9月24日(日)、旧安田楠雄邸庭園(東京都・文京区)にて、「ひとり語り 白浪看板」が開催されました。語り手・北原久仁香さんによる、池波正太郎原作「白浪看板」ひとり語りの後、作家・北村薫さんをゲストに迎えたトークショーが実現。「オール讀物」2023年1月号掲載「中野のお父さん」シリーズ短篇「『白浪看板』と語り」にまつわる秘話や、北村さんのウンチクが続々飛び出した、満員御礼のトークの様子をお届けします。
ミステリ劇場のはじまり
北原 私と北村さんとのお付き合いはとても長く、2006年から北村薫作品を何作も上演させていただいています。そのご縁が、池波正太郎先生の作品にまでつながったきっかけは、少々恥ずかしいお話なのですが……。私は古い人間で、スマートフォンを昨年5月から使い始めました。以前使っていた携帯電話から連絡先を手作業でコツコツと移行している中、未登録の電話番号からSMS(ショートメッセージ)が届きました。
北村 「北原さんはどうして『白浪看板』を朗読作品として上演されるんですか。今度三遊亭圓生の演じた『白浪看板』を題材に一作書くことになりました」。
北原 そうです(笑)。送り主は、語りという私の仕事を知っていて、かつ何かものを書かれる方らしい……ということは分ったのですが、未登録の番号でしたので、少し置いておきました。するとその後「北村薫です」と再びメッセージが来たんです! 「すみませんでした」と陳謝したことを、よくよく憶えています。
北村 そこで私から「圓生さんが口演された『白浪看板』の音声があるので聞いてみてください。何か引っかかるところがあるかもしれません」と、いわば宿題をお出ししました。
北原 昔の音声であるということと、「答えを導かねば!」という使命感とで、耳から触手が出るくらい集中して聞きました。何度も何度も舞台に上げ、どっぷり原作に浸かっている作品ですので、やはり圓生さんが手を加えられた落語版「白浪看板」には「ここがちがう!」と発見は様々にありました。中でも「ここが、北村先生のおっしゃる『引っかかるところ』だろうか?」という箇所を、勇気を出して先生に伺ったら……
北村 当たっていました。そして昨年7月に、上中里にある「浅野屋」というお蕎麦屋さんで北原さんが「白浪看板」を演じられると伺い、オール讀物の編集の方たちと聞きに行かせていただきました。
北原 そしてその3か月後、10月には北村先生と京須偕充さんと私との鼎談の場がセッティングされ……。京須さんは「圓生百席」を始め、落語家さんの高座を録音された、落語界のビッグネームです。
北村 こうして夏から秋にかけての取材を経て書き上げたのが、「オール讀物」2023年新年号に掲載された「『白浪看板』と語り」という作品です。
北原 北村薫さんのミステリ劇場に入り込んだ一年でした。こんな経験はもう二度とできないですね。
池波さんの遊び心?
北村 私自身、朗読というジャンルが大好きなんです。一つ映画を例に出すと、1949年に公開されたキャロル・リード監督「第三の男」は往年の名作とされてきました。もちろんモノクロ映画です。昔は名画ベスト10に上げられることも多かったのですが、モノクロ映画ならではの場面やテンポ感を、今の若い人が昔の人と同じように受け入れられるかと考えると、難しいと思います。おそらく演出も今ほど手とり足とりではなく、観た人は「もてなされていない」「不親切だ」と感じる。つまり、古い名画を味わうためには想像力が要るけれど、現在では技術の発展によってより分かりやすく、楽に味わえるようになっていると言えるのです。一方、想像力を必要とするものは、それだけ深いともいえる。情報が音に限られる分、聞き手それぞれが登場人物を思い浮かべられるというすばらしさは、朗読ならではのものです。
北原 ありがとうございます。落語も口演するものとして、同じ要素があるかもしれませんね。
北村 そこで再び北原さんに質問です。私が出した宿題の答えは、一体何だったでしょうか。
北原 「ベニヤ板」でしたね。
そもそも「白浪看板」とは、白浪、つまりは盗賊が心の中に掲げる看板、矜持のことです。盗人の頭である夜兎(ようさぎ)の角右衛門が、偶然出会った女乞食のおこうが述べた看板に胸を打たれるという、核心的な場面があります。その縁で夜兎の角右衛門はお縄となり、「鬼の平蔵」こと火付盗賊改方の長谷川平蔵と対峙します。そこで鬼平は、夜兎角右衛門が述べた看板は盗人の虚栄だと説くのですが、圓生さんの口演では、原作にはない表現で、「にせもの」を意味するところの「ベニヤ板」と語っている。
北村 「ベニヤ板」と江戸時代を生きる鬼平に語らせるのは、少し引っ掛かりますよね。一体だれが圓生版にこの言葉を持ってきたのか、非常にミステリです。しかし、この口演が収録されたCD解説を見ると、なんと「脚色・池波正太郎」とある。
北原 寄席に際して圓生さんが口にしたのか、もしくは池波さんの脚色であったのか……。
北村 私としては、池波先生ご自身が手を加えられたと思っています。東京の下町出身で、大変羨ましいことに寄席に小さい頃から沢山行っていた。まだ小さかった池波少年が「よかちょろ演って」と文楽さんに直接お願いしたという逸話まで残っています。「よかちょろ」は粋で大人な噺ですから、幼い頃からいかに落語好きであったか、よく分ります。ちなみに、文楽さんは「耳を塞いでお聞きなさい」と応じて演じたそうで、さすがのひと言につきますね。
たとえば、手塚治虫作品に頻出のヒョウタンツギもシリアスなシーンに突然登場します。話が崩れてしまうんではないかというような心配もある中で、わざわざ遊び心を入れる。これは落語にも共通します。柳家喬太郎さんが怪談を演る際、シリアスなシーンに差し掛かったところで「お前、ピグモンかい」と言って、お客さんがわーっと笑う。ウルトラマンが大好きな喬太郎さんならではの外し方ですよね。
北原 原作中には「揃いのコスチュウム」という言葉も登場しますが、これはセリフとして出て来るのではありません。地の文にこの「コスチュウム」があると、池波さんのユーモアが味わえますし、実は語る上ではテンポが良くなるという効果があります。
北村 これは貴重な証言が聞けましたね。「『白浪看板』と語り」でも書いた通り、私も地の文に時代設定と異なる言葉遣いを入れるのは賛成です。森鴎外は『高瀬舟』の中で「オオトリテエ」(authority)と書いていますから。
「万葉仮名」、何と読む
北原 先ほどもお話しした通り、ちょうど1年ほど前、北村さん、京須偕充さん、私で鼎談をしました。
北村 私としても京須さんにどうしてもお伺いしたいことがあったんです。
落語の演目「はてなの茶碗」で「万葉仮名」という言葉が出て来ます。戦前は、今と違って「まんにょうがな」と読んでいたんです。桂米朝さん、弟子で志半ばで亡くなった枝雀さん、吉朝さんも「まんにょうがな」と言った。ここには師弟関係と共に、生きた言葉がつながっていく落語らしい口伝が見て取れますよね。また私の父が師事していた折口信夫先生も「まんにょうがな」と言っていました。しかし佐々木信綱先生による大号令により、今では「まんようがな」と言うのが一般的になりました。
それで京須さんに伺いたかったのは、ルビのことです。京須さんが志ん朝さんの落語を活字化されていますが、その中で「茶金」(「はてなの茶碗」の関東での呼び方)を取り上げています。そこに出て来る「万葉仮名」に、ルビで「まんにょうがな」と振ってあったんです。それを見て、京須さんはすごい人だなと思って、その点についてお話を聞いてみたかったんです。文藝春秋の会議室で鼎談をしたのですが、その際にビデオに録画してあったNHKのニュース映像も持って行きました。「圓生百席」がついに完成する、というニュースでした。
北原 収録の模様が映されていて、京須さんも映っていらっしゃいましたね。
北村 京須さん、感動するだろうなと思ってたんです。「懐かしくないですか」と訊いたら、「いや、全然懐かしくないです」とおっしゃる(笑)。
北原 私としては意外な反応でした。ですがやんちゃな一面を窺えた気がしました。
北村 「ベニヤ板」の件もお伺いしたのですが、そのお答えは「『白浪看板』と語り」に書いてあるのでぜひ皆さんお読みください。
この小説については、書きながら結びをどこにしようかと考えていたんです。結末は、鼎談の場で北原さんが出してくださった話題からどんどんとつながっていきました。
北原 動いている圓生さんを映像で拝見すると、とにかく所作が美しいんです。和服の扱い方もそうですし、特にお茶を飲むお姿ですね。今の落語家さんではなかなかいらっしゃらないかもしれませんが、圓生さんは高座の途中でお茶を飲まれた。私だったら、飲む動作に集中してしまって語りどころではなくなってしまうのに、圓生さんは口演を止めることなく、いかにもさりげなく飲まれる。その所作が「もっとお茶飲んでください!」と思うくらい美しいのです。
北村 京須さんが証言をしてくださったのですが、かつては舞台にお湯を沸かす火鉢があり、お湯で喉を潤したり、湯気そのもので乾燥を防ぐ効果もあったそうです。しかし寄席に漫才など動きまわる芸が登場したことで危険性が生まれて、だんだんとなくなっていったのではないか、とのことでした。昔は噺の最中に、お茶を飲んだり、火鉢で熱したお湯を茶碗に注いだりする噺家さんも多かったんですよ、とおっしゃっていました。
北原 実は北村さん、その証拠ともいえる音声もお持ちで……。
北村 こちらもぜひ、「『白浪看板』と語り」を読んでご確認いただけたら(笑)。
会場からの質問も
北原 それでは会場から北村さんにご質問があればどうぞ。
会場 「中野のお父さん」シリーズが大好きで、「『白浪看板』と語り」ももちろん拝読しています。落語に関連するお話が登場するたびに、もともと聞いていた内容とは違った側面が見えて来て、改めて落語を聞き直す……ということが多いです。「ベニヤ板」に引っ掛かりを憶えたということでしたが、どこからそういった物語の種が生まれてくるのか、秘話をお伺いしたいです。
北村 通り過ぎると忘れてしまいそうなことをいかに忘れないようにできるかな、と若い頃は色んなことを覚えていたんです。とくに本だと、付箋を貼ることで「あっ!」と思った場所をいつでも見返せるので、面白かったことをすぐに思い出すことができます。
他には、景色を見るときに「夕焼けがきれいだな」と思えるかどうか。意識に入って来なければ、空の色も記憶に残らず、通り過ぎて忘れてしまいますから。「たしかにそこにはあるけれど気づかないもの」に気づけるように、気持ちを外側に向けていくんです。俳句をやる方に「俳句をやっていていいことは何ですか」と訊いたら、「あの鳥はなんだろう」「あの花はなんだろう」と思えるようになったところです、とおっしゃっていました。その意識の向け方によって、生きていく上で一日が膨らんでいく、人生が豊かになるのだと思います。
北原 「『白浪看板』と語り」に登場する<一線を守る誇りが、人を支える。>という一文は、『白浪看板』を語るにあたって核となっています。私にとって、北村さんが以前おっしゃっていた「生きる事、即ち表現」と並ぶ看板です。
北村 いいことを言っていますね(笑)。今回お話しした「白浪看板と語り」を収録した「中野のお父さん」シリーズ最新刊も、もう間もなくお知らせできるかなと思いますので、みなさん楽しみにお待ちください。
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