〈「イタリア人で名前はバッハ」身分を偽り、東芝系子会社の社員を買収…外事警察が見た「ロシア・スパイの貪欲さ」〉から続く
一発の銃弾も撃たず、一滴の血も流れはしないが、まぎれもなく国家の存立と国益をかけた戦場にいたといえる――前国家安全保障局長の北村滋氏は、日本のインテリジェンスの最前線に立ち、数々の修羅場をくぐり抜けてきた日々をこう振り返る。ここでは、知られざるスパイとの闘い、水面下での極秘任務の数々を明かした『外事警察秘録』(文藝春秋)を一部抜粋して紹介する。
1992年3月から3年間、北村氏は在フランス日本国大使館に一等書記官として勤務していた。そこへ日本赤軍(JRA)の一員・小笠原千賀子(仮名)と思しき日本人女性がパリ経由でベイルートへ向かうという情報が入り、シャルル・ド・ゴール空港は厳戒態勢に。そのオペレーションが空振りに終わった後、北村氏のもとに信じられない新情報が飛び込んできた――。(全3回の3回目/最初から読む)
◆◆◆
フランス勤務は息継ぐ間もなく、仕事がやってくる。
JRAをめぐる日仏共同オペレーションから程なくのことだった。広域暴力団5代目山口組若頭、宅見勝がフランスへ渡航するという報道が流れた。
即座に私は、「あり得ない」とつぶやいていた。宅見勝は、1992年7月30日、外国為替及び外国貿易管理法違反容疑で大阪府警に逮捕されていた。
私は、早速、発足直後の警察庁の暴力団対策第二課の担当官に電話をかけ、釈放、渡航許可まで出すことになった経緯と、宅見勝の狙いや事態推移の見通しを問うた。担当官も戸惑っていたようで、裁判官が決めたことだとの説明に終始した。
宅見勝は、逮捕されると、肝臓疾患など持病が悪化したと主張。拘置施設外の医療施設で治療を受ける必要があるとして、拘置執行停止を訴えた。大阪地裁は、この主張を受け入れた上、驚くべきことに出国まで認めたのだ――。分かったことは、報道の範囲を超えなかった。
国土監視局(DST)本部に向かう
この司法判断は、完全な誤りだ。検察当局はなぜ、もっと強く説得し、裁判官の誤った判断を正さなかったのか。憤りすら覚えた。
「これは、日仏関係全体にも関わる重大な問題であり、フランス治安当局との関係からも、状況を先方に通告せざるを得ません」
警察庁幹部に半ば一方的にそう伝えると、同年8月17日午後、地下鉄ビラケム(Bir-Hakeim)駅近傍、パリ市15区グルネル通り(Boulevard de Grenelle)に面するDST本部に向かった。自由フランス軍とロンメルのドイツ機甲師団が戦った北アフリカの激戦地に因んだビラケム駅は、セーヌ川を右岸から左岸へ地下鉄6号線が渡ったところに所在し、地下鉄駅とは言え、鉄橋の袂に位置する高架駅だ。頭上では、鋳鉄を振動させる地下鉄の通過音が鈍く響く。
私はDST本部の斜め向かいのカフェテラスでダブルのエスプレッソ(express double)を啜りながら、約束の3時まで何を伝えるべきかを思案した。
「小笠原千賀子」のフランス渡航情報が結果的に空振りだったことに続き、今度は日本が解き放った広域暴力団のナンバー2の来訪だ。日本は、またしてもフランスに「治安攪乱要因」を送り込むことになる。そうなった顛末や、日本の暴力団組織の概要は伝えなければならない。私は何とも言えない気持ちでカウンターパートの前にいた。
《フランス共和国の領土内において、国家権力により教唆され、企図され、又は支援された、フランス共和国の安全を脅かす活動を調査し、予防し鎮圧する》(1982年12月22日付政令第82-1100)ことを任務とするDSTにとって、日本の暴力団など、本来の職分とは無関係だ。
DSTにとっては、仏伊映画「ボルサリーノ」でアラン・ドロンやジャン=ポール・ベルモンドが演じた世界よりも遠いに違いない。それに、そもそも組織暴力対策を担うのは、ジュール・メグレ警視やカミーユ・ヴェルーヴェン警部で有名な「司法警察」(Police Judiciaire)であることも十分に承知していた。
「本件は組織暴力の大幹部の出入国管理と犯罪対策に関する事項であり、主として司法警察局の分掌と考えるが、貴局に通告したことで国家警察総局に通告したということになるのか」
私はまず、通告窓口を確認した上で、続けた。
我こそ「フランス治安の要」
「日仏共同で進めたオペレーションへの貴局の取り組みを考えると、貴国への脅威の侵入阻止という観点から、本件の取扱いについても貴局が最も適しているのではないか」
これにDST担当官が、気の利いた言葉で応じる。
「ムッシュ・キタムラ、我が国の治安に重大な影響を及ぼす可能性のある、貴重な情報の提供に感謝する。本件については、国家警察総局内、例えば国境警察局等との調整や司法省、国防省国家憲兵隊との対外折衝は、全てDSTにおいて行う。オペレーションについても我々が直接ハンドリングするので、このチャンネルをそのまま維持してほしい」
「小笠原千賀子」入国情報の空振りに対する気兼ねなど、全く無用だった。我こそ「フランス治安の要」であるという強烈なプライド――。DSTの本流意識を見た瞬間だった。
翻って「治安攪乱要因」を送り出す側となる我が国はどうか。「裁判官が認めたのだから、仕方がない」――。そこには国家として対外関係についての考慮は一切存在しなかった。裁判所、検察、警察は、暴力団の国際進出動向に如何に対処すべきなのか。基本的な視点と主体性の欠如も甚だしかった。
ミラノで伊マフィアと会議
DSTを後にした私はもう一カ所、行くところがあった。「国家憲兵隊」(当時は国防省が所管、現在は内務省・軍事省が共管する軍警察組織、GN:Gendarmerie Nationale)である。フランスには警察が2つある。1つは内務省所管の国家警察、もう1つが国家憲兵隊だ。
これはフランスのモンテスキュー以来の伝統、「分割して統治せよ」(Divide et impera)「権力分立」(séparation des pouvoirs)を、警察という権力機構に当てはめたものなのだろう。基本的には、都市部は国家警察、地方は国家憲兵隊と大まかな管轄区分は存在する。
しかし、実態はもっと複雑だ。例えば、本件の舞台となるシャルル・ド・ゴール空港は、その外周は国家警察の管轄だが、滑走路などの空港施設は国家憲兵隊が所管しており、今回のオペレーションでは国家憲兵隊の協力を得ることが不可欠だった。
1992年8月18日、パリ市の高級住宅街16区に所在するGNのパリ連絡事務所で、ロ元にカイゼル髭を蓄えたジャン=フランソワ・ラバンド大佐(仮名)と相対した。日本のポリス・アタッシェがわざわざ、直接のカウンターパートではないGNを訪問したことに気を良くしたのか、先方は非常に友好的だった。
「ムッシュ・キタムラ。ご存じかもしれないが、本件は単に宅見勝という日本のマフィアの大幹部の動向に関する問題ではないのです」
髭をひと撫でして切り出したラバンドは、宅見勝と同時に、山口組5代目組長の渡辺芳則にも渡仏計画があることを明かした。私が「承知している」という意味で頷くと、ラバンドは淡々と続けた。
「実は、渡辺芳則と宅見勝はフランスへ入国した後、ミラノへ転じ、イタリアのマフィアと会議を持つ予定になっているのです」
知らなかった。GNの情報を加えると本件は全く違う構図になる。日伊のマフィアが、イタリアでサミットを計画していた。山口組は、フランスをサミットへの中継地として利用しようとしていたのだ。
宅見勝は出国の理由として海外での入院治療を挙げていたが、イタリアでマフィア・サミットが計画されていたとなるとそれは虚偽の疑いすらあった。
イタリア・マフィアとの接近を図った理由
山口組は、なぜ、イタリア・マフィアとの接近を図ったのか。
それは、山口組をはじめとする暴力団が当時、取締りや法整備の強化で、国内では喰い詰める恐れがあることを感じ、国際化を指向していたからだ。当時の暴力団をめぐる環境を整理すると、国際化の背景が見えてくる。
暴力団の構成員、準構成員を合わせた総数は最近でこそ減少傾向にあるが、1991年に約9万1000人と平成以降ではピークに達していた。増長を押さえ込むため、政府は法規制強化に乗り出す。92年3月1日に「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」(暴力団対策法)が施行された。
この法案作成は、警察庁の法制グループが全員集結した大仕事であった。これは、暴力団対策に向け、警察があらゆる立法技術を駆使し、総力を挙げた取り組みだったのだ。
法の施行日を年度の変わり目ではなく、3月1日と前倒ししたことにも、警察庁の意気込みが表れている。
前倒しになったことで、施行準備の現場は猫の手も借りたい状況だった。私も、フランスへの赴任が決まった後の1991年8月末から渡航直前の92年2月まで、捜査第二課(当時)の施行チームで「暴力追放運動推進センター」の設置事務にかかりきりとなっていた。
カネ・ヒト・トチで追い詰める
在フランス大使館にいながら、5代目山口組若頭宅見勝の渡仏情報にすぐさま反応できたのは、赴任直前まで暴力団対策法のタコ部屋で連日午前2時、3時までの施行準備を担っていたためだったのかもしれない。
暴力団組織の力の源泉である「カネ・ヒト・トチ(事務所などの拠点)」から組織を追い詰める暴力団対策法は、前述のとおり、宅見勝、渡辺芳則といった山口組最高幹部が、国際連携に活路を求めざるを得ないほど、暴力団社会に危機感を与えていた。
暴力団対策法は、第3条で《都道府県公安委員会は、(略)当該暴力団を、その暴力団員が集団的に又は常習的に暴力的不法行為等を行うことを助長するおそれが大きい暴力団として指定するものとする》と定めるが、指定の前提として当該暴力団側の主張を聞く「意見聴取」手続の実施を定めている。
激震に見舞われた山口組、住吉会、稲川会の主要三団体は、意見聴取に最高幹部や弁護士を動員し、幹部自ら口々に「暴力団」であることを否定。最大勢力の山口組の危機感は特に強く、暴力団対策法施行1ヵ月後に実施された兵庫県公安委員会の意見聴取で、「法律でいう暴力団には当たらない」と主張した上、暴力団対策法を「憲法違反だ」と激しく批難し、抵抗した。
「組織犯罪者に国土を踏ませない」
宅見勝は、5代目山口組若頭として、渡辺芳則の代理として組織側の言い分を主張する役割を担っていた。その「スポークスマン」を乗せたJAL405便がシャルル・ド・ゴール空港に到着したのは、1992年8月19日午後5時24分だった。
それに先立ち、私は同日午後3時に改めてビラケムのDSTの本部を訪ね、情報のすり合わせと警戒警備の最終確認を済ませた。
オペレーションの窓口となっていたDSTにフランス当局の基本的対処方針を尋ねると、「強制退去にする」(expulsion、国外追放)という。そこで、こちらが「どのように執行するのか」と尋ねようとすると、先方はそれを遮るように、「フランス警察は、組織犯罪者にフランスの国土を踏ませることはない」と言い切った。
フランス当局が想定していた宅見勝強制送還オペレーションは、日本の「普通」の手続とはかなり異なるものだった。
日本では、海空港からの不法入国者の強制送還は、一旦、施設に収容する段階を経るが、フランスではそのような迂遠な方法は取らない。
中空の巨大な円盤のような形状の第1ターミナルに駐機したJAL405便は、さながら戒厳下のシャルル・ド・ゴール空港で、照明で浮かび上がった尾翼の赤い鶴のマークが夜陰に鮮やかだった。
「無言の職務執行」で強制送還
フランス当局の指示で、まず一般乗客を速やかに降機させた。その後、国家警察の係官数名が同機に乗り込み、宅見勝とボディーガードが座る席を注意深く取り囲み、人定を確認する。ほぼ同時に完全武装の特殊部隊員も乗り込み、宅見勝ら2人の一挙手一投足を注視する。
宅見勝とボディーガードが苛立っているところに、「フランス共和国への入国を禁ずる」旨の通告。ボディーガードが「このやろう!」と怒りを爆発させながら体を動かすと、一瞬にして、係官等によりその場に組み伏せられたという。
結局、2人は監視付きでしばらくJAL機内で待機するほかなく、同じ機体が日本行きの便として整備されると、そのまま帰国した。
フランス当局は、その言葉に違うことなく、宅見勝にフランスの国土を1ミリたりとも踏ませることなく、日本の航空機の中に閉じ込め、我が国に送還した。
饒舌な我が国の警察とは異なり、峻烈で、厳格なフランス式の「無言の職務執行」の現場が目に浮かんだ。
ラバンド大佐の情報力
それにしても、日本最大暴力団のナンバー2はなぜ、容易に出国が認められたのだろうか。前述のように、宅見勝は逮捕された後、肝臓疾患などの持病が悪化し「拘置に耐えられない」と申し立て、大阪地裁から拘置の執行停止を認められた。治療を理由とする執行停止であるから、その間の居住地は、特定の病院となる。
しかし、病院理事長が、“当院の検査では、病因等について最終的な判断ができない。フランスの一流病院の入院承諾を得ている”といった趣旨の上申書を提出。大阪地裁は、これを受け、制限住居の変更を承認してしまう。
だが、警察庁がICPO(国際刑事警察機構)を通じて事実関係を照会したところ、入院治療先であるはずのパリの病院では手続もされていなかったという。
この事実を知ったとき、何もかもお見通しであるかのように髭を撫でるGNのラバンド大佐の顔が、脳裏を過った。
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