世はまさに雑誌の時代。快進撃を続ける「文藝春秋」の本当の立役者は、菊池寛でも、芥川龍之介でもなく、無名時代の直木三十五だった!?
ジャンル : #歴史・時代小説
讀物(よみもの)雑誌全盛の時代。同人誌「文藝春秋」は見る見る部数を伸ばしていきました。編集人・菊池寛はもちろん、文壇を引っ張っていた芥川龍之介らの力が大きかったことは言うまでもありませんが、作家たちの私生活をやり玉にあげる「文壇ゴシップ」もまた、読者から大きな支持を得ていました。それを書いていたのがまさかまさか、当時、借金まみれの暇人、無名作家時代の直木三十五でした。読者からの反響の一方、同人仲間たちすらも標的としてしまったため、内外から憤懣の声が上がりはじめ……。
文豪であり、社長でもあった世に稀な男の生涯を描いた、門井慶喜さんの最新歴史小説『文豪、社長になる』(文藝春秋)より一部抜粋してお届けする第3回。
菊池寛(かん)がはじめて直木三十五と会ったのは大正九年(一九二〇)十一月十六日である。直木はまだ小説家にはなっておらず、本名は植村宗一だったから、寛はこの三つ年下の、鉛筆のように痩せた男のことを、
「植村君」
と呼んだ。
植村は、何しろ無口だった。
この日はかんたんな顔合わせをしただけだったが、三日後の夕方、東京駅の二等待合室で落ち合ったときも、夜汽車に乗りこんでからも、まったく口をきかなかった。
翌日つまり二十日の早朝、京都駅で下車したときですら、
――ついて来い。
と言わんばかりに目くばせしたきり、ひとりで改札を出て、どんどん歩いて行ってしまう。寛はその背中を見て、
(何だ、あれは)
腹が立った。
植村は、歩くのが速かった。七条通を東へ東へ。鴨川をこえて上り坂になり、三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)の横をすぎたところで寛はとうとう、
「何だ、あれは」
口に出した。われながら不機嫌きわまる声で、横を行く友達へ、
「せめて目的地くらいは言ってしかるべきじゃないか。実際無礼だよ。そう思わんか芥川」
「聞けば、答えてくれるんじゃないかな」
と、芥川龍之介はちょっと笑う。芥川はこのころは元気があって、執筆量も多かった。寛は、
「聞こうにも追いつけん」
「正直だね」
「健脚(けんきゃく)は健脚なんだ。あんな、やせっぽちが」
寛と芥川は、これでもましなほうなのである。ふたりのうしろには、さらに仲間がふたりいて、ふうふう息をしつつ足をもつれさせているのだから。
宇野浩二、田中純である。すなわちこの早朝の七条通では、ぜんぶで四人が植村ひとりを追っているわけだった。
四人とも三十歳前後の作家だった。出自や出身校はまちまちだし、文壇登場の時期にも差があるものの、みなすでに佳作または話題作をいくつも発表していて一家とみとめられている。
特に有名なのは寛だった。何しろいまちょうど「東京日日新聞」と「大阪毎日新聞」で長編小説『真珠夫人』を連載中で、これが世間の話題をさらっている。ぜひとも創作の裏話を、そうして物語の今後の展開を、作者自身の口から聞きたいという読者の声にこたえるべく、このたびは大阪で講演をやるためにはるばる東京を出たわけなのである。なおこの当時の講演会というのは、現代とはちがい、聞くほうにとっては一日がかりの娯楽である。講師がひとりというのは例外的で、ふつうは暫時(ざんじ)の休憩を入れつつ三人や四人がつづけて話す。この点ちょっと寄席に通じるところがあるかもしれない。芥川以下が同行した理由である。
植村は、寛たちの会話が聞こえたのかどうか。しばらく行くと立ちどまり、
――着いたぞ。
と、また目くばせだけして一軒の店へ入ってしまった。
のれんには「わらんぢや」と染め抜いてある。座敷へ上がる。植村が勝手に大根のふろふきを五人前注文した。それが店の名物のようだった。
来たものは、どうということもない。小ぶりのお椀(わん)に大根が二きれ。味噌が京ふうの白味噌であるところが多少めずらしいだけで、腹ごたえがしなかった。
添えられた白飯と漬物も、やはり鳥の餌のように少ない。寛はついに堪忍ぶくろの緒が切れて、
「植村君」
箸を置き、語気を荒らげて、
「われわれは君に従ってここまで歩いた。夜汽車のあとで疲労困憊(こんぱい)だ。その贖(つぐな)いに君が供するのがこの一椀かね」
と、大根の椀を鼻先へつきつけた。なかは空っぽである。植村は黒目を寄せてそれを見て、まばたきして、はじめて寛に向かって口をひらいた。
「おかわりなら遠慮なく……」
「そういう意味じゃない!」
どんと卓をたたいた。まわりの客がこっちを見る。神経質な宇野浩二が、横から、
「まあまあ、菊池君」
と服の袖を引くのもかまわず、
「植村君、君は雑誌社の経営者なのだろう? 何、もと経営者? どっちでもよろしい。今後も雑誌をつくる気なら作家は資本だ。もっと丁寧にあつかえ。そもそも講演は大阪なのだから、京都などは余計だった。まっすぐ大阪へ行けばいいんだ」
「申し訳ない」
と頭を下げたにもかかわらず、店を出ると、植村はまた四人の先に立った。来た道を引き返したから駅へ戻るかと思いきや、河原町通を北へ向かい、二条通を西へ入って、鎰屋(かぎや)とかいう店の二階で紅茶を飲ませてからようやく京都駅のほうへ足を向けたのである。
京都駅では午前十時台の汽車に乗った。さっきおなじ駅で降りたのが六時ころだった、ということは、約四時間で十キロくらい歩いたことになる。散策というより行軍である。講演会は夕方から、定刻どおり大阪中之島の中央公会堂でおこなわれた。
二年前に建ったばかりという、煉瓦造りの、なかなか立派な建物である。講演の順番は、寛、芥川、田中純、そうして宇野浩二の予定だったけれども、宇野はよほど疲れたのか、
「僕は出ないよ。控室で待ってる」
と言い張った。こうなると宇野は、てこでも動かないところがある。
主催者は、大阪の日本画家の結社である。植村とはもともと何かの仕事を通して親しかったらしい。
「あかん。もう四人やる言うてしまいました。三人では足りへん」
と彼らが訴えるので、結局、植村が四人目になった。演題は「ロシアの前衛作家」とした。
なるほど植村には、それを語る資格はある。寛のとぼしい知識によれば、植村はもともと早稲田大学の学生だった。学費滞納による除籍処分を受けたあと出版業に飛びこんで、人の縁があったのだろう、トルストイ全集刊行会という会社を興し、同全集を刊行した。
この売れ行きはかなりよく、植村自身、かなりの金を手にしたらしい。それを元手に「主潮」とかいう翻訳ものを中心とした文芸雑誌を創刊してみたものの、こっちのほうは成績がふるわず、六号で終わり、返本の山にかこまれて逆に借金をかかえてしまった。
植村は、うわさでは家賃を十八か月ぶん溜めるほどの苦境におちいった。現在もきっと全額返済には至っていないのにちがいないが、とにかく彼の教養はロシア文学がひとつの背骨をなしている。講演がはじまり、寛、芥川、田中純がそれぞれの話をつつがなく終えて、さて植村の番になったとき、寛は、
「どれ」
そっと控室をぬけだして、会場である大集会室の後方のドアを少しあけた。
隙間から壇上を見た。何しろあのむっつり屋だ、よほど進退きわまっているだろう、聴衆を退屈させているだろうという意地悪な気分からだったが、意外にも、その話しぶりは堂々としている。
声はよく出ているし、聴衆も熱心に聞いていることは野次の少なさからもわかる。この当時の講演会はむしろ野次のあるのが当たり前なのに。
(なんだ)
寛は、正直がっかりした。しかしながら講演が終わり、堀江の茶屋で歓迎会がひらかれると、植村はやっぱり元どおり。
ひとり腕組みをして沈黙するのみ。まわりは騒々しく、ことに寛のまわりはそうだった。芸者がどんどん入って来て、お酌をしつつ、
「『真珠夫人』見ましたぁ」
と、くちぐちに言ったからである。「読みました」ではなく「見ました」だった。新聞連載がまだ完結していないのにもう道頓堀の浪花座で芝居がかかっているらしかった。
東京へ帰り、家に着いてから講演料の袋をあけて、寛は、
「ほう」
百円である。なかなか遠出のかいがあった。反射的に、
「植村も、もらったかな」
この場合、植村には受け取る資格がどこまであるのか。講演をしたのは植村だけれど、宇野へも足を運ばせておいて無報酬ではさしさわりがある。
全額ならずとも、半額もらえれば返済の足しになるだろうか。寛はその後も二、三日、ふとしたおりに、あの宴席での植村のむっつりと腕組みしている姿を思い出した。平静だったような、憂い顔だったような……他人の財布が気になるたちなのである。
†
その寛が、
(雑誌を、やろう)
と決めたのは二年後、大正十一年(一九二二)の秋だったか。
世はまさしく雑誌の時代だった。硬派の雄というべき総合雑誌には「改造」「中央公論」があり、軟派の花というべき読物(よみもの)雑誌には「講談倶楽部」「婦人倶楽部」があり、文芸誌という特定少数の読者しか見こめない世界においてすら「新潮」が主座を占めていた。日本史上初の壮観だった。
その背景には、維新以来の公教育制度がようやく全国的に機能したことがある。
すなわち、識字人口が激増した。それまで字を読めなかった、あるいは読めても何の益にもならなかった工場労働者や、商店の小僧や、家庭の主婦がこぞって教養や娯楽のために読むようになったし、また社会のほうもそれをもう無為や怠惰とは見なさなくなった。活字が市民権を得たのである。
この傾向をいっそう推し進めたのは、石油ランプや電灯の普及だった。日が暮れてめしを食い、風呂に入ってもまだ一日は終わりではない、家や寮にはあかりがある。それをたよりに雑誌が読める。
夜の時間が、史上はじめて余暇というものに変わったのである。そうしてラジオや蓄音機といったような音声機器はまだ普及していなかったから、その余暇は雑誌がほぼ独占した。
夜は雑誌の時間だった。一冊を数人、ときには数十人で貸し借りしあう、いわゆる「まわし読み」の習慣もさかんだったことを考えると、たとえば「講談倶楽部」など、実質的にはつねに数十万の読者を持っていたといえる。雑誌をやろうという寛の決意は、打ち割ったところ、このような時代の空気が大きかった。
当時の文芸出版界でもっとも権威があった版元である春陽堂(しゅんようどう)に発売を引き受けてもらえたのも、寛の決意を後押しした。創刊は翌年一月号。誌名は「文藝春秋」とした。おもてむきは編集同人制を採ったけれど、何しろ急に決めたものだから同人組織などありようがない。寛自身がいろいろな知り合いへ、
「雑誌をやるから、同人になれ」
と声をかけて、ようやく体裁がととのったのである。
声をかけた相手は、横光利一(よこみつりいち)、川端康成、今東光、佐々木味津三(ささきみつぞう)といったような二十代の作家が多かった。
もちろん寛より年下である。若い人たちに発表の場をあたえてやろうというのは確かに今回の目標のひとつであり、寛自身、創刊号の巻頭に掲げた「創刊の辞」でもそのように明快に宣言している。しかし一部の文壇関係者は、
「なるほど若くて無名の作家じゃなきゃ、こんな急な話には乗れんさ」
と、やや意地悪にうわさした。
創刊号の目次には、寛のほか、その同人の名前がならんだ。
もっとも彼らは、小説や戯曲を寄せたわけではなかった。四百字詰め原稿用紙で数枚ぶんの随筆ばかり。何しろ制作費が全額、寛の私費から出ていることもあって雑誌自体がはなはだ薄く、二十八ページしかないので仕方がなかった。同人のひとり川端康成は、のち大家となってから「雑文雑誌」と回想したが、これは言い得て妙である。「文藝春秋」は雑文から出発したのである。
世間では、しかしこれが案外めずらしがられたものか。発行した三千部は完売した。春陽堂の社員がこの知らせを東京市小石川区林町十九番地の寛の自宅へ持って来ると、二階の和室にあつまって次号の相談をしていた同人たちは、
「おおっ」
万歳をした。若手のリーダー格である横光利一も、ふだんは天才きどりの佐々木味津三も腰を浮かして、
「壮挙だ、壮挙だ」
肩をたたきあった。寛も血がさわいだ。あぐらをかいた両ひざを肘でとんとんと打ちながら、
「よーし、よし。次の号はもっと売るべし。諸君この調子で行こうじゃないか」
が、車座のどこかから、
「ちがうな」
ぼそりと声がした。
沸騰した鍋に差し水をしたように、みんな口をつぐんで声のぬしを見た。声のぬしは、ふだんは群を抜いて無口な男だった。
寛も、おどろいた。おどろきつつ、
「何がちがう? 直木君」
「完売はたまたまだ。雑誌っていうのは、創刊号は出るもんなんだ。読者のご祝儀だ。それに加えて俺たちの場合は、一冊十銭なんだからな。うどん一杯とおなじ安さだ」
「それは、まあ……」
「問題は次号だ。『この調子』なんかじゃいかん。前号をしのぐ企画を打たんと読者は飽きる。雑誌は早々につぶれちまう」
直木は、鉛筆のように痩せている。背も高い。寛がその顔を見あげて、
「何をするんだ」
と聞いたら、ぷいと窓のほうを向いて、
「………」
知らぬ者が見たら失敬というか、不愉快きわまる態度である。だが寛は、このときにはもう、
(こういうやつだ)
いちいち口に出さずとも、直木には直木なりの考えがある。そう知っていた。二年ちょっと前、たった一椀のふろふき大根のために寛たちを早朝の京都でえんえん歩かせたのも結局のところは東京の文士に京名物を食わせてやろうという彼なりの不器用な親切だったように。
直木三十三、あの植村宗一の筆名である。「直木」は植村の「植」をふたつに割ったもの。三十三は……冗談みたいな話だが、彼はいま三十三歳なのだ。
年齢をそのまま筆名にしたのである。たぶん読者へひとつ話題を提供した気でいるのだろうが、寛はこの悪ふざけが嫌いだった。
やることが幼い。妙策のつもりで奇策に堕している。だいいち校正が面倒ではないか。この伝で行くと来年は直木三十四、そのつぎは三十五……。
にもかかわらず寛はこのたび、この男へも声をかけた。やはり財布が気になったのである。あの大阪での講演以降、寛はときどき直木の消息を聞くようになったが、どうやら直木はさらにもうひとつ雑誌の経営を引き受けてつぶしたらしい。
生活は、窮迫の極に達した。何でも誰かが直木の家をおとずれたところ、座敷には十人以上の高利貸しがいて、
「返せ」
「利子だけでも」
「差し押さえするぞ」
騒ぎに騒いでいたのだという。近所にももちろん聞こえていただろう。直木はあぐらをかいたまま返事しないので、ひとり去り、ふたり去りして、やがて誰もいなくなった。
大した胆力だ、などと評する者もあったけれど、寛に言わせれば胆力なものか。単に無口なだけではないか。どんなに慣れているにしても、人間、金のことで責められて心が無傷でいられるはずがない。同人雑誌の原稿料など微々たるものだけれども、
(足しになれば)
そんなふうに思ったのである。もっとも、現実的な計算もあった。文筆家としての直木にはほとんど実績がなく、いわば単なる閑人(ひまじん)なので、
(雑用に使おう)
雑誌づくりとは、意外にそれが多いものなのである。同人以外の寄稿者に対しては原稿とりの手間があるし、ほかにも校正やら、印刷所との打ち合わせやら、官庁への納本やら、読者の手紙への返事やら、定期講読者の名簿づくりやら。寛はこの時点では、直木には原稿の期待はしていなかった。
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