2022年10月から配信している佐伯泰英さんの「鎌倉河岸捕物控」シリーズ。タイトルの鎌倉河岸は、神奈川県の鎌倉市のことではなく、現在の東京都千代田区内神田二丁目あたりにあった荷揚場のこと。江戸幕府開府のころ、江戸城を普請するため鎌倉から来た材木商たちが、築城に使う木材を仕切っていたことから名付けられたと伝わる場所だ。
その鎌倉河岸を舞台に、政次、亮吉、彦四郎、しほの若者四人と、よき理解者である御用聞き・金座裏の宗五郎親分が難事件を解決する、佐伯作品唯一の捕物帳の舞台が酒問屋の豊島屋。
物語のなかの豊島屋は、江戸開闢(かいびゃく)以来の古町町人で、創業200年目を迎える老舗、「山なれば富士、白酒なれば豊島屋」という惹句があるくらい有名かつ人気店という設定。だが実は、その豊島屋(現・豊島屋本店)は慶長元年(1596年)から現在まで、酒舗を継続している。
16代目当主の吉村俊之さんから「リアルな豊島屋」について話をうかがった。
――「鎌倉河岸捕物控」で自分の家が舞台になっていると知ったとき、どんな気持ちでしたか?
吉村 なにも知らずに読み始めて、そのうちに「あ、これウチだな……」と。とてもびっくりしました。それで出版社宛にお手紙を書きまして。
この手紙は、豊島屋が現存することを知らなかった佐伯さんを驚愕させる。
第二作目の『政次、奔る』を出した直後か、豊島屋さんの直系、吉村俊之さんから、
「あれはうちが舞台です」
とのお手紙を貰ったとき、
「わああっ」
と仰天した。なんだか江戸時代に実在した人物が私の前に現れて、挨拶されたようで、
「どうしてどうして」
と狼狽した。(引札屋おもん 鎌倉河岸捕物控<六の巻> 「あとがき 豊島屋について」より)
吉村 お店の歴史についてしっかり調べて好意的に書いていただいているので、ありがたいなと思います。物語に出てくる主人の清蔵さんは結構チャラい人ですが(笑)。
――若い女性と情を結ぶ、いけないエピソードもありますね。ご一族的に、ちょっと……と思われることはありましたか?
吉村 フィクションですからまったく構いません。物語が色づいたらいいなと思っていました。わたくしどもが「ああしてください」「これは違います」と申し上げることはありませんでした。むしろ、作品をお読みになった方が、春に白酒を買いに来て下さる。ありがたいことでしたね。
豊島屋は慶長元年に神田鎌倉河岸で創業。当時は灘の下り酒をあつかう酒舗としてスタートし、酒と一緒に豆腐田楽をつまみとして出したことから、「居酒屋のルーツ」ともいわれている。
――もともと江戸・鎌倉河岸でご商売されていたのですか?
吉村 実はその点がよくわかってないのです。徳川家康と一緒に江戸に来た、茨城から来たと、諸説あります。豊島屋という店の名は、江戸時代初期にいまの千代田区、中央区、港区あたりを豊島郡といっていて、そこからとったらしいです。創業年については、文献にもあることなので確かなのですが。
灘の下り酒、白雪や剣菱の四斗樽を扱わせていただいたと記録があります。その後、河岸に集まる人たちへ酒と豆腐田楽を出すようになりました。大ぶりに切った豆腐に辛い味噌をのせて、酒が進むようにしたようです。その後、ひな祭りに合わせて白酒も売るようになりました。
豊島屋の白酒は大ヒット。「山なれば富士 白酒なれば豊島屋」と謳われ、天保5年(1834年)・7年(1836年)に出版された『江戸名所図会』にも白酒売り出しの模様が描かれているほど。売り出し口上があり、殺到してケガをした人を救護する場所まで設けられていたとか。
吉村 当時女性が酒をおおっぴらに飲む習慣はなかったと言われているので、ひな祭りくらい男性と同じように飲めたらいいのではと、女性をターゲットに作ったと伝わっています。ある意味では、イノベーションですね。
むかしは甘いものが貴重でしたから、お酒も甘くと考えたのでしょう。現代だと少し甘すぎるので、そのまま召し上がるほかに、牛乳やソーダで割る飲み方をご紹介しています。冷凍庫に入れてシャーベットにするのもおいしいですよ。
下り酒の販売と一杯飲み屋、使用済みの樽の販売、白酒のヒットと、豊島屋は順調に商いを続け、江戸幕府御用達となる。
吉村 幕府御用達の証し、というのは家に伝わっておりません。と申しますのは、東京大空襲ですべて燃えてしまったからです。御用達であることは、現存している文献でわかるのですが、残念なことに家には何も残っていないのです。
豊島屋には三つ大きな危機がありまして、ひとつめは明治維新。江戸幕府が消滅したことで、お侍さんたちへの売掛金が回収できなくなってしまい、商売は大きく影響をうけました。しかしその後も商売を続けることができ、明治時代中頃には、私の曾祖父が自らの日本酒「金婚」の醸造を灘地区で手掛けるようになります。
ふたつめは大正12年(1923年)の関東大震災です。鎌倉河岸の店が倒壊しまして、一杯飲み屋の商売をやめ、神田美土代町に移転することになりました。なんとか酒問屋を続けることができて、昭和初期には灘から東京都東村山市に酒蔵を移設することができたのですが、昭和20年(1945年)の東京大空襲で、店が燃え落ちてしまいました。おなじ場所で店を再開しようとしましたが、連合国軍に接収されてしまいます。これが三つめの危機。口伝の家訓である「お客様第一、信用第一」を守って商いを続けていたことで、取引先、お客様、地域の方々、いろんな人に助けていただいて、神田猿楽町に移転、商売を続けることができました。これには本当に感謝の気持ちしかありません。
――427年の歴史には、さまざまな出来事が刻まれていますね。吉村さんは「自分の家が江戸幕府開府より古い創業の家である」と自覚されたのはいつですか?
吉村 帝王学的に教えられたことはないのです。祖父に連れられて、元旦の早朝に明治神宮の歳旦祭に参列することくらいでしょうか。我が家でつくっている日本酒「金婚」をお神酒につかっていただいているご縁ということは承知していましたが、祖父も、父も、家の歴史を殊更に話すことはありませんでしたし、就職を考える時期が来ても家業を継ぐことを強いたりしませんでした。
――吉村さんは家業を継ぐ前、日立製作所の中央研究所に勤務し、半導体メモリーなどの基礎研究に携わっていらっしゃいました。40代前半で家業を継ぐきっかけとなったのは何だったのでしょうか。
吉村 父が高齢になり、店の将来を考えたとき、これだけ長く続いてきた店をここで途切れさせてはいけないと考えました。やはり心のどこかに、歴史ある店に生まれたという意識があったのだと思います。
家業を継いだあと、吉村さんが手がけたのは新しい酒の開発。そのひとつ、「金婚 純米吟醸 江戸酒王子」は東京産の米と酵母をつかった日本酒だ。
吉村 わたくしどもは江戸からずっと商いをさせていただいております。だからこそ、東京にこだわった酒を、という気持ちが強くあります。それに東京にお住いの方でも、東京で酒を造っていることを、ほとんどの方がご存じない。日本酒の消費量もどんどん落ち込んでいる。じゃあ、東京の米で、東京でつくって、海外の方にも飲んでいただけるようなものを造ろうと思ったんです。おかげさまで「江戸酒王子」はパリで行われた品評会で最高賞(プラチナ賞)をいただきました。海外にも「金婚」の輸出を進めています。
続いて吉村さんは、関東大震災で途絶えてしまった居酒屋を、2020年、97年ぶりに復活させる。
吉村 創業の地である神田鎌倉河岸、次に店を構えた神田美土代町、現在酒舗がある神田猿楽町、どこからも近いところに、創業の商いである酒舗兼立ち飲み居酒屋「豊島屋酒店」を復活させることができました。でも、さてオープンというときに、新型コロナウイルス感染症が世界を襲い、開店延期を余儀なくされました。そのあとも休業や短時間営業など、不安な船出でしたね。お馴染みとなっていただいたお客様をはじめ、いろんな方々に支えていただきました。
店では「金婚」や、豊島屋初代当主の名前を冠した「十右衛門」などの日本酒のほか、東京にこだわったつまみを出しています。たとえば豆腐田楽は、神田の老舗豆腐店・越後屋さんの木綿豆腐をつかって、お味噌は創業300年超の老舗ちくま味噌さんのもの。ほかにも千疋屋総本店さんのドライフルーツを練り込んだ「豊島屋バター」などもあります。長く商いを続けてらっしゃるお店とはつながりもありますし、そういうお店とコラボして新しいものを生み出すことは必要なことと思っています。
私は豊島屋というリレーの、単なる一走者に過ぎません。次の走者にバトンを渡すことが大きな役目です。また、創業500年まで続けて商えるものを残すことも役割のひとつと思っていて、そのために新しい酒をつくったり、海外に販路を広げたり、創業の商いを復活させたりしました。これからも、口伝の家訓「お客様第一、信用第一」を旨に、豊島屋の身の丈にあった商売を続けられたらと考えています。
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