- 2023.07.17
- 書評
読者を戦後大阪へ放り込む、捜査ミステリにして大スケールの歴史小説
文:門井 慶喜 (作家)
『インビジブル』(坂上 泉)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
まだまだ敗戦の色濃い昭和二十九年(一九五四)五月、大阪で殺人事件が発生した。現場は大阪城東部、旧造兵廠跡の国有地ということになっているが、実際には不法占拠のバラックのならぶ盛り場と、在日朝鮮人の集落とのあいだの草むらの空地、いわゆる「三十八度線」で、堅気の足を踏み入れるところではない。
殺されたのは衆議院議員・北野正剛の秘書である宮益義雄、四十三歳。背広を着て、靴をはいたまま仰向けに倒れていたが、頭部には「中央卸売市場」の字の印された麻袋がかぶせられていた。大豆や穀物を入れるドンゴロスだ。死因は左腹部および左前胸部への複数の刺傷による失血か。
現場へ最初に到着し、そのまま事件を担当することになったのは主人公、新城洋巡査である。大阪市警視庁東警察署刑事課一係所属。刑事になってはじめて出会う殺人事件だった……と、本作『インビジブル』ではこの肩書きが重要だ。大阪なのに警視庁? 警視庁って東京の組織じゃなかったっけ。
じつを言うと――私も本書を読んで知ったのだが――この当時、大阪市警視庁はほんとうに存在した。こんにちの大阪府警の前身のひとつであるが、よりいっそう正確な説明のためには戦前の制度を参照しなければならない。戦前のいわゆる明治憲法下では警察というのはすべて国家に属していて、長官はもとより一巡査にいたるまで国家公務員だった。
この組織のありかたは、敗戦後、日本を占領した連合国最高司令部(GHQ)の問題視するところとなった。こんなことでは警察とは権力者の槍の穂先のようなもので、政治的中立性を保つことができない上、各地の実情に対応できない。まったく非民主的ではないかというわけで、GHQの指令を受け、日本の制度は国と地方の二本立てになった。地方というのは文字どおり地方なので、全国の市および人口五千人以上の町村がそれぞれ市町村警察を置く。
全国に千六百以上、これを自治体警察と総称した。ただしこれだけでは田舎や僻地はカバーできず、広域犯罪にも対応できないから、そこのところは各都道府県に国家警察を置いて対処する。
略して前者を「自治警」といい、後者を「国警」という。すなわち大阪市警視庁とは千六百軒のほうの一軒、大阪市だけを管轄する自治警なので、そこに属する新城がこの事件を担当するのは当然だった。新しい民主的な日本では地方のことは地方がやる。もはや国家が偉そうに上から何かを押しつける時代は去ったのだ……と、しかし新城のこんな期待は、捜査開始早々くじかれることになる。上司にこう言われたからだ。
「新城、お前は守屋警部補と組め」
守屋とは守屋恒成、国家地方警察大阪府本部警備部警備二課所属。つまり国警の手先にほかならず、しかも東京出身、東京帝国大学卒、高等文官試験合格、これだけでも大阪生まれで中卒の新城にとっては理解の埒外にあるのに加えて、守屋は性格も冷淡だった。最初に現場へ向かうとき、新城はいちおう気を使って話しかけるのだが、
「……あれでっか、大学はどちら出てはるんでっか」
「東京帝大だ」
「学士様でんな。ワシなんぞ新制中学卒やさかいに、エライモンですわ」
「大したことじゃない」
にべもない返事ばかり。まことに「好きになれる要素など何ひとつない」、最悪の出発にほかならなかった。
とまあ、こうして本作は、何もかもが正反対の男ふたりが事件解決という共通のゴールめざして駆けずりまわる相棒ものの一面を持つ。ミステリとしては類書の多いジャンルではあるが、しかし本作がそれらと大きく違うのは、そんなふたりがもうじき肩書きを失うと早い段階で予告されている点である。しかもその原因は、目の前の事件と強く結びついているのだ。
具体的には北野正剛である。死体となった宮益が、生前、秘書として仕えていた衆議院議員。北野は事件が起きたときには国会の会期中で東京にいたのだが、その国会では、ほかならぬ警察法の改正法案が審議中だったのだ。もしもこれが賛成多数で可決されれば自治警も国警も廃止され、かわって各都道府県がひとつずつ警察組織を持つことになる。
日本中をまきこむ大改編になる。なるほど例の千六百軒が乱立する非効率きわまる状態は改善されるにしても、現場の混乱は甚大だろう。新城も守屋もどんな新しい身分があたえられるのか、どんな仕事をやることになるのか想像もつかない。もちろん上司や他署の刑事も。
みんなみんな文字どおり明日をも知れぬ状態なのだ。読者はこうして殺人事件の行く末と、ふたりの主人公の行く末と、それから日本の警察そのものの行く末にまで思いを馳せることになるわけである。まことに類書にはない多重塔のような読み味で、ページを繰る手が止まらなくなるのは無理もないのだ。
構成もまた秀逸である。新城と守屋がだんだん互いを理解していく、ということは自治警と国警が史上最後の協力関係を築いていくのと軌を一にして捜査そのものが大阪市から大阪府へ、そうして全国的規模へと進んでいく。その足どりは確かである。ミステリでありつつ、スケールの大きい歴史小説をも思わせる展開といえるが、よく考えれば、新城はじめ登場人物の多くは、もしも実際この世に生を受けたとしたら現在百歳前後である。
そういう時代の話なのだ。見かたによっては歴史よりも身近な過去の物語かもしれず、だとしたら、こんなところにも読者が味わう強い臨場感の一因がある。
†
とまあ、はからずも少し抽象的なところから話を始めてしまったが、本作の魅力は何よりも具体的な描写にある。
たとえば先ほども触れた「三十八度線」の周辺、不法占拠のバラックのならぶ盛り場は、まず、
戦後、国家が崩壊した間隙から、食糧配給制度の脆弱さをついて生まれた闇市のなれの果て。
と簡潔に起源が説かれ、それから、
大小便とも、闇屋の出汁とも、廃油とも、密造二級酒とも、腐った生ゴミとも取れぬ、それらが混じりあった悪臭がそこかしこから湧き立つ。
その中に一軒の小さな居酒屋が佇む。
と描かれる。読者は視覚とともに嗅覚も刺激される。そうしてその居酒屋の厨房のラジオから流れる「場違いに朗らかな」曲が美空ひばり『ひばりのマドロスさん』とくれば耳までくすぐられるわけで、これで読者はいっぺんに昭和二十九年の大阪という知らない世界へ――たいていの人は知らないだろう――放り込まれる。
新城や守屋といっしょに底辺の街を歩くことになる。私はさっき読者が味わう臨場感がうんぬんと言ったけれども、順番で言えば、こっちを先に挙げるべきだった。歴史の知識が得たいなら教養書を読めばいいが、その時代にしかない手ざわり、肌ざわりを感じたいなら優れた小説に就くほかないのだ。日本推理作家協会賞、大藪春彦賞受賞。
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