長「そのように“猫の予感”をさりげなく忍び込ませてある。小説技法上の約束ごととしては、ここまで猫のイメージが積み重なったら、もう主人公の前に本物が登場しない方がおかしい。さっき『実はとても緊密に注意深く書かれている』と言ったけれど、それはこのあたりからもよく分かる」
N&K「なるほど」
長「ついでに言うと、妃斗美の実家がうなぎ店であることも一つの伏線だ。犬ほどじゃなくても、猫だって人間よりはるかに嗅覚が鋭い。雷は、妃斗美の皮膚や頭髪の襞に入り込んでいるうなぎの匂い分子を敏感に察知し、ピンポイントで彼女に声をかけたんだ」
N&K「そうかぁ……?」
長「そうだ(断言)」
議論が最も白熱したのは終盤の展開についてでした。
N「ラストもハッピーエンドなので後味がいい。雷ちゃんが無事に帰ってくるので、よかったと素直に思えた。でも最後の最後、“背の高いスケッチブックを持った男性”に抱かれて戻ってくるというのは……」
K「うん。ちょっと都合がいいな、と感じる読者もいるのでは」
N「都合のいい展開は、“猫によって人生が変わる”というテーマを弱くしちゃうんじゃないかしら? これは余計な心配かな」
長「そう感じる読者もいるかもしれないが、ちょっと真ん中あたりを思い返してほしい。そこに、すごくいい言葉がある。ムトくんの台詞だ(本を開いて当該箇所を読み上げる)」
――『大き過ぎて、美し過ぎて、その代償として、途方もなく大きな悲しみをたたえているような景色を見て、景色の中に僕が埋没してしまうくらい見て、圧倒されて、うなだれて、ああ、僕には描けない、こんな世界は、って、こてんぱんに打ちのめされてから、よろよろと立ち上がって、そこから描き始めたいんです』
N&K「これは本当に素敵な言葉だった」
長「最後に妃斗美に訪れるのは、これと似たような状況だ。猫が家出をして絶望するが、気を取り直し、また捜索を再開しようとするところ。絶望した心情を小手鞠さんは『(失ったものの大きさに、私は)打ちのめされていた』と書き、気を取り直す場面を『よろよろと立ち上がった』と書いている」
N「ああ、意図してムトくんの言葉と同じ表現を使っている」
長「そう。これは二人の心が繋がっているという暗示だ。注意深い読者なら、ここを読んだ瞬間に“あっ、次はムトくんが再登場する”と直感できるようになっている。加えて、彼が猫好きであることもすでに描かれているから、最後に雷ちゃんを抱いて登場しても、作品世界の中では何ら無理はない」
といったように本作は、普段は自分でも呆れるほど無口なわたしに、大量の言葉を喋らせた小説でもあったのでした。
繰り返しになってしまうかもしれませんが、わたしがこの小説を知り合いに勧めずにいられなかった理由は、自身が大の猫好きだから、というだけではありません。
それよりも、一見するとゆるくてふわっとした物語なのに、実は緊密に設計され、細心の注意で伏線が張られているという点に、ミステリ作家のはしくれとして魅せられたから――たぶんこちらの理由の方が大きいと思います。
最後のページを閉じたら、周囲の近しい人と一緒に、ぜひ感想を語り合ってほしい一冊です。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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