若き巨星、藤井聡太。彼に挑むライバル棋士たちを観戦記者が描く天才たちの肖像。
- 2023.09.28
- ためし読み
時代の覇者が対峙していた。
羽生善治と藤井聡太。1996年に七冠全制覇を果たした平成のレジェンドと、2023年に七冠を保持する令和の天才が、6月28日に第71期王座戦挑戦者決定トーナメント準決勝で顔を合わせたのだ。
'17年に叡王がタイトル戦に昇格してから、将棋界の冠位は全部で8つ。藤井にとって残るタイトルは、永瀬拓矢が4連覇中の「王座」のみとなっていた。羽生を倒せば挑戦者決定戦に進出し、夢の八冠全制覇にまた一歩近づくことになる。羽生にとっては19連覇した王座に返り咲き、悲願のタイトル獲得通算100期を達成する好機だが、常に澄んだ心持ちで将棋盤に向かう男は、最強の藤井と盤上で会話することを何よりも楽しみにしていたはずである。ただ外野からすれば、すでに到来している藤井時代の最後のピースが埋まるのを、過去に全冠制覇した羽生が阻止するというストーリーを思い描くことができる。2人の対決は将棋界の枠を超えて注目されていた。
32歳差がある両者は、'23年初頭の王将戦七番勝負でも顔を合わせていた。羽生の約2年ぶりのタイトル戦出場にファンは沸き、羽生は敗退しながらも2勝を挙げて奮闘した。王座戦準決勝の下馬評はもちろん藤井が上だったが、一番勝負なら羽生にも十分に勝機があると見る向きも多かった。
振り駒で歩が3枚表を向き、藤井が先手番を得た。将棋は1手先に指せる先手がわずかに有利だ。この一番勝負で藤井が先手番をつかんだことは幸運以外の何物でもないが、だからこそ大きな意味があるように思われた。後手の羽生は積極果敢に攻めるも、藤井の壁は厚かった。最後は攻めを切らされ、羽生は散った。平成の将棋界を牛耳った羽生が令和の超新星の驀進を止められなかったことは、時代の移り変わりの大きな象徴だった。
そして藤井は挑戦者決定戦で豊島将之を相手にまたしても先手番を得た。大激戦になり、終盤は二転三転。藤井が非勢に陥った瞬間もあったが、際どく踏み留まった。薄氷の勝利だが、挑戦権を獲得した事実が何より重い。五番勝負を制すれば、将棋史上初の八冠全制覇となる。
'16年末に棋士として歩み始めた藤井はすべてが規格外だった。いきなりデビューから29連勝の新記録を作り、第1次藤井ブームを巻き起こした。その後も勝ち続け、'20年の夏に棋聖を獲得し、17歳11カ月で史上最年少のタイトルホルダーとなった。すぐさま王位戦で勝利して二冠に。'21年には叡王と竜王を獲得して四冠に輝く。'22年には王将を奪取して五冠に。'23年には棋王と名人を連覇して七冠となった。次々と記録を塗り替え、肩書は増えていった。
タイトル戦に出るようになってわずか3年ほどなのに、獲得数は早くも17期。17回戦って不敗という事実が、藤井の無敵感をブーストしている。七冠制覇をした羽生ですら、初タイトルの竜王を翌年に奪われたのだ。現在の藤井の対戦相手は各棋戦を勝ち上がってきた勢いのある精鋭ばかり。それでも通算勝率8割3分を誇り、また公式戦で3連敗を喫したことが一度もないのだから、圧倒的という表現を通り越している。
藤井の対局は常に大きく報じられ、インターネットテレビのABEMAでも必ずと言っていいほど生中継されている。公式戦は持ち時間が同じで、1手ずつ交互に指す。つまり藤井と対戦相手が半分ずつプレーするので、自然と相手にも注目が集まる。最初は藤井がきっかけで将棋を観始めた方が、他の棋士のファンになったという話もよく聞く。藤井ファンであることは変わらないが、他にも好きな棋士(推しと言うらしい)がいるという方は多い。それに藤井は対戦相手を全力で打ち負かそうとしているのだから、その棋士を知ることは藤井をより深く理解することにもつながる。
将棋界には個性的な棋士が多い。幼少時から一つの物事に打ち込み、人生を懸けてきた者が魅力的でないはずがない。そして将棋は勝負の世界だ。どれだけ自分が能力を高めて最善を尽くしても、相手に少しでも上回られたら負けてしまう。ゲーム性も厳しい。序盤から正着を続けて勝勢になっても、最後の最後に一手間違えただけで負けてしまう。仕事の99%がうまくいっても最後に一つミスをしたら、翌日の日本将棋連盟の対局結果のページにはたった一つ「●」と黒星がつけられておしまいなのだ。この残酷さが棋士の人格や人生観に陰影や深みを与えている。だからこそ彼らの発言や行動はユニークで、しばしば過剰になる。
『Sports Graphic Number』で'21年1月から始まった連載「令和名棋士案内。」は、毎回一人の棋士にインタビューをし、特性や魅力を紹介しようと試みたものである。それに加筆、修正をして編んだのが本書だ。連載は2年半ほど続いて全部で53回だったが、本書では58人の棋士を取り上げている。連載には登場しなかった藤井聡太、羽生善治、渡辺明、伊藤匠の項は書き下ろしだ。それから冒頭で記した王座戦準決勝の一つ前のベスト8で藤井を追い詰めた(結果は惜敗)村田顕弘も、ラインナップに入っている。こちらは同じく『Number』誌で'23年7月から始まった新連載の「SCORE CARD INTERVIEW」の第1回に登場してもらったので、本書にも特別に収録した。
連載初期の取材からは2年半以上が経過していることもあり、状況が大きく変貌している棋士もいる。その後の成績に関心がある方もいるだろうから、連載に登場してくれた53人全員に後日談のようなものを追記した。改めてコメントを寄せてくれた棋士も多く、感謝したい。
本書は藤井聡太を軸に置きながら、タイトルを立てて7つの章に分類しているが、どこから読んでもらっても問題ない構成になっている。「ベテラン」の章の棋士にはタイトル獲得や番勝負経験者、そして藤井聡太とタイトル戦で相まみえた者もいるが(羽生善治だ)、年齢的にここにカテゴライズさせてもらった。本書では行方尚史の「ベテランという言葉で一括りにはされたくない」という発言を紹介しており、思い出して苦笑してしまったが、あくまで目安だ。
登場する棋士たちは、時に章立てを超えて邂逅し、交錯していく。将棋は相手がいなければ成立しないゲームだ。だから最強棋士の藤井聡太も対戦相手を自然に敬い、礼を尽くしている。藤井一強時代に突入していることは事実だが、それでも棋士たちは日々、自分の剣を磨いている。彼らが決して脇役ではないことは、王座戦で藤井を崖っぷちまで追い込んだ村田顕弘や豊島将之の戦いぶりをご覧になった方はおわかりだろう。本当に紙一重の差なのだ。
'10年代に入って、棋士と将棋AI(人工知能)が戦うイベントが人気を集めた。当時、「AIが棋士の実力を抜いたら、棋士同士が指す将棋が観られなくなるのではないか」という危惧があった。しかし、それはまったくの筋違いで杞憂だった。人間は、人間が全身全霊で物事に打ち込む姿に惹かれるのだ。その人間が個性豊かであればなおさらである。
本書を読んで、一人でも多くの棋士に興味を抱いていただければ素直に嬉しく思う。
「まえがき」より
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