〈夫が32歳で病死、後継者はまだ9歳…北条政子にならって誕生した、“宇都宮の尼将軍”と呼ばれる女性家長の功績〉から続く
戦国小説集『化かしもの 戦国謀将奇譚』の著者・簑輪諒が、小説の舞台裏を戦国コラムで案内する連載の第4回です。(全7回の4回目/前回を読む)
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――彼(信長)は豊富にかつ美しい贈物を携えて訪問を望む者だけに会見を許し、しかもそれは大いなる好意であり、格別の寵愛と見なされるのであった(ルイス・フロイス『日本史』)
今も昔も、他者や社会との関わりにおいて、贈り物は欠かせぬものだが、生き死にのかかった戦国時代にあっては、その重要性は現代の比ではない。まして、相手が天下人たる織田信長ともなれば、なおのことである。
本記事では、そんな信長に、戦国武将たちが贈った品々について、一部を紹介していきたい。
贈り物の定番・馬
馬は贈答品の定番であり、戦に欠かせぬ武具として刀槍などと同様に、武家においては伝統的に珍重された。
――彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩り
と、宣教師ルイス・フロイスの『日本史』にもあるように、信長は武家の慣習という以上に、個人の嗜好としても馬を好んでいたようだ。『信長公記』には、ある家臣に愛馬の献上を命じるも拒まれたため、信長は深く恨み、やがて主従不和になった、などという逸話も残されている。
天下人となった信長には、諸国から名馬が献上された。天正9年(1581)の京都馬揃えでは、信長自身は「大黒」という馬にまたがり、「鬼芦毛」「小鹿毛」「大芦毛」「遠江鹿毛」「小雲雀」「河原毛」といった、愛蔵する中から選りすぐった名馬を、唐織物や金襴の馬具で美々しく飾りつけて披露した。
他に、諸侯から献上されたものとしては、米沢の伊達輝宗が贈った「がんぜき黒」「白石鹿毛」、会津の蘆名盛隆が贈った「あいそう駁(ぶち)」の馬などが名馬として伝えられている。
全国の様々な食べ物
食物もまた、贈答品によく用いられた。
植物の中では、瓜(うり)がポピュラーなものの一つだった。甘味が貴重だった時代、瓜は夏の果物として好まれ、漬物にすれば保存も利いたことから各地で生産され、贈答品として用いられた。信長への贈答品としては、織田家臣の稲葉一鉄、松井友閑らが瓜を献上した記録が残る。
特に香りと甘味に優れ、名産品として知られたのが、美濃(岐阜県南部)真桑村産の真桑瓜(まくわうり)で、これは信長自身も贈答に用いた。『御湯殿上日記』には、天正3年(1575)6月、信長が朝廷に「美濃の真桑と申す名所の瓜」を2籠進上したと記されている。
他に果物類では、天正8年(1580)10月に本願寺より、蜜柑(みかん)が5籠、信長へ献上されている。柑子(かんし)、橘(たちばな)といった柑橘類は古来からあったが、蜜柑が贈答品の記録に現れるようになるのは室町時代以降である。戦国時代においては、畿内の寺社などで栽培されたほか、関東や駿河(静岡県東部)でも贈答に用いられていた記録がある。
当時の本願寺は、10年にわたる抗戦の末に織田方に屈し、大坂の本山を明け渡して間もない頃であったから、この貴重な甘味を贈って、少しでも信長の心証を良くしようとしたのだろうか。
魚介類の贈答品は多岐にわたる。鮒(ふな)や鮭といった淡水魚、鯛、鯖(さば)、海老、鮑(あわび)、くらげ、なまこ、昆布などの海産物など、例を挙げればきりがない。
あるとき、尾張(愛知県西部)知多半島、常滑の領主・水野直盛が、鯨(くじら)を1折、信長に献上したことがあった。伊勢(三重県)、尾張などではこの当時すでに、鯨漁の方法が確立していたらしく、この地域の産物として公家や幕臣の日記にも登場する。
水野から贈られた鯨肉を、信長は朝廷に進上し、一部は裾分(すそわ)けと称して、家臣の細川藤孝(幽斎)にも贈っている。当時はこのように、受け取った贈答品をさらに他者へ贈ったり、家臣らに分配することもあった。
伊豆の豪族・江川氏は、家伝として造酒を営み、その酒は「江川酒」と呼ばれて珍重された。伊豆を領した小田原北条氏は、この江川酒を贈答品としてたびたび用い、上杉謙信や織田信長など有力大名に贈った。
一説に、信長自身はあまり酒を嗜(たしな)まなかったとも言われるが、織田家の権威が東国まで影響を与え、江川酒のような名産品がわざわざ贈られてきたことは、彼の誇りを十分に満足させただろう。恐らく、この酒も先ほどの鯨などと同じく、家臣らに分け与えたのではないか。
ちなみに、江川氏は北条氏滅亡後も存続し、豊臣秀吉や徳川家康も江川酒を味わったと伝えられる。
海を越えた交易品
戦国時代は、中国の織物、朝鮮の茶器、虎や豹(ひょう)などの毛皮、西洋の衣類、時計、ガラス製品など、海外からの物品が盛んに流入する時代でもあった。
前述『日本史』によれば、フロイスらが信長に拝謁する際、献上品として「ヨーロッパ製の大きな鏡」「孔雀の尾」「黒いビロードの帽子」「ベンガル産の籐杖」を携えていったが、信長はそれらの品を見たあと、四つのうち三つは宣教師たちに返し、ビロードの帽子だけを受け取ったという。
――彼は贈物のなかで気に入ったものだけを受け取っており、他の人たちに対する場合でもつねにそうであった
と同書は記す。信長の性格や美意識のほどが、うかがえるような逸話である。
交易品からの贈答として、少し変わったところでは、秋田の大名・安東愛季(あんどうちかすえ)が、天正5年(1577)、信長にラッコの毛皮を10枚贈っている。
恐らくは、ラッコの生息地である千島列島や樺太のアイヌから、蝦夷地(北海道)本島のアイヌが毛皮を買い上げ、さらに安東氏が購入したのではないか。
中世の海外交易というと中国や西洋などに目が行きがちであるが、この安東氏の例のように北方で展開された交易や、そうした品々が日本の中央にまで流通していた事実も、いま少し注目されるべきであろう。
安東愛季はその後も北方の珍品を贈って織田家と親交を深め、天正8年(1580)には信長の推挙により、従五位之上・侍従に叙任された。
当時の貴重な交易品の一つに、砂糖が挙げられる。砂糖は日本国内ではまだ栽培生産が確立されておらず、海外からの輸入に頼っていた。
天正8年(1580)6月、四国の大名・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が織田信長に、3000斤(1.8トン)もの膨大な砂糖を贈ったことが『信長公記』に記されている。
当時の元親は、信長の承認を得て、四国の反織田勢力である三好氏を攻めていた。大量の砂糖は、信長との関係を強化し、その権威を背景に、四国平定を有利に進めようという考えの表れであろう。
それにしても、貴重な砂糖をこれほど大量に買い集めたことや、それを惜しげもなく信長に贈ってしまう大胆さには驚かされるが、あるいはこの贈答の裏には、長宗我部家との取次(外交担当)を務める織田家重臣・明智光秀の助言もあったかもしれない。
参考:盛本昌広『贈答と宴会の中世』2008
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