〈約160cmを越える大太刀を振るい、織田信長・徳川家康軍の追撃を防ぎ続けた…“猛将”を討ち取ったのは一体誰なのか〉から続く
戦国小説集『化かしもの 戦国謀将奇譚』の著者・簑輪諒が、小説の舞台裏を戦国コラムで案内する連載の第3回です。(全7回の3回目/前回を読む)
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中世においては、女性が武家を代表し、統括する立場――家長(かちょう)を務めることがままあった。
たとえば、当主の死により跡を継いだ世子などが、幼少等の理由で十分に任を果たせないとき、鎌倉幕府における「尼将軍」北条政子のように、亡き前当主の妻が後見役として、事実上の当主の役割を担った例は広く見られる。戦国時代でいえば、今川家の寿桂尼(じゅけいに)が有名である。
あるいは、後継に適した男子がいない場合は、中継ぎ的な立場ではあるものの、女性が当主に就任することもあった。こちらは、九州の立花誾千代(ぎんちよ)や、古河公方家の足利氏女(氏姫)などの例がある。
下野国(しもつけのくに)――現在の栃木県の大名、宇都宮広綱の妻・南呂院(なんりょいん)もまた、そんな「女性家長」の一人である。
戦国大名・宇都宮広綱
宇都宮氏は、平安時代から続く北関東の名門である。
家伝によれば、その歴史は、関白・藤原道兼の曽孫である宗円(そうえん)が関東に下向し、下野国の一ノ宮である宇都宮明神(宇都宮二荒山神社)の座主になったことに始まるという。
宗円の子孫は、宇都宮氏を名字として神官と武家を兼ね、守護に匹敵する勢力を誇った。
『太平記』にも「宇都宮は坂東一の弓矢取なり」「命を棄(す)つること塵芥(じんかい)よりも尚(なお)軽くす」といった、宇都宮家の勇猛さ、命知らずぶりを讃える評が残る。
ところが、家祖・宗円の頃から400年以上を経た、戦国時代の宇都宮氏は、当主と重臣がたびたび内紛を繰り返したことで、往時とは比ぶべくもないほど弱体化していた。
とりわけ、21代当主・広綱の生い立ちは、悲痛というほかない。宇都宮家の世子として生まれた彼が、わずか5歳のとき、父・尚綱(俊綱)が戦場で横死する。
突然の当主の死に、宇都宮家中が動揺する中、その混乱に乗じて、重臣・壬生氏が謀叛を起こす。壬生氏は軍勢を率い、宇都宮氏の本拠・宇都宮城に攻め寄せ、占拠してしまった。
壬生氏挙兵の報せを聞いた重臣・芳賀高定は、幼き広綱を抱いて宇都宮城を脱出。自身の居城である真岡城へと落ち延び、以後、広綱を奉じて、宇都宮城奪還のために尽力する。
広綱の幸運は、この芳賀高定が、一途な忠心と、類まれなる智謀の持ち主であったことだ。高定は敵方の陣営を暗殺や策謀によって次々と切り崩し、一方で、隣国・常陸(茨城県)の有力大名である佐竹義昭(名将で知られる佐竹義重の父)との同盟を取りつける。
そして、亡命から8年後――弘治3年(1557)12月、佐竹氏の支援により、ついに宇都宮城を奪還した。
その後、広綱は佐竹義昭の娘――のちの南呂院を、妻として迎えた。
以来、宇都宮・佐竹の両家は、盟友ともいうべき結束によって、乱世を乗り越えていくことになる。
上杉・北条のせめぎ合い
城主に返り咲いたのちも、宇都宮氏の苦難は続いた。
宇都宮氏のみならず、北関東の領主たちにとって脅威となったのは、小田原城を本拠に南関東を席巻し、なおも拡大を続ける北条氏(後北条氏)である。
関東諸侯は一時、越後(新潟県)の上杉謙信を盟主とすることで、北条氏に対抗しようとした。謙信は、三国峠を幾度も越えて関東に来襲し、北条方と激しくせめぎ合った。
謙信は永禄3年(1560)の初めての越山以来、毎年のように関東出兵を繰り返した。しかし、それから9年後――永禄12年(1569)、謙信はもはや北条氏打倒は成らないと悟ったのか、なんと北条氏と同盟を結んでしまう。
この上杉・北条による「越相同盟」は、ほどなくして破綻するのだが、そののちの謙信は情熱を失ったのか、これまでほどの頻度で関東へ出兵することはなくなっていた。
宇都宮氏ら関東諸侯は、愕然とするほかなかっただろう。
「上杉という後ろ盾を失い、このまま我らは、北条に飲み込まれるほかないのか」と。
そんな最中、宇都宮氏を更なる悲劇が襲う。――当主・広綱が、病没してしまったのである。
南呂院、立つ
天正4年(1576)、宇都宮広綱は病没した(※天正8年没説もある)。
32歳の、あまりに早すぎる死だった。幼少期の苦難、そしてそののちの過酷な関東情勢が、彼の命をすり減らしたことは、想像に難くない。
広綱の妻・佐竹氏(俗名不詳。一説に「せうしやう(少将)」)は落飾し、南呂院と号す。生年は不明だが、兄の佐竹義重がこのとき30歳であるため、夫の広綱の世代から考えても、彼女は20代後半と見ていいだろう。
広綱の後継者である嫡子・国綱は、このとき9歳でしかなかった。宇都宮家では、広綱の死を伏せると共に、南呂院が後見役――実質的な当主として、政治を主導することとなった。
「唐(中国)においては則天武后、本朝(日本)においては北条政子の古例がある。当家における南呂院様も、これらに倣(なら)うものであろう」
『関八州古戦録』によれば、宇都宮家の者たちはそのように評しあったという。かくして、「宇都宮の尼将軍」と呼ぶべき女性家長が、ここに誕生した。
その名は「東方之衆」
この翌年、南呂院は、次男・宇都宮七郎(結城朝勝)を、隣国の結城(ゆうき)氏に養子入りさせる。
結城氏は、かつては北条寄りの姿勢を取ることが少なくなかったが、この時期は佐竹氏の説得により、反北条方に転じていた。とはいえ、その指針がいつまで続くかはわからない。
宇都宮氏と結城氏の養子縁組は、いわば結城氏に打ち込んだ楔(くさび)であった。同時に、宇都宮家中の親北条派に対して、
「宇都宮は、決して北条には屈さぬ。佐竹・結城と結束し、坂東武者の意地を貫く」
と表明し、牽制する意図もあったのではないか。
こののちも、宇都宮・佐竹・結城の三家は同盟関係を固く守り、下野の那須氏、常陸の大掾(だいじょう)氏ら、北関東の諸勢力を引き込んで、「東方之衆(とうほうのしゅう)」と呼ばれる領主連合を結成し、北条氏に対抗していく。それは、上杉方でも北条方でもない、第三勢力としての坂東武者たちの独立を意味していた。
以後、宇都宮氏は、北条方の激しい侵攻に脅かされながらも、「東方之衆」の結束のもと、決して敵方に屈さず、必死に防戦を続けた。
戦いの果てに
そして広綱の死から14年後――天正18年(1590)、豊臣秀吉の「小田原征伐」によって、戦国大名としての北条氏は滅ぼされ、長きにわたる関東の争乱にようやく終止符が打たれた。
抗うことを諦め、北条氏に臣従した関東の領主たちは、小田原征伐後、ことごとく改易に処された。一方、あくまでも坂東武者の意地を捨てず、抗戦を続けた宇都宮、佐竹、結城らは、いずれも所領安堵を勝ち取った。
とはいえ、いかに意地や誇りを掲げたところで、「東方之衆」や宇都宮家中の結束がなくば、10年以上も戦線を維持することは不可能であったろう。
領主連合の結成に携わり、その後も宇都宮家の舵取りを担い続けた、南呂院という優れた家長がいなければ、同家は広綱死後、数年と持たず滅んでいたかもしれない。
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