本の話

読者と作家を結ぶリボンのようなウェブメディア

キーワードで探す 閉じる
江戸を生きる人々のリアルが物語を生む

江戸を生きる人々のリアルが物語を生む

青山 文平

『江戸染まぬ』(青山 文平)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #歴史・時代小説

『江戸染まぬ』(青山 文平)

 私は小説の書き手であるわけですが、読み手でもあります。書くための参考にするというのではなく、読みたいから読みます。

 求めるのは、当たり前の日常をリアルに描いた小説です。ある日、突然、ありえないことが起きる、といった設定には手が伸びません。小説を書くようになる前から、ずっとそうです。

 なにかすごいこと、想いも寄らないことが起きなくても、人は死なない限り、生きていかなければなりません。私は、ありえないことを待ち望んで、“生きていかなければならない時間”をやり過ごすのではなく、そっちの、言わば常温の時間を大事にしたい。けれど、その手がかりを手に入れるのは、けっして簡単ではありません。

 それは、ふだんは、そんなものは無いかのように埋もれていて、なにか問題が起きたり、環境が変わったりしたときにふっと、自分を含めた人の言葉や振る舞いに浮かび出ます。気を留めていなければ気づきもしないし、気を留めて記憶してもいずれは消えてしまう。フラジャイルな生き物のようです。でも、そういう華奢(きゃしゃ)な生き物が、小説にだけは群生しています。言葉で綴られた常温の情景のなかならば、生きつづけることができるからです。だから、小説。それも、当たり前の日常をリアルに描いた小説なのです。

 日本ではもう絶版になっているドイツのある本が、まさに私が希求する小説で、教えていただいた方へのお礼のメールに「常温の日常をどう生きていくかがLIFE」と書いたことがありました。直ぐに返信メールが届き、そこには「そして、それを支えるのが文学」と記(しる)されていました。そうか、それが文学か、と、深く感じ入ったものです。

 

 読みたい小説はそのまま書きたい小説に重なります。私は時代小説においても、常温の日常をリアルに描いた小説を書きたいと思っています。

 ですから、私はこの『江戸染まぬ』という本が好きです。私はこれまで十五本の小説を出していますが、好きな順で言えば三本の指に入ります。基準はもちろん、常温の日常をリアルに描いているかどうか。時代小説の定型といえば、派手なゴールが最初に提示されていて、そのゴールに向かってまっしぐらというパターンで、『江戸染まぬ』はその真逆なのでしょうが、だからこそ、私は好きなのです。そういう意味で言えば、私は時代小説を書いているというよりも、江戸時代を舞台にした小説を書いているのでしょう。いわゆる時代小説の型は、まったく意識していません。

 ならば、舞台を江戸時代に求めず、現代にすればよいではないか、という声が上がるかもしれません。でも、書き手としての私には、江戸時代でなければならない、いくつかの理由があるのです。なかでも、最も大きな理由は、当時の人々のリアルな日常が、史実として残っていることです。私は、そうした想いもよらない史実に触れ、人は本当にこんなことをするんだ、という感動に背中を押されて、指を動かしていきます。私が書いた物語の胚となっているのは、すべて史実です。私が頭のなかでこしらえたものではありません。たとえば、短編集としての『江戸染まぬ』を締め括っている『台』です。

 かつて下女に子をつくらせたことのある祖父が、後年、祖母が中風で足腰が不自由になったとき、みずから支えるための台を作って老いた妻の手洗いを介助する……『台』の核となっているこの話は、ある小禄の旗本が家の暮らしぶりを記した『官府御沙汰略記(かんぷごさたりゃっき)』という日記に収められています。男尊女卑と括られる江戸時代に、こんなことが本当にあったのかと、私は甚(いた)く胸を揺さぶられました。そして、いつか小説にしたいと思い、『台』に結びついたのです。

 むろん、『台』は日記のままではありません。時代も、登場人物も、台の話以外は、なにからなにまでちがいます。日記の台が、小説『台』になるためには、第十二回学問吟味をはじめとする別の史実が必要でした。さまざまな史実が出会い、交じり合って、『台』が生まれたのです。そのように、私の場合、物語は素材たちが綴ってゆきます。私は、こういう世界を描こうとして書く書き手ではなく、こういう素材をそろえたらどういう世界が立ち上がってくるのだろう、と思って書く書き手なのです。私の役割は、常温の日常をリアルに伝えている史実を探し集めること。そうすれば、あとは、素材たちが互いに引き寄せ合ったり、反発したりして、物語を組んでいきます。物語が勝手に、降りてくるのです。

 

 もしも、台の話が史実でなく、私が頭で作った話だったとしたら、どうでしょうか。

 まず、書く気になれません。感動がないからです。私にとっては、創作のスターターがないことになります。繰り返しになりますが、私の背中を押すのは、人は本当にこんなことをするんだ、という感動です。

 そこをなんとかして、たとえ書き終えたとしても、単なる読み物になって、常温の日常を生きていくための手がかりとなる小説、という自負を持つことはできないでしょう。つまりは、私は私の読みたい小説を書けないことになります。だから私は、江戸時代を舞台にしなければなりません。とにかく、素材との出会いがなければ、なにも動き出さないのです。

 表題作である短編『江戸染まぬ』では、渡辺崋山(わたなべかざん)の『游相日記(ゆうそうにっき)』でした。田原(たはら)藩の家老でありながら、画家で蘭学者としても知られ、それがために、あの蛮社(ばんしゃ)の獄で切腹に追い込まれた渡辺崋山。その崋山が、かつて下屋敷で下女奉公をしていた銀(ぎん)という女性を訪ねるために、上屋敷のあった江戸の半蔵門(はんぞうもん)から相模(さがみ)国の高座郡(たかくらごおり)へ大山道(おおやまみち)を使って赴(おもむ)いたときの旅日記です。

 中年になった銀は貧しい百姓の妻として土に塗(まみ)れる日々を送っていますが、下屋敷で下女をしていたとき、隠居となった元藩主の手が付いて男子を産んでいました。その男子の息子が後に田原藩最後の藩主となりますから、つまり、銀は殿様の祖母です。短編『江戸染まぬ』の構図と同一ではありませんが、かなりの部分が重なります。私はきっと、赤児と切り離されて里へ戻される銀の供をした下男が居たはずだと想い、犯罪の市場である中番屋(なかばんや)と結びつけて『江戸染まぬ』を書きました。

 短編『江戸染まぬ』は後にさまざまな史実と結びついて長編『底惚(そこぼ)れ』を生み、直木賞を受賞したあとの道標となる中央公論文芸賞と柴田錬三郎賞に選ばれます。選考委員のお一人は、『底惚れ』を“柄の大きい小説”と評してくださいました。私は“柄の大きさ”を、“普遍性の強さ”と理解していますが、もしも、そうならば、その“柄の大きさ”は、短編『江戸染まぬ』が備えていたものです。

 短編『江戸染まぬ』は長編『底惚れ』を生んだ(・・・・)のであって、長編『底惚れ』となった(・・・・)わけではありません。短編『江戸染まぬ』と長編『底惚れ』は、いまも並立して成り立っている、別の物語です。短編『江戸染まぬ』は『俺』が芳(よし)への想いを貫いて長後(ちょうご)宿で果てる世界として在り、長編『底惚れ』は『俺』が生き延び、愛の力で成り上がる世界として在ります。今回、短編『江戸染まぬ』を読んでいただいた方は、物語が終わるべきところで終わっていることに気づいていただけたのではないかと思います。

 史実を素材とする私の小説は、短編でも長編並に史実を使うので、長編を生みやすいと言えるかもしれません。最新の連作中編集『本売る日々』を読んでから、この短編集『江戸染まぬ』を開いていただいた方は、『本売る日々』のルーツが『町になかったもの』にあることを察せられたのではないでしょうか。

 幾度となく書いていますが、とはいえ、素材を探し集めるのはタフです。厚くて重い専門書を積み上げて、なんの収穫もないのは当たり前のことです。書き手ですから書くことは喜びであり、根を詰めても苦痛には感じませんが、資料本の空振りつづきは砂を噛むようで、かなり応(こた)えます。一年に、限りなく一に近い一、二本しか、本を出せない理由にもなっています。

 その代わり、自分の頭だけで書くのとちがって、想ってもみなかった物語が収穫できます。発見がいっぱいあり、なんで、自分がそんな物語を書けたのかがわかりません。それは、自分の知らぬ自分を発見することでもあります。幾つになっても、新しい自分と出会うことができるのはまさに醍醐味(だいごみ)で、きっと私は、なんのかんのと言いながら、このやり方をつづけていくのでしょう。


(「文庫あとがき」より)

文春文庫
江戸染まぬ
青山文平

定価:825円(税込)発売日:2023年08月02日

電子書籍
江戸染まぬ
青山文平

発売日:2023年08月02日

ページの先頭へ戻る