本の話

読者と作家を結ぶリボンのようなウェブメディア

キーワードで探す 閉じる
「もう誘拐なんてしない」なんて言わないよ絶対

「もう誘拐なんてしない」なんて言わないよ絶対

文:大矢 博子 (書評家)

『もう誘拐なんてしない〈新装版〉』(東川 篤哉)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #小説

『もう誘拐なんてしない〈新装版〉』(東川 篤哉)

 うわあ、ばり懐かしいっちゃ!

 もう四十年以上も前のことだが、本書の舞台になっている北九州と下関は、私の小学校の修学旅行先だった。関門橋を見上げた。和布刈公園にも行った。火の山ロープウェイにも乗った。赤間宮は雨で見学が中止になった。関門橋が開通してまだ二年かそこらしか経っていなかった時代である。その修学旅行で私は「努力」と書かれた関門橋のレリーフを買った。舞い上がっていたとしか思えない。

 その修学旅行から六年後、私は小倉にある大学に入り、五年間を北九州で過ごすことになる。何か今、数字にちょっと違和感を感じたかもしれないが、気にしないように。小倉と門司はお隣で、門司も下関もそりゃもう隅から隅まで五年間遊び回った、いわば青春の地なのだ。火の山のつつじ見物もしたし、巌流島で決闘ごっこもした。関門トンネルは数えきれないほど通った。

 門司側ではトンネルの入り口に大きな河豚の絵が描かれており(今もあるかな?)、その河豚の口がトンネルになっているというデザイン。口から入るんだから下関側の出口はつまり──という下関の皆さんには誠に申し訳ない下品なギャグを、トンネルを通る度に飽きもせず毎回言っていた。バカだったとしか思えない。

 そんなふうに、私にとって門司と下関は甘酸っぱくもバカな思い出に満ちた場所なわけで、そんな私が本書を読んで「うわあ、懐かしいっちゃ!」と三十五年ぶりに北九州弁が出てしまうのも、しょうがないのである。

 と言っても、ただ馴染みの場所が出てきたから懐かしい、ってな単純な話ではない。土地勘のない人でも、使ったことのない北九州弁で「ばり懐かしいっちゃ」と、あるいは山口弁で「ぶち懐かしいのう」とつい口に出してしまうような、そんな青春の懐かしさと土着の生活感と笑いに満ちているのが本書の最大の魅力である。

 

 というわけで、まずは簡単に『もう誘拐なんてしない』のアウトラインをご紹介。

 先輩の代理でたこ焼き屋台のバイトをしていた翔太郎は、「悪い人たちに追われているの」という女子高生を助けた。しかし話を聞いてみると、この女子高生・絵里香はヤクザの組長の娘、追っていたのは護衛の組員だという。病気の妹のためにお金が欲しいという絵里香のために、翔太郎は狂言誘拐を計画することに。ところがそこに予期せぬ殺人事件や偽札事件が重なって──。山口県下関市から関門海峡を挟んで北九州市門司区を舞台に繰り広げられる、脱力系ユーモア誘拐ミステリだ。

 と、今「ユーモアミステリ」と紹介したが、本書は他にも顔がある。青春ミステリ、旅情ミステリ、そして本格ミステリ。まさに全方位。どんなお客様でもお喜び戴けますと言わんばかりの、書評家としては非常に薦めやすいつくりになっている。好みや読書習慣を知らない相手から「何か面白い本ない?」と訊かれたとき(ホントによく訊かれるんだけど、すごく難しいんですよそれに答えるのって)、相手が誰だろうがこれを出しときゃまず失敗しないってくらいの鉄板だ。もちろんマルチジャンルというだけで薦められるわけではなく、それぞれの要素に於いてどれもレベルが高いからなのは言うまでもない。

 そして各要素が、互いに分ちがたく結びついていることが、本書の最大の特徴なのである。

 

 まず旅情ミステリとしての魅力を考えてみる。

 大抵、旅情ミステリと言えばシリーズ物の刑事が特急に乗って出かけ、観光地で聞き込みをし、断崖で犯人が自白するものと相場が決まっている(と思う)。けれど本書に登場するのは下関と門司のばりばりの地元民ばかりである。地元民を主人公にしてしまうと、そうそう観光地は出てこない。東京の人が東京タワーには行かないようなものだ。

 本書でも、冒頭に書いたような観光地の名前は登場するが、赤間宮は壇ノ浦で没した安徳天皇が祀られる由緒ある神社としてではなく、耳無し芳一の舞台としてでもなく、地元の車の二台に一台はそこの交通安全のお守りを下げている(ホントか?)という紹介のされ方だし、有名な関門橋より関彦橋という「……どこ?」としか言いようのない、ルビがないと読めないような橋がフィーチャーされたりする。海峡の向こう側からもはっきり見える潮流の電光掲示板や、横浜ベイスターズが下関でホームゲームをする理由なども紹介される。

 下関市民ですら忘れているようなベイスターズの設立当時の話が出て来るあたり、さすが野球好きの著者(カープファンでいらっしゃるとのこと)だけのことはある。余談だが、翔太郎の先輩・甲本が見ている横浜対中日のナイターでは、六回裏で七点差をつけ中日がボロ勝ちしていたようで、ベイスターズファンには申し訳ないが、ドラゴンズファンとしてはこれだけで本書の評価が一気に五割増だ。

 話がずれた。他にも、市民の足はサンデン交通だそうで、いや、そりゃそうなんだろうけど、要るかその情報? そう言えば岡山を舞台にした『館島』(東京創元社)でも下津井電鉄という既に廃線になったローカル線がやけに事細かに描写されていた。もしや東川さん、野球ファンだけでなくローカル線マニアでもあるんだろうか。

 また話がずれた。つまり、観光ガイドにはまず載ってない──というか載せてもしょうがない話ばかりなのだ。しかしちょっと待たれたい。だからこそ、リアルにその土地の空気が伝わってくるのである。ゲームセンターも病院もラブホテルもある普通の町で、観光スポットではなく日々の通行路として登場する関門トンネル、バナナの叩き売りが前身の門司のヤクザ(ちなみに任侠ってのは北九州のご当地名物と言えなくもない)、裏口からそのまま海に出られる漁師の家。海峡を行き交う船、島々、潮流の電光掲示板。全編から潮の香りが、しかも船の油やゴミや海草もそれなりに混じってるような潮の香りが漂ってくるようじゃないか。

 方言の使い方もいい。翔太郎の先輩以外の登場人物は便宜上(?)標準語を喋ってはいるものの、門司の絵里香は興奮すると「ボテクリコカされたって知らんけんねー」「くらわさるっけんねー」と相手を恫喝する。こらこら絵里香ちゃん、よその人にはバレないだろうけど、そりゃ女の子が口にする言葉じゃありませんよ。

 そういった小道具や風景描写だけでも生き生きとした土地柄が伝わってくるのだが、何より、ここで展開される身代金受け渡しトリックも、そしてその謎解きも、この場所でなくては成立し得ないものであることに注目されたい。旅情ミステリでもあり本格ミステリでもあるという理由はそこにある。本書の舞台は、絶対に下関でなくてはならないのである。あまり詳しくは書けないけども、このトリックが実はかなり巧緻に練られたものであり、そういう描写が思わぬ伏線だったことに驚くはずだ。

 そしてまた。

 この伏線の仕込み方に、ユーモアミステリという側面が生きて来る。テンポよく繰り出されるギャグ、体中の骨が軟骨になってしまうような脱力系のだじゃれ、繰り返されるお約束のシチュエーション、絶妙なツッコミを入れる地の文。よく「万人が泣く映画を作るのは容易いが、万人が笑う映画は難しい。笑いのツボは人によって違うから」と言われるが、本書の笑いは多岐にわたっており、あらゆる人のツボにヒットするのではあるまいか。ちなみに私が一番好きなのは(かなり地味な箇所なのだが)、彦島と門司港を結ぶ橋が出来たらなんという名前になるのかという絵里香の問いにツッコむ地の文です。いやもう、ツボにハマってしまって、ひとしきり笑ったね。しかも混み合った喫茶店で。ひとりで。端から見たら完全にヘンなおばさんだ。恥ずかしいったらない。

 ところが笑った時点で、著者の術中なのだ。軽妙な面白文体は著者の持ち味であると同時に、伏線を巧妙に隠す技でもあるのだから。著者は以前、インタビューに答えてこんなことを話している。

 

「本格ミステリーとユーモアは自分の中では一つです。好きな笑いのタイプは前振りがあって落ちがあるものだし、本格ミステリーも伏線があって、それを回収していきます」

(朝日新聞 二〇〇八年二月十七日)

 

 つまり著者にとって、ユーモアミステリを書く作業と本格ミステリを書く作業は、その手法としてほぼイコールなのだ。だから「ユーモアミステリっていうとお笑い優先で、謎解きやトリックはぬるいんだろうな」という予断はこの著者には当てはまらない。その技巧は、じっくり本編で堪能されたい。旅情ミステリ・本格ミステリ・ユーモアミステリという三つの要素が分ちがたく結びついているということを、ご理解戴けることと思う。

 

 そして残るひとつの要素──青春ミステリは、これはもうキュートな絵里香ちゃんと、懲りない翔太郎の関係に尽きる。翔太郎は脅されたり殴られたり海に落とされたり(いや、自分で落ちたり)しながらも、なんだかんだ言って絵里香へのあくなきアプローチを続けているではないか。ヒロインがヤクザの組長の娘で高校生というのは、前述のインタビューによれば、赤川次郎『セーラー服と機関銃』からの連想なのだそうだが、赤川作品では女子高生自身が組長になったのに対し、本作では絵里香のバックには現役組長をはじめ、その組長より権力と実力を持つ絵里香の姉の皐月、忠実かつ個性的かつトボけた組員たちが控えている。翔太郎が果たして思いを遂げることができるか、ぜひ続きを書いていただきたい。これほどまでの環境を打破するには、今度は狂言ではなく本当に誘拐するしかないのではなかろうか。懲りない上にチト考えの足りない翔太郎のことだ、「もう誘拐なんてしない」なんて言わないよ絶対。

文春文庫
もう誘拐なんてしない
東川篤哉

定価:946円(税込)発売日:2024年01月04日

電子書籍
もう誘拐なんてしない
東川篤哉

発売日:2024年01月04日

プレゼント
  • 『赤毛のアン論』松本侑子・著

    ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。

    応募期間 2024/11/20~2024/11/28
    賞品 『赤毛のアン論』松本侑子・著 5名様

    ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。

ページの先頭へ戻る