はここに交代で詰めて、直木の世話をしたり、取材者に対する受付の仕事をしたりするのである。

 他社の編集者や記者も、出入り自由とした。こうなったら全出版界、全新聞界をあげて、

(面倒を、見てやる)

 そんな気だった。

 入院から九日後の晩。寛はその控室のソファに腰をおろし、夕刊を読んでいた。

 ほかには二、三人の若い編集者がいた。今夜はもう取材記者は来ないだろう。と、廊下から、

「菊池さん。菊池さん」

 ささやく声がある。寛は顔をあげて、

「何だい。菅君」

 ドアが、少しあいている。その隙間でこっちを見ているのは「文藝春秋」編集長・菅忠雄の片目だった。この夜は、彼が病室当番なのである。

「菊池さん。その……おかしいんです」

「おかしい? 何が」

「直木さんが。もう六時間も眠ったままで」

「結構じゃないか」

「最近は、鎮静剤はせいぜい二、三時間しか効いてないでしょう。大丈夫ですかね」

 不安そうな声だった。目の前で容態が急変してほしくないというのは、看病する者には共通の心理である。寛はさして考えもせず、

「大丈夫だろう」

 と答えてから、ふと思いついて、

「それじゃあ、ちょっと休まんか」

「えっ?」

「僕が病室へ行く。直木とふたりっきりにしてくれ。君はそのあいだ、これでも」

 と、読んでいた夕刊をばさりと折って立ちあがり、ドアをあけて、菅の胸へ押しつけた。菅は夕刊を手に取ると、

「ええ、そりゃあ」

 少し軽い足どりで控室に入った。寛は病室へ足をふみいれる。

 うしろ手に、ドアを閉める。

 窓はカーテンで覆われていて、電灯もあまり明るくない。寛は目を細めた。直木の痩身がながながとベッドにあおむけになっている。

 体の上に毛布をかけ、ひからびた両腕だけを出して、すうすう息を立てている。安らかな寝息だった。寛はそっと近づいて、直木の顔を見おろした。左右の眼窩(がんか)ががっくりと落ちくぼんでいて、そのなかで、瞼(まぶた)が山のようになっていた。

 頬は、無精ひげが伸び放題だった。唇はぴったりと閉じられていたが、意外に色がよく、ただし無数のしわが寄っている。寛は椅子を引いて来て、ベッドの横にすわり、

「直木」

 声をかけた。

 直木は、返事しない。無口のせいではない。寛はうつむいて、

「すまない」

「………」

「ほんとうにすまなかった。僕は、その……あんまり君を酷使してしまった」

 あとはもう、ことばにならなかった。胸のなかで話をつづけた。直木。直木。言い訳するつもりはないが、僕はたぶん、君が一人前になったのがうれしすぎたんだ。

 ただ不安でもあった。何ぶん君は金づかいが荒い。生活もめちゃくちゃだし、人に迷惑をかけることを何とも思わないところがある。それでなくては作家というのは偉大な作品は書けんのだと君は豪語していたけれども、読者は気まぐれだ。いくらでも流行の風に流される。もし人気がなくなったらどうなるのだ?

 知れている。君はたちまち暇になる。その暇を埋めるべくどうせまた自分で雑誌を創刊するに決まってる。そうなったら借金地獄へ逆落(さかお)としだ。

 僕の不安は、つまりそこにあったんだ。僕はつねに自分へ言い聞かせたものだ。蚕(かいこ)に桑の葉を食わせるように、馬に飼い葉を食わせるように、直木三十五には小説の仕事を食わせなければならんとな。だから毎月のように注文した。他社の仕事も山ほどあると知りながらだ。

 いや、もうひとつある。僕は大きな誤りを犯していた。僕はこれまで、何としても、君の体は頑丈なのだと思いこんでいたのだ。ちょっとやそっとじゃ壊れやせんとな。

 何しろ君は健脚だった。おぼえているか。まだ僕たちが若かったころ、講演旅行に出かけたとき、君は早朝の京都でえらく僕たちを歩かせたじゃないか。

 そうだ、たかだか一椀のふろふき大根のためにだ。いやもう、まことに、あれは人生最悪の日だったなあ。それにしても君はあのとき足が速かったし、また疲れを知らなかった。きっとあの第一印象が頭に残ってしまったのだろう。君なら大丈夫、どこへ置いても大丈夫と……。

「すまない」

 寛は、顔をあげた。

 直木の顔を見た。さっきと変わらない。ぴくりともしない。ただただ静かな病室の空気のなかへ、規則的な、平和な鼻息がほのかに溶けて行くだけ。まるで子供が寝ているようだと寛は思った。

「………」

 眠り顔を、見まもりつづけた。

 五日後は、昭和九年(一九三四)二月二十三日。死の前日である。その晩、直木はとつぜん立ちあがった。

 病室の当番は、またしても菅忠雄だった。寛はその場にいなかったので、あとで順を追って聞いたところでは、菅は社で急ぎの仕事をして来たのだという。

 だから、ひどく疲れていた。前の番の者と交代して、椅子にすわった。直木はおだやかに眠っていた。菅はそれで安心して、うつらうつらしたのである。

 夜半、ガタリと音がした。

 菅は目をさました。長い影が視界に入った。見あげると、うすぐらい電灯の下、直木がすっくと立っていた。小学生が定規(じょうぎ)で引いた線のように細い体が、ベッドの向こうを、出口のほうへ歩きだしている。

 その横顔は、鬼気にみちていた。頭蓋骨へ直接埋めこんだような眼球がくわっと前を向いている。口は大きくあいていて、耳のあたりまで歯が見える。

 歩きながら、右手をかざした。

 その手はペンを持つかたちになっていた。こまかく動きつつ上から下へ。また上へ戻って下のほうへ。

(書いてる)

 菅は、背すじが凍った。大声で、

「池島(いけじま)! 池島!」

 控室には、池島信平(しんぺい)という新入社員がいるはずだった。帝大出だが若いから力はあるだろう。池島はドアをあけて入って来るや、

「あっ!」

 ふたりは前後から直木へ抱きついた。菅がうしろ、池島が前。創刊以来の同志と最若年者。いっしょに抱き上げてベッドへ戻そうとしたのだが、直木の歩みは力強く、ふたりにはそれを止めることができなかった。

 直木の口は、どんなことばも発しなかった。意識もないのだろう。物音におどろいて看護婦たちが来て、ぜんぶで四、五人で、棒を倒すようにしてベッドの上にあおむきにした。

 直木は、おとなしくなった。食い入るように天井を見つつ、その右手はなお空をさまよっていたという。享年四十四。あの新聞小説『南国太平記』で流行作家となってから、わずか三年後のことだった。

 翌年、寛は「文藝春秋」誌上で、ふたつの文学賞の新設を発表した。芥川龍之介賞と直木三十五賞である。

 それらを、誰にあたえるべきか。寛は当初、

(老大家に)

 そのことも考えた。そのほうが賞そのものは重みを以て世間にむかえられるだろう。

 だが結局、逆にした。芥川賞は一般文芸、直木賞は大衆文芸、それぞれの分野で最も優秀なものを書いた「無名もしくは新進作家」にあたえることとする。

 なぜそうしたのか。会社経営や雑誌編集の面でのいろいろな配慮があったことはむろんだけれど、心理的というか、感情的な理由は自分でもわからない。

 ちょっと分析できない。けれども、

(ひょっとしたら)

 と、寛は、のちに思ったりした。

 ひょっとしたら自分は、賞に託して、ひとつの夢を見ているのかもしれない。

 時間の復讐とでもいおうか。受賞者がもしも二十年、三十年と活躍すれば、そう、そのぶんだけ、あまりにも命みじかくして死んでしまった畏友(いゆう)ふたりの魂への埋め合わせができる。罪ほろぼしになる。そんな感傷的な夢を。

 そのためには受賞者はもちろん、賞そのものも、

「長生き、だな」

 そう自分へつぶやいたとき、寛の人生に、またひとつ新しい目標が誕生した。

単行本
文豪、社長になる
門井慶喜

定価:1,980円(税込)発売日:2023年03月10日

電子書籍
文豪、社長になる
門井慶喜

発売日:2023年03月10日

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