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祝・阿部智里「八咫烏シリーズ」アニメ化! 『烏は主を選ばない』第1章を全文無料公開

ジャンル : #エンタメ・ミステリ

烏は主を選ばない

阿部智里

烏は主を選ばない

阿部智里

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2024年4月6日からスタートのNHKアニメ『烏は主を選ばない』の原作となっている、阿部智里さんの大人気和風ファンタジー「八咫烏シリーズ」。累計200万部突破&第9回吉川英治文庫賞を受賞した本シリーズの第2巻『烏(からす)は主(あるじ)を選ばない』の第1章の全文を無料公開します。


八咫烏シリーズ 巻二
(からす)(あるじ)(えら)ばない』
阿部智里

第一章 ぼんくら次男

 雪哉に意識が戻った時、最初に目に入ったものは、日の落ちかけた空であった。

 にじむような形をした雲は、斜陽を含んで金色に光っている。

 何気なく起き上がろうとして、全身に走った痛みに目をつむった。

「ちくしょう……思いっきりやりやがって」

 起き上がるのを断念して、再び地面の上に大の字となる。

 空気はきんと澄みきっており、寒さに、手足の感覚がおぼつかない。

 転がった状態のまま空を眺めていると、淡い夕焼けの中を、こちらに向かって飛んで来るひとつの黒い影を見つけた。

 烏である。

 それも、普通の烏よりもはるかに大きい、三本足を持つ烏が一羽。

 どんどんこちらに近付いているのを認めて、雪哉は「あちゃあ」と額に手を当てた。

 眺めているうちに、烏は雪哉のすぐ上までやって来た。急降下し、このままでは地面にぶつかってしまうという段になり、烏の姿がぐにゃりと崩れる。飴細工のように、ひしゃげて溶けたかのように見えた体は、次の瞬間には立派な人間の形となっていた。

「雪哉!」

 雪哉の目の前に降り立った時、一羽の大烏は、黒い衣をまとった、ひとりの少年の姿に変わっていた。

 紛れもない、雪哉の兄である。

「どうしたの、そんなに恐い顔をして」

 何かあった? ととぼけて見せると、兄の額に青筋が浮かんだ。

「馬鹿野郎! お前を探しに来たに決まってるだろうが」

 今を何刻だと思っている、と怒られた。しかし、声を荒らげてはいるものの、その目には気遣わしげな色が浮かんでいる。兄の視線が自分の怪我に向かっていると気付き、雪哉はごまかすように笑った。

「心配かけて悪かったよ」

「怪我の具合は」

「大した事ない。転んで、頭を打っただけだし」

「転んで、腹に足跡が付くのか?」

 兄は、うさんくさげに弟の体を見まわしてから、ふと真顔になった。

「――昨日の奴らか」

「だから、転んだだけだってば」

 苦笑した雪哉に、兄は「誰が信じるか」とばかりに鼻を鳴らす。

「しかしどうするんだお前、その顔」

「何が」

「青タンだらけだぞ」

 今日は、新年の祝いのために、領主の屋敷に向かう事になっているのである。

 お偉いさんもたくさん集まるから、ちゃんとした格好で来るようにと、すでに屋敷の方で待つ父に、再三口をすっぱくして言われていたのだ。

「ああ、そうだっけ? でもまあ、なんとかなるでしょ」

「……お前、今度は何を企んでいやがる」

「別に何も」

 雪哉は笑って「時間が無いんじゃなかったの」と兄の顔を窺った。

「ほら、さっさと着替えて、日が暮れる前に、北家本邸まで行かなくちゃ」

 そう言って振り仰いだ空の色は、先程よりも夕闇に近い。

 雪哉達、八咫烏の一族は、夜になると転身する事が出来なくなる。空を飛ぶのであれば、急がなくてはならなかった。
 

「お前、今度は一体何をやらかした!」

 三兄弟の父親は、頭を抱えたまま悲痛な叫びを上げた。

「はあ。ちょいと転びまして」

 ぬけぬけと言い放ったのは、父親が頭を抱える原因となっている次男坊である。

 屋敷の表口に打ち揃った家族の中で、雪哉の姿だけが異様に目立っている。

 兄や弟と同じく、きちんとした正装をしているものの、その顔には見事な青あざが浮かんでいた。それどころか、瞼が切れて腫れあがり、片目がほとんど開いていない状態である。今も、ぞくぞくと集まりつつある他の郷長の家族達が、雪哉を見ては小声で何事かを囁き合っていた。

 北領が垂氷(たるひ)郷、郷長である雪正(ゆきまさ)は、若くしてその地位に就いたことで有名であった。

 八咫烏が支配するこの『山内』の地は、四つの領と、それを区分する十二の郷によって構成されている。当然、郷長という地位は低いものではない。世襲制であるとはいえ、二十歳そこそこでの郷長就任は、異例と言って過言ではなかった。

 一時期はそれについてとやかく言われていたが、正式に領主の娘を嫁に貰って以来、そのような不満を唱える者もいなくなった。跡目である長男は大変優秀であるし、雪正は、一見して、大変満ち足りた生活を送っていたのだ。

 ――たったひとつ、悩みの種となっている、次男坊の存在を除いて。

 困った事に、次男の雪哉はとんだ馬鹿者であった。そもそも、頭の出来が悪いのではないかと雪正などは疑っている。一つ年上の長男、雪馬(ゆきま)と机を並べていられたのはほんの一時だけ。そのうち、五つ年下の弟にも追い抜かされたと聞いて、頭痛がしたものだ。数年前などは、迷子になった弟を探していた雪哉自身が迷子になるという、笑い話にもならないのろまっぷりを発揮してくれた。おかげで垂氷郷では「郷長のとこのぼんくら次男」として、雪哉は変に有名である。

 おまけに、腑抜けでもある。武家にはあるまじき性格をしていた。

 垂氷郷のある北領は、武人の多い領だ。当然、彼らを統べる立場にいる郷長一族も武に優れている必要があった。雪正の叔父や弟達は中央で高名な武人であったし、三男の雪雉(ゆきち)も、ゆくゆくは同じ道を辿ることが期待されている。

 しかし、雪哉だけは駄目だ。武人として中央入りなんてさせた暁には、垂氷郷、ひいては北領の恥として、末代まで語り継がれるだろうという嫌な確信があった。何せ、闘志というものが欠片もないのだ。毎朝の素振りもへろへろと頼りなく、三兄弟で手合わせをさせれば、「始め!」の声と共に木刀を取り落とす始末だ。

 三兄弟の中で唯一、少々厄介な出生である事情も含め、雪哉だけ、どうにも行く末が不透明なのである。

 雪正は天を仰いだ。

「勘弁してくれ……。お館さまに、一体何と申し上げれば良いのだ」

 豪胆な北領領主の事だ。𠮟責はされないだろうが、逆に「武家の子が情けない」くらいは言われるかもしれなかった。

「一応、井戸の水で冷やしてはみたのですが」

 そう言って困った顔をしたのは、雪正の妻である。

「どうか、雪哉を𠮟らないでやってくださいまし。何か訊かれましても、私が説明いたしますから」

 そう言って懸命に次男坊を庇う妻は、実は、雪哉の生母ではない。

 垂氷の三兄弟の中で、雪哉だけ母親が違うのである。雪哉の生みの母が早くに亡くなったせいもあり、良く出来た妻は、雪哉も実の子と分け隔てなく育ててくれた。おかげで平素は意識せずに済んでいるが、今日は他に人の目がある。この上、雪哉の失態の尻拭いをさせれば、また何を言われるか分からなかった。

 雪正は脱力したまま、妻に向かって力無く首を振った。

「いや、そなたが謝るような事ではない」

「そうですよ。僕が馬鹿をやったってだけの話ですから」

 けろりと言い放った雪哉を、雪正はいっそ殺意を込めて睨みやった。

「言い分は全くその通りだが、お前が言えた義理ではあるまい、この馬鹿息子が」

 雪正は、今日は賓客がおいでなのに、と顔を覆って嘆いた。

「お前達は知らんだろうがな、長束(なつか)さまがこちらにいらっしゃっているのだ。前の日嗣(ひつぎ)御子(みこ)であらせられる。今でこそ弟宮に譲位し、山神さまに仕える身となっておられるが、朝廷でのお力は、未だに計り知れないものがあるお方だ」

 前皇太子の来訪と聞き、聡い長男は息を飲んだ。

「金烏宗家の方ですか!」

「そうだ。お前も、私の跡を継ぐつもりなら、顔を覚えていただくに越したことはあるまい」

 金烏宗家とは、族長の一族を指した言葉である。

 山内は、それぞれ、東領は東家、南領は南家、西領は西家、北領は北家といった具合に、東西南北の四領を、『四家』と呼ばれる大貴族が統治している。

 この四家は、もともとは始祖である初代『金烏』の子どもたちが始まりであるという伝説がある。よって、四家は族長である金烏一家の分家に当たるとされ、金烏一家は『宗家』といった呼ばれ方をするのだ。

 長束は、十年ほど前の政変で日嗣の御子の座を追われたものの、未だに宗家の者として尊敬を集めている貴公子であった。何より、宗家の長子であるというだけで、朝廷での地位は既に約束されている。

「しかしよりにもよって、今年いらっしゃらなくても良いのになあ……」

 まさか、ここまで来て次男坊一人にだけ帰れとは言えない。

 控えの間に行ってからも、雪正は深刻な胃痛を覚え、ひとりうんうんと唸っていた。あっと言う間に、垂氷郷の挨拶の番が回って来てしまい、隣には嫡男である雪馬を、後ろには妻と次男、三男を従え、雪正は広間の中央へと進み出た。

 広間の両脇には、挨拶する一家を挟むように、北家ゆかりの貴族――宮烏達が、すでに打ち揃っていた。面前の上座には、どっしりと腰を下ろした北領の領主、つまりは、北家当主とその奥方が並んでいる。

 そして、当主とほぼ同格の位置に、見慣れない偉丈夫がひとり、ゆったりと腰を下ろしていた。

 大柄な当主にも見劣りせぬ、立派な体格の青年である。

 生まれの高貴さが現れたような、優れて整った面差しをしている。だが、他の宮烏にありがちな、なよなよとした雰囲気はまるで感じられなかった。紫の法衣に硬質な黒髪を流し、くつろいだ様子でありながら、その背筋はきちんと伸びている。こちらを見る目は毅然としており、なにより、身の内から滲み出るような威風があった。

「お館さま、まずは、新年のお慶びを申し上げまする」

 とりあえず来訪の目的を果たすために口上を述べれば、当主は「おう」と嬉しそうに応じて、片手を上げた。

「顔を上げい、雪正。家族揃って、良く参ったな。それから、梓!」

 当主は雪正の妻に向かい、親しみを込めて名を呼んだ。

「そなたに会うのも久方ぶりじゃな。子ども達ともども、息災にしておったか」

 三兄弟は、顔を伏せたままでハイと返答し、声をかけられた梓が、慎ましく微笑んで顔を上げた。

「おかげさまで、つつがなくやっております」

 それに満足げな頷きを返した当主は「早速だが」と傍らの青年に掌を向けた。

「このお方は、金烏宗家からおいで下さった、長束殿である。ご挨拶申し上げよ」

 やはり前日嗣の御子だったかと思いながらも、雪正は丁重に頭を下げた。それに鷹揚な頷きを返すと、長束は朗々とした声で喋り始めた。

「貴殿が、垂氷郷の雪正殿か。このように直接言葉を交わすのは初めてだが、前々から話をしたかった。後の宴で、同席出来たら嬉しく思う」

「はは! ありがたきお言葉でございます」

 流石は宗家の八咫烏である。自分よりもずっと若年である青年に圧倒されるのを感じながら、雪正は再び頭を下げた。その様子を好ましそうに見守っていた当主は、顎鬚をしごき、補足するように口を開いた。

「雪正は、このわしが見込んだ出来物ですからな。きっと、これからの長束さまにとっても、お力になれる事と思いまする」

「それは重畳」

「何より、垂氷には優秀な子ども達がおりまする。私も本当に、将来が楽しみで……」

 段々と、当主の言葉尻が小さくなっていく。とうとう雪哉の顔に気付かれた、と雪正は思ったが、背後から聞こえるすすり泣き声に、そうではないと知って、ぎょっとなった。

「おい。どうしたのだ、雪哉。一体何を泣いておる?」

 困惑した当主の声に、堪らず振り返る。すると次男坊は背中を激しく震わせ、許しも無く勝手に顔を上げた。

 止める暇もない。

 あざだらけで腫れ上がり、なおかつ涙と鼻水で酷い事になった顔が、尊い方々の目の前にさらされる。

 一気に、上座の空気が変わったのが分かった。

「雪哉、その顔はどうしたのです」

 真っ先に声を上げたのは、当主の奥方であった。当主よりも雪正の子ども達と顔を合わせることの多かった分、雪哉の惨状に平静ではいられなかったようだ。

「これはその、奥方さま」

「僕が悪いんです。僕が、『山烏』の分をわきまえなかったから」

 雪哉は泣きじゃくりながら、雪正の声を遮るように喚いた。

「本当にごめんなさい! でもこれ以上、僕の家族を虐めないで」

 呆気に取られる一同の前で、雪哉は弾かれたように立ち上がり、上座にそっぽを向いて走り出した。そして、広間の隅に向かって一直線に駆け寄ると、滑り込むようにしてその場に平伏したのだった。

「何でもするから許してください。ああ、でも、もう痛いのは嫌だよう」

 頭を下げられた人物は、ここにいる誰よりも青い顔になって、こぼれんばかりに目を見開いて雪哉を凝視している。

 まだ若い宮烏だ。おそらくは、十五かそこらの少年だろう。

 彼が座っているのは、広間の末席である。あまり高い身分ではないだろうが、宮烏であるのは間違いない。父親と思しき宮烏が、少年の隣で「こ、これは何事か!」と上擦った声を上げていた。

 急遽、気を利かせた使用人が急いで用意した別室に移り、雪正一家と当主夫妻、そして、雪哉に土下座をされた若い宮烏が向かい合う。

 泣きながらの雪哉の言葉と、その兄弟達の説明を統合し、雪正はようやく、一連の全容を把握するに至ったのだった。

「と、いう事は何か。今回の一件は、こちらの坊ちゃんが、うちの郷で売っていた餅を、勝手に食べたのが発端だったと?」

「はい、その通りです」

 時は新年である。ささやかとはいえ、地方にだって市は立つ。そこで売っていた餅を、中央から里帰りをしていたこの宮烏の坊は、金を支払わずに食らったらしい。

 憤然と事の次第をまくしたてたのは、垂氷郷の子ども達の間で、ガキ大将として慕われている三男であった。何でも、食い逃げされた者の子どもに泣きつかれたらしい。

「それで、どうして雪哉が怪我をする羽目になったのだ?」

 訝しむ当主の前で、長兄はむっつりと黙り込む末弟の頭に手を置いた。

「こちらの宮烏サマは、こいつの訴えに耳を貸さなかったんですよ」

 皮肉たっぷりな言い方から察するに、どうやら長男も腸が煮えくり返っていたらしい。

「郷長の息子であると名乗り、正式にお代を要求したのに対し、返って来たのは銭ではなく嘲りです。泣きながら帰って来たこいつに代わり、雪哉が交渉に向かったのです」

「でも、話を聞いてくれなくって」

 しゃくりあげながらの雪哉の言葉に、当主はきつく眉根を寄せた。

「それが本当だとするならば、わしは対応を考えねばならんぞ、和麿」

 和麿と呼ばれた若い宮烏は心外そうに目を剝くと「恐れながら」と声を裏返した。

「わたくしの言い分も聞いて下さいませ!」

 聞こう、と頷きを一つ返され、和麿は目に見えて安堵した。

「だって、当主さま。わたくしはこの者が、まさか郷長の家の者だとは、夢にも思わなかったのです。賤しい『山烏』が『宮烏』を詐称するなど、許されることではありません。ですから、この者を嘲ったのではなく、たしなめたつもりでおりました」

『山烏』とは、『宮烏』に対し、身分の低い者を貶めて言う呼称である。

 この言葉に当主が反応する前に、喧嘩っ早い末っ子が立ち上がった。

「ふざけんな! 俺は最初に『郷長の代わりに来た』と言ったぞ」

 嚙みつくような抗議に、和麿は意地悪く目を細めた。

「こんな調子で、礼儀もなにもなく喚く子どもが、まさか郷長の子息と思えましょうか。どう考えても、噓を言っているようにしか聞こえませんでした。それに、手を出して来たのもこいつが先です」

 友人達が庇ってくれなければ、怪我をしていたのはわたくしでした、と和麿は澄まして言い返す。

 悪びれない様子に、長男と三男は悔しそうに歯嚙みした。

「あの……和麿さまのおっしゃる事は、もっともだと思います」

 意外な所から、おずおずとした声が上がった。難しい顔をしていた当主は、和麿の肩を持つ形となった雪哉を驚いたように見やった。

「と、言うと?」

「弟が先に手を出したのは、本当です。僕も話を聞いて、確かにこっちが悪いと思いました」

「雪哉兄」

「おい、雪哉」

 何を言うのだ、と非難の視線を寄越した兄と弟に構わず、雪哉は力無くうなだれた。

「だから今日、和麿さまに会いに行ったのは、弟の非礼を謝るためというのが本当です。僕、ごめんなさいを言いに行ったんです。でも、その謝り方が、お気に障ったようで……」

「何?」

 顔をしかめた当主に、目に見えて和麿が慌てだした。

「違うのです、誤解です。これはその、双方の勘違いから起きた事故で」

「僕は、弟が手を出したことを謝って、それから、改めてお代を返して下さいって言いました」

「違うのです!」

 今にも泣きそうな声で和麿は言ったが、当主はただ雪哉に向けて、頷きをひとつ返した。

「続けよ」

「はい。そしたら、『山烏の分をわきまえよ』と言われました。『噓をつくな』とも。『そのような粗末な身なりの宮烏がいるか』って。あの、地方の宮烏はこんなもんですって言ったんですけど、信じてもらえなくて」

 黙れ、と、激昂したように和麿は叫んだ。

「だって、そうでしょう。こいつは、羽衣で来たのです。とても、貴族には見えませんでした」

 羽衣とは、転身した時に羽となる、普段の衣代わりになるものだ。一見して黒い着物のように見えるが、実は意識して作り出した、体の一部分でもある。武人や衣が買えない平民は好んで身につけるが、金銭的余裕がある者は、まず着ようとは思わない。

 まさか、郷長の息子が羽衣を着用しているとは思わなかったのだと和麿は主張した。

「それにこいつは、弟の非礼を謝るように見せかけて、実際わたくしを馬鹿にしていました。むしろ、開き直っていましたもの。弟の吐いた噓を貫き通したように見えたのです! 『手を出したのは弟が悪かったが、郷長の代理として、代金を返して欲しいという主張は変わらない』と」

「全くもって正論ではないか」

「いや、そうなのですが、そうではなく」

 言いながら、自分で自分の墓穴を掘っていると気付いたようだ。当主に上手く理解をしてもらえず、和麿はじれったそうな顔になった。

「だって、まさか、本当に郷長の息子だとは思わなくて。山烏が、噓を吐いているのだと……宮烏を馬鹿にされたのだと、てっきり」

「それで、取り巻きと一緒に、雪哉に暴行を加えたわけか。郷長に代わり、窃盗の示談にわざわざやって来た郷長の子息を」

 不機嫌に言った当主の言葉に、和麿はあんぐりと口を開いた。そういう事になるのだと、今の今まで理解していなかったようだ。

「窃盗の、示談?」

「郷民が、郷長屋敷の者に貴族との仲介を頼むことはままある事だ。そもそもお前は、どうして市で売っている餅を勝手に食ったりしたのだ」

「『税の代わりだ』って言ってたそうです」

 風向きが変わりつつあるのを敏感に感じ取った三男が、即座に説明を加えた。

「『山烏が、宮烏に礼を尽くすのは当然である』とも。市の真ん中でのことですから、調べれば証言してくれる八咫烏はいっぱいいるはずです」

 すかさず援護に回った長男の言葉に、当主は頭を搔きむしった。

「全く。とんだ宮烏もあったものだ」

「と、当主さま。わたくしは、宮烏の誇りを舐められては、と」

「痴れ者が!」

 ――びりびりと、梁や柱が震えるような大喝であった。

 和麿は「ひぃ」と息を飲んで竦み上がり、雪正の三人の息子達も、当主の大声に揃って飛び上がった。

「この、一族の恥さらし者め! 宮烏の責務の何たるかも知らず、ただふんぞり返ってばかりいる貴様が、善良な民に何をしてくれた。宮仕えもしておらぬ身で、税だと? 片腹痛いわ!」

 貴様の父親は何を教えておる、と怒鳴られて、青くなった和麿の目に、うっすらと涙が浮かびだした。

「も、申し訳ありません」

「貴様が真っ先に謝るべき相手は、わしではなかろう」

「は……」

 一瞬、それでも憎々しげな顔になった和麿に、今度は雪哉が悲鳴を上げた。

「そんな。自分の立場も心得ず、失礼をしたのは僕達の方です」

 本当にすみませんでしたと頭を下げられて、和麿は絶望した顔つきになった。

「和麿?」

 当主に恐い顔で名前を呼ばれ、和麿はぐっと唇を嚙む。ただでさえ深くお辞儀をした姿勢の雪哉を前に、ほとんど、平伏するような姿勢で謝罪をする羽目になる。

「……どうも、すみませんでした」

 屈辱的な体勢で、ぼそりと呟かれた言葉を最後に、和麿は部屋の外へと連れ出されていった。この後、広間の方でやきもきしている父親ともども、改めて当主の𠮟責を受ける事になるのだろう。

 大きくため息をついた当主は、改めて垂氷郷の一行に向かい直った。

「身内が、本当に済まぬことをしたな。それで、怪我の具合はどうなのだ、雪哉」

「はあ。まあ、痛いっちゃ痛いですな」

 先程までの涙はどこへ行ったのやら、雪哉はけろりと言い放つ。その横っ腹を、それまで嘴を挟む暇のなかった雪正が、見えないように肘で小突いた。

「ご心配をおかけするような事態になってしまい、真に、真に申し訳ございませぬ。しかも、せっかくの新年の席でこのような騒ぎまで起こして」

「それは、あなたが謝るべき事ではありますまい」

 よく響く、落ち着いた声の主の登場に、自然とその場にいた者たちの背筋が伸びた。

「長束殿。どうしてこちらに?」

 当主の視線を追って見れば、戸口には、ゆったりと構えた長束が立っていた。

「少しばかり、こちらの顚末が気になりましてな」

 それに、話し相手のいない酒宴ほどつまらぬものはないでしょうと、微かに笑う。片手でぺしりと額を叩き、これはとんだ失礼を、と当主は苦笑した。

「しかしそのご様子では、ウチの親族の失態をご覧になってしまわれたようですな」

「申し訳ないが、しっかりと。どうも和麿殿は、宮烏としての自覚が足らぬように思われたが、どういった処断を下されるおつもりか」

「ご心配なさらずとも、身内だからといって罰を軽くするような真似はいたしませぬ」

 長束は軽く頷きを返し、別段迷った様子もなく当主の傍らに腰を下ろす。いきなりの長束の登場に冷汗をかきながら、再度雪正は非礼を詫びた。

「長束さまにおかれましても、このようなめでたい場で、とんだ失礼を」

「気になさるな。確かに、少々驚きはしたが」

 厳粛であるべき挨拶の最中に、突然泣いて走って土下座までされれば、驚くなという方が無茶な話である。長束の隣の当主も、なんとも言えない顔になった。

「まあ、今回の一件は別にして、雪哉も宮烏として、時と場に応じた所作を身につける必要はあるようだな、雪正」

「もっともでございます。私どもが至りませんで……」

「僕、そんなに礼儀知らずですかね?」

「しっ」

 とぼけた返事をした雪哉を雪正が睨むと、「そう言えばあなた」と、思わぬ所から声が上がった。

「ひとつ、気になる事があるのですが」

 当主の奥方が、おずおずと夫へと話しかけたのだ。

「おう、何だ」

「和麿は、今度から若宮殿下の側仕えとして、宮中に上がる事になっておりましたでしょう。その一件はどうなさるおつもりですか」

「ああ、そうか。そうであったな」

 宗家の若宮、長束の弟である現日嗣の御子は、これまで、遊学と称して外界に出ていたのである。それが近く、山内に戻ってくる事になっていた。若宮の帰還に伴って、宮烏の子弟達の間で、側仕えの募集がかけられていたのだ。

 北家からは当主の推薦で、和麿を送り込むと既に上申してしまっていたのだという。

「ううむ。しかしこうなった以上、このまま和麿を宮中に送るというわけにもいくまい」

「そこでです。和麿が務めるべきだった側仕えの役目を、雪哉にやらせるというのはいかがでしょう」

「おお!」

 なるほど、その手があったかと嬉しそうな当主を前にして、雪正はそんな馬鹿な、と内心で悲鳴を上げていた。

 咄嗟に振り返れば、滅多に間の抜けた表情を崩さぬ次男自身、完全に不意を突かれた顔をしていた。その一方、妻と二人の息子達は、驚きつつも嬉しそうにしている。

 雪正とて、これが名誉なことであるとは分かっていた。だが次男坊の現状を把握している身としては、どこでどう喜んだら良いのか、全く分からないというのが実状なのである。そんな雪正の葛藤にはとんとお構いなしに、年配の当主夫妻の間では、着々と話が進んでいく。

「そうすれば若宮殿下の側仕えも確保出来ますし、雪哉は宮中で行儀を学ぶ事が出来ますでしょう?」

「まさに一石二鳥というわけじゃな」

 まずは一年といったところか、と当主はすっかり乗り気である。

 ただでさえ次男坊に関しては、色々と含む所のある身の上なのだ。当主の言葉に異を唱える事も叶わず、雪正は思わず胃を押さえた。その様子に気付いたのか、ここで長束が救いの翼を差し伸べてくれた。

「私も、良い話のように思う。だが、まずは本人の気持ちを聞いてみては如何だ?」

 ありがとうございます、長束さま!

 ぱっと顔を輝かせ、咄嗟に雪正は長束に目礼した。当主もふむと頷く。

「それもそうですな。して、雪哉。お主、宮中に行ってみたいとは思わんか」

「いえ。これっぽっちも」

 いっそ、尋ねてくれた当主に失礼なくらいの即答であった。

 これには当主も目を丸くした。

「何故だ。そちにその気さえあるならば、中央で高位高官になるのだって夢ではない」

 立身出世だって出来るのだぞとのたまう当主に、雪哉は複雑そうな顔になった。

「それが、嫌です」

 情けない表情ではあったが、雪哉の物言いはきっぱりしていた。

「僕は、大きくなったら兄上の仕事を手伝って、垂氷でのんびり暮らしたいのです。宮中なんて、絶対に行きたくありません」

 身も蓋もない発言に、流石の当主も呆れたらしい。

「武家の子というに、情けないのう。お主には、野心というものはないのか」

「塵ほどもありませんね」

 悪びれず、むしろ開き直っている風ですらあった。

 本人が中央行きを嫌がってくれたらとは思ったものの、実際ここまで言われると、いたたまれなくなってくる雪正である。

 自分勝手に落ち込んでいる父を無視し、雪哉はここ一番、真摯な様子を見せて訴えた。

「あのですね、僕は一生を、垂氷郷と、その郷長となる兄上のお手伝いのために使えれば十分です。むしろ、それが将来の夢なんです。どうか、その夢を切り捨てるような事はなさらないでください」

 しかし雪哉の主張は、いまいち当主の心には響かなかったようである。

「随分と小さい夢もあったものだな。男なら、もっとこう、大望というものを持たんかい」

「いえ、あなた。雪哉の考えは、それはそれで、立派なものだとわたくしは思います」

 当主の奥方はそう言って、優しく雪哉に微笑んだ。

「しかしながら、雪哉。その兄上と垂氷郷にとっても、あなたが中央に出て研鑽を積むのは、歓迎すべきことだと思いますよ」

 梓はどう思いますかと意見を求められ、雪正の妻は嬉しそうに頷いた。

「私も、賛成でございます。雪哉は、このまま小さくなっているのではもったいないと、常々考えておりました」

「雪馬殿は」

「はい。奥方さまと母上の、おっしゃる通りかと」

 立場をわきまえて黙っていた長男が、勢い込んで頷いた。

「あの、弟は、やれば出来る男です。ただその、滅多にやろうとしないだけで……」

「やる気のない『やれば出来る男』は、結局ただのぼんくらですよ」

 きっぱりと断言したのは、『やれば出来る男』と称された雪哉、本人である。一瞬、なんとも言えない空気が漂いかけたが、弟に負けじと言葉を重ねた。

「とにかく俺としては、雪哉が宮中に行ってくれたら嬉しいです。こいつは、もっと外の世界を知るべきです」

 兄の言葉に、雪哉はもどかしそうに身じろいだ。

「知らなくても別に困らないって。僕は一生垂氷から出ないもの」

「お前がそんなだから、俺は外に出ろと言っているんだ」

 兄弟の小声での応酬を聞いて、長束はどうやら面白いと思ったらしい。

「確かに、垂氷郷としても、中央に繫がりを持った親類がいれば心強かろう。垂氷郷の将来を助けるものと思ってみてはどうだ」

 露骨に嫌そうな顔になった雪哉に、長束は穏やかな笑みを浮かべた。

「何か困った事があれば、この私を訪ねるといい。助けになってやろう」

 宗家の八咫烏にここまで言われて、もはや拒否など出来るはずもない。

 最低でも一年、宮中で働く事に決まり、雪哉はこの世の終わりを見たかのような声を上げた。

「ああもう、僕、嫌だって言っているのに!」

「こうなったら腹をくくれ、馬鹿息子」

 この期に及んで、雪正の中でようやく何かが吹っ切れた。雪哉の宮中入りについて盛り上がる当主夫妻に聞こえぬよう、雪哉に顔を寄せてやけっぱちな口調で囁く。

「お館さまと、長束さまに約束してしまったんだ。ともかく、一年だ。なんとしても一年間だけは、絶対に粘れ」

「一年て! 行ったとしても、そんな長続きなんかしませんよ」

 不満を隠そうともしない息子に、雪正はいらいらと唇を舐めた。

「やってみる前からぐだぐだ言うな。いいか、その耳の穴かっぽじってよーく聞けよ。一年経たずに、自分から音を上げて帰って来たりしてみろ。勁草院に叩きこんでやるからな」

 そこでその腐り切った性根を入れ替えてもらえと、低い声で言い捨てる。

「……は?」

 雪哉の顔から表情が消えた。

 勁草院とは、山内衆と呼ばれる宗家近衛隊の養成所である。

 近衛隊の養成所であるからには、もちろん恐ろしく厳しい訓練が待っている。山内衆に選ばれれば素晴らしい名誉であるが、実際に卒業して山内衆になれるのはごくわずか。その他大半の者は、修業に耐え切れずに落伍者という汚名を着る事になるか、一般兵卒の中に放り込まれ、こき使われるかのどちらかであると聞いている。

 ちなみに、勁草院での生活がいかに苦しいかについては、かつて山内衆だった雪正の弟が、酒を飲みながら語るのを、雪哉も嫌というほど聞かされている。

 信憑性が、嫌な現実感を伴って雪哉の肩を叩いていた。振り返ったら終わりである。

「あの、それだけは本当に勘弁してください。あんな所に入れられたら、僕、冗談でなく死にます」

 切羽詰まった雪哉の声に、兄と弟がそっと顔を背けた。話が聞こえたらしい長束が、小さく苦笑しているのが目に入る。だが、雪哉の兄弟達も長束も、雪哉に味方しようとはしなかった。

「分かったら、一年は耐え忍ぶんだな。死ぬ気でやれば八咫烏、案外何でも出来るものだ」

 ――かくして、垂氷郷のぼんくら次男の、宮廷入りが決まった。
 

 具体的な日程やら準備やらの相談を始めた周囲に紛れ、雪哉は、泣くように両手で顔を覆った。

「ちくしょう……ちょっと、やり過ぎた……」
 

 新年の挨拶があってから、二月が経った。

 雪哉は父親に連れられ、中央へとやって来ていた。

 垂氷から中央までは、鳥形で飛ぶか、『馬』に乗るかしなければならない。

 だが八咫烏は、基本的に鳥形になることを恥とする生き物である。宮烏は一生を人形で過ごすし、生活に余裕がなくなり、烏の姿となって働かなくてはならない者以外は、なるべく人形で過ごしたいと思うのが普通であった。それこそ、鳥形になって他の八咫烏を乗せるなど、『馬』と呼ばれ、勝手に人の姿が取れないよう契約した、最下層の者達の仕事なのである。

 雪正も、自ら鳥形になって飛ぶ気はなく、初めから馬を使うつもりだったようだ。郷長屋敷で面倒を見ている馬に乗せられて、雪哉は中央に向かって半日、空を飛んだ。

 郷長としての仕事がある父や兄とは違い、一生そんな所に足を踏み入れる予定の無かった雪哉である。中央の山が見えて来た時点で、既に帰りたくて仕方が無かった。

 そんな息子の心はいざ知らず、父は堂々と馬を関所へと乗り付けた。

 この関所は、北領の住人が中央に入る際、必ず通行証を頂かなくてはならない場所である。広く掃き清められ、かっちりした柵に囲まれたそこに舞い降りると、すぐに下男が駆けつけて馬の轡を取った。

 顔に巻いていた風除けを取ってから、雪哉は父の後に続いて鞍を下りた。

「証文はきちんと持っているな?」

「落としてしまいたかったですけど、かろうじてまだ持ってます」

 ならば良しと雪正は頷く。手綱を下男に渡し、慣れた様子で荷物を背負って歩き始める。雪哉は父と共に、垂氷の郷長屋敷と良く似た建物に入り、記帳と証文の確認など、簡単な手続きを済ませた。

 再び馬の所に戻った時には、馬の首には白の縁取りがされた黒い懸帯が巻かれていた。裏地には、白糸でびっしりと郷長の身分を証明する文章が刺繡されている。これが無い状態で飛べば、無断で中央に入った廉で地上から射られても、文句は言えないのである。

 馬の世話をしていた下男は、飼い主がこちらに向かって来るのに気付くと、慇懃に話しかけて来た。

「このまま飛んで行かれますか?」

「いや。息子に、城下を案内しながら向かうつもりだ。悪いが、あちらに届けておいてもらえるか」

「どちらの厩がお望みで」

「北家の朝宅へ。それと、今日の日没までには参上仕ると、伝言を頼めるか」

「はい、確かに」

 四家の住居には、四領の荘園に築かれた本邸と、中央にいる間生活をする『朝宅』のふたつが存在する。普段、四家の当主が住んでいるのは、この朝宅の方である。

 明日から中央にいる間、雪哉の仮の家は、北家の朝宅という事になるのだ。

「ああああ、憂鬱だあ……」

 雪哉は嘆いた。それを聞き咎めた雪正が、片方の眉を吊り上げる。

「そう言うな、罰当たりな奴め。名誉なお役目を頂いたんだ、泣いて喜ぶくらいのことはして見せろ」

「むしろ、正しい意味で泣きたいです。父上だって心にもない事を」

「お前はそう言うがな、宮中入りを取り消された和麿の一族は、通夜みたいな有様だったそうだぞ」

「僕ぁ、別に代わって欲しいなんて一言も言ってないです!」

「ああ、もう、うるさい。ごちゃごちゃ文句垂れるな。そもそも、こうなったのは自業自得だろうが!」

 結局は父も、面倒事を押し付けられたという認識に相違はないようである。

 それもそのはず。実は、四家を代表とする中央貴族と、郷長などの地方貴族の間には、深くて広い溝が存在している。

 同じ宮烏にも種類があって、四家を中心とする宮烏を中央貴族として尊ぶのに比べ、郷長など、四家に対し『地家』と呼ばれる地方貴族は、下に見られることが多い。

 四家には、かつて、地方の統治を進める中で、周辺住民との間に摩擦が生じてしまった過去がある。そこでどうしても手に負えなくなった四家が助けを求めたのが、地家の始祖である地方有力者だったとされているのである。中央貴族からすれば、地家は、言わば成り上がりのにわか(・・・)貴族だ。官位で勝っていたとしても、所詮は田舎者だという偏見が拭えないのである。

 中央でそういう扱いを受けることは地家の者も分かっているから、朝廷で出世してやろうという意気込みを持つ者もあまりない。つまり、雪哉のような地家の次男坊が朝廷に出仕することなどほとんどないし、したくもないというのが本音なのだ。

 若宮殿下の側仕えなど、それほど身分の高くない中央貴族にとっては垂涎の的だろうが、地家の者からすればいい迷惑なのである。

 そのまま馬を下男に預けると、雪正は雪哉を伴って歩き出した。

「ともかく、お前がここで一年を暮らす事に変わりはないんだ。どうせ中央にいるなら、楽しんだ方が得だぞ」

「楽しむ、ですか」

 あからさまに不審そうな顔をしてみせると、今度は雪正も笑った。

「まあ、百聞は一見に如かずってな」

 お前もすぐに分かるさ、と言って雪正は関所を出た。

 北家の朝宅があるのは、中央の山の、南側だと聞いていた。ここ、北の関所からそこへ行くためには、中央城下の半分を回らなくてはならない。どうして直接飛んで行かないのかと雪哉は怪訝に思っていたが、関所を抜けて、その理由はすぐに分かった。

「これが、湖ですか!」

「そうだ。ここからは、船に乗って行くぞ」

 ここまで広い水辺は、初めて見た。

 一面に広がる湖は、話には聞いていたが、想像以上のものだった。

 春の日の光に、水面は銀色にさざ波が立ち、きらきらと光っている。対岸には、水上に張り出した建物がいくつもあり、小舟が大荷物を乗せて行ったり来たりしていた。

「飛んで運ぶには大きい荷は、湖を使って運ぶからな。わざわざ船着き場までやって来て、物を仕入れて行く者は多い。中央門あたりはまた別だが、中央そのものが、ひとつの市のようになっているのだ」

 地方からやって来た者にとっては、鳥形になって通り過ぎるのは勿体ないし、中央の八咫烏は滅多に鳥形になろうとしないから、船を利用する者が意外と多いのだという。

 雪哉と雪正が乗ったのは、飼い慣らされ、毒を抜かれた蛟によって曳かれる船だった。滑るように進む船を楽しみ、活気のある水辺の街の雰囲気を楽しんでいるうちに、船は中央の山の南側へとやってきた。

 船着き場から宮廷の中央門へ向かっては、立派な大通りが続いている。こちらもまた、見たことが無いくらい大きく整備された道に、雪哉は驚いた。

「これくらいで驚いていては、この先やっていけないぞ」

 雪哉の反応を見てニヤニヤしながら、雪正は言う。

 道を進んでいくうちに、大通りの両側には屋台や出店が並び始めた。その多くが食べ物屋で、あちこちから胃の腑をくすぐる、うまそうな匂いが漂ってくる。中には簡単な細工物や、硝子で出来たかんざしなどの装飾品を扱っている所もあり、そんな店の前では、華やかに着飾った娘達がさんざめいていた。

 中央に近付けば近付くほど、八咫烏達は活気づき、店の数や種類も多くなっていった。

 長い棒を操り、美しい布の計り売りをする女達に、言葉巧みに甘酒や煮豆を売る子ども。魚や野菜を売りつける、商売人の掛け声もする。弾むようなお囃子は、道を練り歩く芸人達のものだ。

 中には、龍の卵の欠片や虹色蜥蜴の干物、赤い雀の羽飾りなど、本物かどうかは疑わしい品を売る物売りもいた。

 流石は中央の市である。垂氷郷に立つ市とは、比べ物にならない規模である。

 そのまま歩き続けるうちに、大通りは大きな崖に行き当った。もっと正確に言うならば、山の断崖に面した、大きな橋へと差し掛かった。

「うわ、すごい! 何だこれ」

 思わず声を上げ、雪哉は橋の欄干に駆け寄り、身を乗り出した。

 大通りと崖を繫ぐ橋の下は、広く深い谷となっていた。

 山の側面が、そのまま裂け目の片側を形成するような形となっている。あまりの高さに、谷底の様子は良く分からない。断崖からは所々水が噴き出し、まるで滝のようになって崖下へと落ち込んでいた。

 橋それ自体は、丹塗の立派なものである。橋のこちら側は市の賑やかさが際立っているが、山側には巨大な門が接しており、そこに数名の兵が立っていた。

「あれが、中央門だ。この橋を渡ると、もう向こうは宮中という扱いになる」

 不思議そうに兵を見やった雪哉に、父が説明をしてくれた。

「もう宮中ですか? 門の向こうにも、お店は見えますけど」

「あれは、市に立つような出店じゃなくて、宮烏御用達の高級商人の店だからだ。常にある程度の品を置いている分、店の方も客を選ぶのだ」

 中央門に入る際は緊張したが、証文が本物である事を確かめると、門番達はあっさりと通してくれた。

 門をくぐってしまうと、確かに周囲の雰囲気は一変した。

 大通りだった道は、そのまま山の外周を螺旋状にめぐる、石畳の坂道に変わった。山に背中を預けるようにして建てられた店は、今まで見て来たものよりもずっと立派であり、売っている品物も一気に質が高くなったようである。心なし、客も金持ちらしい装いの者が増えた気がする。

 門を抜けてからこっち、商人の呼び込みや、芸人達の音楽などは聞こえなくなっている。

 父の背中を見て黙々と歩いているうちに、長く歩いて来た坂道は急になり、いつしか、よく整備された石段へと変わった。建物も店の代わりに、貴族の屋敷が立ち並ぶようになっていく。

 息が上がるほど歩き続け、ようやくたどり着いた石段の最上部には、黒い漆塗りの円柱が使われた、豪華な四足門があった。周囲は白壁に囲まれ、荘厳な空気に満ち満ちている。

 言われなくとも、それが北家の朝宅である事は想像がついた。

「頼もう! 垂氷郷より、郷長雪正と、その息子が参上した。お取次ぎ願えるか」

 雪正が閉ざされた門に向かって呼び掛けると、間髪入れずに、門扉脇の小窓が開いた。そこから雪正と雪哉の姿を視認すると、すぐに正面の大門が開かれる。

「ようこそいらっしゃいました、垂氷郷郷長さま」

「うむ。出迎えご苦労」

 門番によって開かれた扉の向こうには、雪哉が想像していたよりも、ずっと洗練された前庭が広がっていた。手入れのされた黒松が立ち並び、玉砂利は眩く白い。門から一歩敷地に入ると、石畳は、全てが黒々と磨かれた御影石へと変わっていた。

 北領にある邸宅は大きくて広い分、立派であるが武骨な印象が拭えなかったが、こちらは品よくまとまっている。軒先にぶら下げられた金物細工の灯籠を眺めていると、雪哉は父と共に、屋敷の奥へと通された。案内された先に待っていたのは、北家当主の直孫であり、いずれは北家当主の座を受け継ぐ事が決まっている青年、喜栄(きえい)であった。

 今年で二十三となる喜栄は、北家当主と血の繫がりも明らかな容姿を持った、快活そうな若者であった。朝宅にいる今も、動きやすい狩装束を身にまとって、いかにも活動的な様子をしている。

 姿を現した雪正を見るなり、健康的な肌色をした顔をほころばせ、自ら近寄って来た。

「ようこそおいで下さった、雪正殿。しかし、申し訳ない。当主と父は今、白珠姫の登殿の件で、朝廷に詰めておりまして」

 その言葉に、雪正は思わず「おお」と声を上げた。

「いよいよ、でございますか」

「ええ。いよいよです」

『登殿』とは、日嗣の御子たる若宮が、后を選ぶために作られた制度である。

 后候補は、四家からそれぞれひとりずつが選出されるものとされており、この四名の中で若宮に気に入られた者が、入内出来る手はずとなっている。この、若宮の后選びのために、候補の姫が『桜花宮』という宮殿に集められる事を『登殿』と呼ぶのだ。

 白珠姫は、北領の真珠とまで謳われた北家随一の美姫であり、若宮の后候補として宮中入りしたのは、すでに北領中に知れ渡っていた。

「まあそんなわけで、今は朝廷も色々と騒がしくて……。直接出迎えられずに申し訳ないと、父から言付かっております」

「そんな、すまないなどと、とんでもございませぬ。勿体ない限りです」

 雪正と喜栄は、義理とはいえ、叔父と甥の関係にある。年齢的にも、雪正にとって北家の中では、最も気やすく言葉を交せる相手でもあると聞いていた。

 軽く今の朝廷の様子などを話し合ってから、雪哉の引き渡しへと移る。挨拶を促された雪哉は、喜栄へと向かい、素直に頭を下げた。

「垂氷の雪哉です。一年間、どうぞよろしくお願いいたします」

 すると喜栄も真顔になり、会釈を返して来た。

「ああ。こちらこそ、よろしく頼もう」

 雪哉を北家朝宅に預け、挨拶も済ませてしまったので、雪正がここに来た目的は完遂してしまった。しばらくは朝宅を案内される雪哉に付いて回っていたが、厩で自分の馬を見つけると、その足で帰る事になった。

「じゃあな、雪哉。頑張るのだぞ」

「はい。父上もお元気で」

 ここに来るまでの間に言いたい事は言い尽くしたので、別れは、存外あっさりしたものであった。

 その後、雪哉は専用の居室を与えられた。自ら部屋まで案内してくれた、喜栄の自室にも劣らぬ立派な部屋である。

 そこには、官服など、宮廷生活に必要な品がすでに届けられていた。これらは、あらかじめ垂氷から送ってもらった物である。物品の確認をしている最中、ふと、浅葱色の官服の間に、畳まれた紙が挟まれてあるのに気が付いた。

「おやまあ。母上ったら」

 淡い緑の、ぼかし模様が入った紙を広げると、ほのかな白檀の薫りが鼻腔をくすぐる。見れば、育ちの良さが表れたような綺麗な字で、雪哉の身を案じる言葉が綴られていた。

 ――くれぐれも体に気を付けてください。何かあったら、すぐ連絡を寄越すよう――

「『雪哉が、無事にお役目を終えて、元気で帰って来られるよう、母は祈っております』」

 声に出して最後の一文を読み、雪哉は苦笑を浮かべた。

 浅葱色の官服を広げて見る。

 礼装を、ずっと簡単にした短めの袍である。動きやすいように両脇は縫い付けられておらず、袖口には、袖括りの緒が垂れている。縫い目は細かく、丁寧に仕上げられているのが分かった。

 この官服は、彼女が手ずから縫ってくれたものである。

「ありがとうございます、母上」

 官服と手紙を捧げ持つと、今は遠い育ての母に対し、軽く礼をしたのだった。
 

 翌日、雪哉は朝廷へと入った。

 北家の朝宅から朝廷までは、なんと、車が用意されていた。大きな馬が二羽、上と前に繫がれた飛車である。馬そのものに騎乗する事は度々あるが、車に乗って飛ぶなど、雪哉は考えてもみなかった。

 同じく朝廷へと向かう喜栄に続き乗り込んだものの、居心地が悪くて仕方がない。派手に音を立てて浮き上がった車体に、情けない声を上げたのはご愛敬だった。

 一方の喜栄は慣れたものである。だが、飛車よりも、車内に落ちた沈黙の方が気になるらしく、雪哉への態度を、決めかねているようにも見えた。

「飛車に乗るのは初めてか」

 躊躇いがちに話しかけて来た喜栄に「はあ」と雪哉は頭を搔いた。

「僕ぁ、地家の次男坊ですからね。こんなもんに乗れる機会なんか、一生ないと思っていましたよ」

「そ、そうか」

 喜栄の態度は、北家の御曹司らしからぬものである。

「喜栄さま、そんなに僕に気を使わなくてもいいんですよ」

 別に取って食ったりしませんから、と言えば、なんとも微妙な顔をされた。

「そうは言ってもだな、雪哉……殿」

「何を遠慮なさっているんです。雪哉でいいですよ」

「いや、そういうわけにもいくまいよ」

 困ったように眉尻を下げる喜栄に、雪哉は小さくお辞儀をした。

「田舎育ちの僕に和麿さまの代わりが務まるとは思いませんが、北領の面目を潰さぬよう、精一杯頑張りますから」

 どうぞ雪哉とお呼び下さい、とあくまで低姿勢の雪哉に、喜栄は口にしかけた言葉を飲み込んだように見えた。

「……和麿の件、あれは、どう考えてもあいつが悪かった。聞くのが遅くなったが、新年の時の怪我はもう良いのか?」

「ええ、見ての通り、もうすっかりさっぱり」

「そうか、ならば良かった」

 雪哉のちゃかした言い方に、ようやく喜栄は肩の力を抜いたようだった。

「あのだな、雪哉。朝廷にいる間、私の事は兄のように思ってくれて構わない。若宮殿下の側仕えというお役目は、とても大変だと聞いている。困った時は、いつでも頼って来てくれ」

「これは、とても心強いですね。どうもありがとうございます」

 話をしているうちに、飛車は朝廷の入り口へと着いた。『大門』と呼ばれる、山の中へと至る正面門である。

 貴族の朝宅が山の側面に造られているのに対し、政治を行う宮廷と、金烏一家が住まう宮は山の()にあるものと決まっている。宮廷を内包する山そのものが宮中扱いされるのはそのためだ。大門は、断崖に懸け造りの屋敷を建てている、あるいは、岩棚に住居を構えている高級貴族達が、改めて山の中へ入るための門なのである。

 話に聞いていた大門は、雪哉の想像よりもはるかに規模が大きかった。形そのものは、昨日見た中央門とほぼ同じだ。しかしその大きさは、まるで比べ物にならない。

 岩壁に食い込むように造られた門は、そこに降り立ってしまえば、全貌を一目で把握することが出来なかった。大人が五、六人手を回して、やっとひとめぐり出来る程に柱は太く、金具は雪哉の顔よりも大きい。丹塗の柱は色こそ鮮やかだが、かなりの年数を誇るものに違いなかった。

 門の前に造られた懸け造りの舞台には、今もぞくぞくと各家の貴族達が宮中入りするために飛車を乗り付けている。

「雪哉、何をしている。こっちだ」

 きょろきょろと周囲を見ていた雪哉に、喜栄が声をかけた。慌てて喜栄の姿を探せば、大門の中へと入って行くところであった。慣れた様子で大門の下を抜ける喜栄の後ろを、雪哉は駆け足でついて行く。赤や緋色の官服ばかりの中で、雪哉の身に付けている薄い青色が、異様に目立っていた。

 位の低い官人の官服は、全て青と規定されている。

 藍染めの官服は、官位が高くなればなるほど、色が濃くなる決まりとなっているのだ。雪哉の身に付けている『水浅葱』は、藍としてはごく薄い色であり、位が最も低い事を表していた。一方で赤や緋、緑などの官服は、いずれも藍の官服の、その上の位にしか許されていないのである。

 主に上級官人の利用する大門において、浅葱色の官服を着ているのは、見た限り雪哉だけのようであった。他の者だったら気遅れしてもおかしくはない場面だったが、雪哉は持ち前の図太さを発揮して、しかつめらしい顔の門番を横目に、平然と大門を通り過ぎた。

 だが、山の中に入ってみて、流石の雪哉も啞然となった。

 岩肌を削って作り上げたものと聞いていたから、勝手に洞穴のようなものを想像していたのだが、実物はここが山の中であるということを忘れさせるほど広く、豪奢であった。

 門扉の向こう側は、漆喰と漆塗りの柱によって整然とした様相を呈す、大広間だったのである。

 門から入ってすぐの空間だけが、まるで、吹き抜けのような形になっている。

 明り採りの窓からの光が直線となって、紋様の刻まれた石床へと降り注いでいた。天井は遥かに見上げるほど高く、その升の目に張りめぐらされた梁と梁の間には、見事な意匠の彫り物がなされている。

「ここが『朝庭(ちょうてい)』だよ、雪哉」

 喜栄が、石の床を爪先で叩きながら説明をしてくれた。

「大きな儀式の時は、朝庭に官人が総出で並ぶのだ。向かい側の、一番上の場所が見えるか」

 一面そのものが門扉となっている大門以外の三方には、何層にもわたって欄干が取り付けられている。おそらくは、あの奥で層になっている部屋のひとつひとつが、各部署となっているのだろう。喜栄に指差された正面の最上階をと見れば、文官が出たり入ったりしている他の場所と違い、そこだけが閉め切られていた。一際豪華な装飾が為されている事から考えても、どこか特別なのは察しが付く。

「あそこが大極殿。金烏の玉座がある所だ。儀式の時はあの扉が開き、直接、陛下のお声を聞けるようになっている」

 これが宮廷というものかと雪哉が感心していると、大門の対面にある欄干の下から、青い官服をまとった官人が現れた。どうやら、朝廷における喜栄の取り巻きらしかったが、荷物だけ渡した喜栄は、軽く手を振って彼らを部署へと帰してしまった。

「今日はお前を招陽宮(しょうようぐう)へ――若宮殿下の宮まで、案内してやらねばならないからな」

「おやま。お手数をおかけいたします」

 屈託なく「構わん」と笑った喜栄は、自ら朝廷の中を案内しながら、若宮の御所へと雪哉を連れて行ってくれた。

 喜栄は、大門から見て右手の欄干下をくぐり、いくつもの階段を上って行った。

 すでに、官人達は始業の時間となっているため、行く先々で、働く官人の姿を見る事が出来た。中には喜栄を認めて、こちらに近寄って来た官人もいた。

「喜栄殿がこちらにいらっしゃるとは、珍しいですな」

「ああ、久しぶりだな」

 気安く挨拶をする喜栄と官人の横で、雪哉は終始大人しくしていた。特に、下っ端の自分に注目する者などいないと思っていたのだが、ここで、雪哉は違和感を覚えた。それというのも、喜栄が「若宮殿下のもとへ、新しい側仕えを連れて行くところなのだ」と言った瞬間、それを聞いた官人達――会話に参加していなかった、通りがかった者まで――が、揃って雪哉に、なんとも言えない視線を向けて来たからである。

「そうですか、新しい側仕えねえ」

 憐れむような、もしくは大笑いしたいのを堪えるような顔をした官人の背後で、誰かが「可哀想に……」「今度はいつまで持つやら……」などと呟くのが聞こえた。

 どういう意味だろう。

 説明を求めて喜栄を振り仰いだ雪哉はしかし、爽やかな喜栄の笑顔に言葉を失った。

「大丈夫ですよ。この子は北領の武家育ちで、今までの子達とは鍛え方が違いますからね。あの(・・)若宮殿下の側仕えでも、立派に役目を果たしてくれるでしょう」

「はあ。左様ですか」

 期待しておきますネと、明らかな社交辞令で送り出された雪哉は、どうにも変な感じがして、喜栄の服の袖を引っ張った。

「何ですか、さっきの」

 雪哉は今現在、若宮の側仕え達がどのような仕事をしているのか、詳しい事を知らない。

 実は、雪哉が朝廷に来る一月前に、すでに若宮殿下は外界から山内へと帰還していた。直前になって宮廷入りが決まった雪哉は、その時までに用意が整わず、急遽、一カ月遅れで若宮の側仕えに加わる事になったのである。

 どうせ、大勢いる若宮の側仕えの下っ端、しかも新参ともなれば、やるべき仕事なんてほとんどないだろうと高を括っていた。なんでも、若宮の身の回りの世話は、宮烏にとってとても名誉な仕事であるらしいので、若宮に着物を着せかけるという仕事ひとつ取っても、熾烈な争いが起こるくらいだと噂に聞いていたのだ。

 しかしさっきの様子は、どう考えても「たくさんいる側仕えに、新しい子がひとり加わる」のを聞いた者の反応ではなかった。今の朝廷はどうなっているのかと、その事情を聞きたかったのだが、喜栄は何か勘違いしているらしい。

「気にするな。皆、武家育ちを甘く見ているのだ。これまでは、中央の温室育ちの宮烏ばかりだったからな。雪哉も同じと思い込んでいるのだ」

 北領の意地を見せてやれという喜栄の言葉に、雪哉は首を振った。

「いや、そうじゃなくてですね喜栄さま」

「なんだ、今になって不安になって来たのか?」

 心配するな、と笑った喜栄の顔に、どうにも不穏な気配を感じる。

「当主のお考え通り、このお役目は和麿よりも、雪哉の方に合っていると私も思う。雪哉も、お役目をまっとうするまでは帰らないと、覚悟を決めてここまで来たのだろう?」

「はあ。それは、まあ」

 でなければ、父親に勁草院送りにされますからねぇ――とは、一応は武家に生まれた者として、口が裂けても言えなかった。いや、雪哉自身は全く気にしないのだが、そんなことを吹聴していると父親にでも知られたら、今度こそ本当に殺されかねない。

「だったら大丈夫だ。私も期待しているから」

 曇りない喜栄の笑顔に、それ以上何も言う事が出来ず、雪哉は渋々口を閉ざした。

 いいかげん階段にも上り疲れ、これから行こうとしているのは同じ宮中ではなかったのかと思う頃になり、一度、雪哉達は山の外に出た。

 どうやら招陽宮は、朝廷の山の瘤にあたる部分にあるらしい。

 朝廷と招陽宮の間は、立派な石橋によって繫がれており、橋の向こうには招陽宮の門があった。朝廷を出て石橋を渡る間、軽く橋の欄干に寄って下を覗き込むと、大門よりも随分と高い所に来たようだと分かる。

 岩壁に備え付けられた門扉には、本来であればいるはずの門番の姿は見えず、代わりに、派手な銅鑼が置いてあった。

「何ですか、これ」

 不審に思って喜栄の顔を仰ぎ見れば「こう使うのだ」と言って、おもむろに桴を取り上げる。

「きちんと取次ぎの者がいれば、こんなふざけた物などいらんだろうに……」

 呆れたように言いながら、喜栄は盛大に銅鑼をひっぱたいた。

 ぐわーんと、どことなく間の抜けた音が響いてしばらく。門扉脇の小さい扉が開き、羽衣姿の男が出て来た。

「喜栄殿、わざわざこちらまでご足労頂き、恐縮です」

澄尾(すみお)殿こそ、大変なお役目をお疲れ様です」

「とんでもありません。その子が、新しい側仕えですか」

 やたらゆっくりとした中央貴族の口調に比べ、澄尾と呼ばれた男の言葉は、はきはきとして歯切れ良い。すぐに、宮烏の出身でないことは察せられた。

「どうも、はじめまして。垂氷の雪哉です」

 雪哉が素直に頭を下げれば、機敏な動作で礼を返される。

「山内衆が一、若宮殿下近衛隊の澄尾と申す」

 よろしく頼む、と言った男の目は、やはり鋭いものだった。

 山内衆というからには生粋の武人なのだろうが、それにしてはやや小柄である。日に焼けたような浅黒い肌もあいまって、どこか子どものような活発さが感じられる青年であった。

 喜栄は澄尾を指し示し、こう見えて彼は腕利きだぞ、と言った。

「何と言っても澄尾殿は、たったひとりで、招陽宮の警護に当たっているのだからな」

「たったひとりで!」

 宮、という名前が付いているからには、一般の屋敷と同じに考えるべきではないだろう。雪哉がこの門扉の向こうにある房室の数に思いを巡らせていると、澄尾はあっさり首を横に振った。

「別に、そう大変じゃないですよ。若宮はつい最近まで外界に出ておられたから、今使っている部屋以外は、全て鍵をかけたままにしてあるんで」

 実際、宮の警護というよりも、若宮本人の警護をしているといった具合らしい。

「では、ここから先は、俺が責任を持って、雪哉殿を引き取らせてもらいます」

「ええ。どうぞよろしく」

 喜栄は丁寧に澄尾に礼をすると「では雪哉、後は頑張れ」と言い残し、ひとりで朝廷の方へと帰って行った。その後ろ姿を見送った澄尾は「さて」と呟いてこちらを振り返った。

「これから、若宮のお部屋へと案内しよう。だが、先にも言ったように、ここでは、使用している部屋以外には全て鍵がかけられている。君に用意されたのは、若宮殿下の居室の隣、一室だけだ。用も無いのに、違う部屋へ入り込んだりしないよう、気を付けてもらいたい」

 事務的な言い方から察するに、他の側仕え達にも、同じ内容を言って聞かせたのかもしれない。別に、閉ざされた部屋に興味があるわけではないので、雪哉は素直に頷いて見せた。

 澄尾の先導で、雪哉はいよいよ、招陽宮へと入った。

 バタンと、扉が閉まった重い音と共に、陽の光が一気に入らなくなる。

 宮殿の中は石造りとなっていて薄暗く、ひんやりとした空気が流れていた。澄尾について歩いていると、閉ざされたままとなっている扉の前を、いくつも通り過ぎる。澄尾は立派な造形のそれらを、ことごとく無視し続けた。

 ここまで歩いて来て、雪哉は、招陽宮の様子がおかしいと気が付き始めていた。

 八咫烏が、全くいないのだ。

 自分を先導して歩く澄尾を除き、誰ともすれ違わないし、何の気配も感じられない。閉め切られた扉の多さも異常であるが、この人気のなさは、それ以上に不気味であった。

「あのぅ、招陽宮には、一体何人の八咫烏が仕えているんです?」

 たまらずに質問すれば、ちらりとこちらを振り返った澄尾が、再び前を向きながら答えてくれた。

「二人だ」

「へ?」

「二人だけしかいない、と言っている」

 それは、と、慌てて絞り出した声は、情けなくも裏返っていた。

「澄尾さまと、あと誰かもうひとりだけ、という意味ですか?」

「誰かじゃない。俺と君、この二人だけという意味だ」

 雪哉は急に、背筋に冷汗が噴き出るのを感じた。

「ちょ、ちょっと待って下さい。だって、他の側仕えは? 少なくとも一月前には、十人近い中央貴族の坊ちゃんがいると聞いていたんですけど」

「みんな辞めたり、若宮殿下に馘首にされたりしたんだよ」

 振り返らずに答えた澄尾の声には、若干の疲れが滲んでいた。

「ただでさえ殿下は、ひとり以上、側仕えを近付けようとはなさらないから。昨日までは辛うじて、あと三人の候補がいたが……一人は実家に呼び戻され、もう一人は持病の頭痛が悪化、最後の一人は原因不明の動悸と呼吸困難と胸の不快感で、いずれも出仕は無理だそうだ」

「そんな馬鹿な!」

 今さら悲鳴を上げたところで、ここまで来てしまった以上、何を言っても手遅れである。

 話している間に、二人は外へと面している渡殿へと出てしまった。板張りの床の上を混乱したまま歩き続け、やがて雪哉は澄尾と共に、ひとつの離れの前で足を止めた。

「殿下。新しい側仕えを連れて参りました」

「入れ」

 返答を聞き、澄尾は扉を開ける。

 そこで雪哉が目にしたのは、文机に向かっている、若宮殿下の後姿だった。

 若宮の目の前には、大きく窓が開け放されている。

 外からの淡い光の中で、若宮の姿は、黒く浮かび上がっていた。

 単に、薄紫の薄物を羽織っただけの背中には、うなじあたりで適当にくくった黒髪が、鮮やかな流れを描いている。

「やっと来たな」

 やや高めの、凜として、よく通る声である。

 さりさりと微かな音を立ててから、若宮はふう、と顔を上げた。どうやら書きものをしていたらしい。筆を置くと、軽く首を回し、こちらの方へと振り返った。

 ――若宮は、とても美しい青年であった。

 怜悧な美貌は、ともすれば霊妙な香気が匂い立つようですらある。

 十六、七という話だったが、年の割には背が高く、ほっそりとした体つきをしている。 兄である長束が、体格も顔立ちも男らしかったのに比べると、若宮の見目はひどく華奢であった。白い面は、まるで女のように優しげですらある。

 だが、その眼光の強さが尋常ではない。

 威圧感のある視線に射抜かれて、雪哉はこっそり唾を飲んだ。

「……お初にお目にかかります。垂氷の雪哉です」

 気圧されているのを隠して、あえてそっけなくお辞儀をすれば、淡々と頷かれる。

「垂氷の雪哉か、なるほどな。とりあえずは、よろしく頼もう」

 軽く笑ったような気配がしたが、実際、若宮の表情はほとんど動いていない。

「早速だが、今から用事を申しつけても構わないか」

 丁寧な言い方をされて、雪哉は若干それを意外に思った。

「はあ。構うも構わないも、それが仕事ですからねぇ」

 決して畏まったとは言えない返事に、隣で澄尾が驚いたような顔をする。だが、若宮は「そうか」とこだわりなく言っただけで、腹を立てたりはしなかった。

「では、こちらへ来なさい」

 若宮は、肩に掛けていた薄物に腕を通して立ち上がり、渡殿へと出て行ってしまう。慌ててついて行ったその先には、庭があった。

 不思議な事に、前栽は不格好に刈りこまれているし、鉢に植えられた草花にも、統一感はまるで感じられない。宮中の庭らしからぬ様子に違和感を覚えていると、お前の一番の仕事はこれだ、と言われた。

「これとは」

「水やり」

 指差されたのは、大小問わず、色々な鉢に植えられた草花の山である。ここにあるだけでも、相当な量だ。

「これに全部ですか」

「そうだ。与える水もそれぞれ決まっている」

「どこから水を汲むか、お聞きしてもよろしいですか?」

「話が早くて結構。あの滝が見えるか」

 今度は、鉢を示していた指先を、反対の方向へと向ける。

 示された方角に顔を向ければ、両側に迫る山肌の間、視認出来るか出来ないかの所に、白い水煙を確認することが出来た。

「……見えなくは、ありませんね」

「あの滝壺の水を、毎日かかさずやって欲しい」

 あちゃあ、と思った。これは、宮烏の坊ちゃんでなくとも、ぐれる。

「なんでわざわざそんな事を。そこにある井戸の水じゃ駄目なんですか」

 眉間に皺を寄せて問えば、それで良い場合もある、と返される。

「ここにある草花は、全部二株ずつ同じ物が植わっているのだ。ただし、鉢の色が違う。青い釉薬のものには滝の水を、白い釉薬のものには、井戸の水をやって欲しい」

 間違えるなよと釘を刺され、雪哉は呻くような了承の声を上げた。

「承知しました」

「それと、ここの井戸の水は飲むな。喉が渇いたなら、水甕の中のものを飲む事。それがなくなったら、改めて滝から水を汲んで来い」

「はあ」

 これでは、かなり時間がかかってしまうだろう。

 では早速、と腕まくりした雪哉に、若宮は首を傾げた。

「何をしている」

「は? いえ、これから仕事を始めようかと」

「まだ、仕事の説明が終わっていないのにか」

 雪哉は思わず、こめかみを押さえた。

「失礼しました。まだあるんですね」

「私はこれから、澄尾とともに外に出るので、帰って来るまでに部屋の片付けをしておいてくれ。書物が出しっぱなしになっているから、分類ごとに書棚に戻しておけ」

「分かりました」

「それと、私宛てに便りが届く予定になっている。昼になったら民政寮に下りて、受け取って来て欲しい」

「民政寮って」

 どこだっけ?

 知らないんですけど、と叫びたいのを堪えて、雪哉は実家で読んで来た、宮廷についての書物の内容を思い出そうとした。確か民政寮は、兵部省の部署のひとつだったはず。そして兵部省といえば、喜栄の勤め先だ。ひとまずは喜栄のもとに行って、場所を確認させてもらおう。

 しかし、朝廷との往復を考えると、結構時間がない。

「分かりました! じゃあ、先にお部屋を片付けちゃいますね」

 腕まくりをして、雪哉は鼻息を荒くした。やけっぱちになりつつも、雪哉は全部やるつもりであった。地家生まれのたくましさを、舐めてもらっては困るのである。

 だが、再び若宮が変な顔になった。隣にいた澄尾も痛ましそうな表情になるのを見て、雪哉はその場に凍りつく。

「あれ。もしかして、これで終わりではないので?」

「当たり前だ」

 部屋にある書物の中には、図書寮で借りて来たものもあるので、それを返しに行く事。

 図書寮の官吏には文を書いておいたので、そこでまた新しい本を借りて来る事。

 式部省の誰それに届け物をする事。

 その頃には、おそらく民政寮にも新しく書簡が届けられるはずなので、それを受け取り、中身の緊急性が高い順に机の上に並べて置く事。

 招陽宮の厩の掃除をし、水を取り換えておく事。

「ああそれと、紙を切らしていたのだった。補充しておいてもらえるか」

 命令している方が悪びれていない分、余計悪質である。

「ちなみに、お帰りはいつになるご予定ですか」

「午の上刻には一度戻るが、また出るつもりだ。仕事は日暮れまでに済ませておけばいい」

 済ませておけばいい、ではない。今日からは招陽宮に寝泊まりする身とはいえ、これでは本当に一日中休む暇がない。夜までかかったとしても、全て終わるか疑わしい仕事量である。

「これを全部ひとりで、ですか……」

 引きつった顔の雪哉を見て、若宮は冷やかな視線をこちらにくれた。

「他に誰かいるように見えるか」

 馬鹿にしたような口調に、思わずムッと来た。つい眉根が寄ってしまった雪哉を見て、それまで様子を窺っていた澄尾が、慌てたように割りこんで来た。

「ちょっとお待ちを、殿下。いくらなんでも、それでは雪哉殿が可哀想です」

 もっと少しずつ教えていった方が、と言いかけた澄尾の言葉を、若宮は鼻で笑った。

「馬鹿を言え。これくらい出来ぬようでは、私の側仕えなど務まるものか」

 出来るのか、出来ないのか。若宮は厳しく雪哉を問い詰めた。

「出来ないのなら、さっさとここから出て行くが良い」

「……誰も、出来ないなんて言っていません。出来るかどうかは分かりませんが、全力は尽くさせて頂きます」

 苦い気持ちながら、それでも殊勝に答えた雪哉を、若宮はばっさり切って捨てた。

「お前が全力か否かなどに、私は興味などない。問題は、結果が残せるかどうかだ」

 努力するだけの役立たずなど、こっちから願い下げだ、と。

 垂氷でさんざん言われ慣れていたはずなのに、何故か、若宮の言葉はことごとく雪哉の癇に障った。

 この時、冷たい視線に射抜かれた雪哉の脳裏には、「帰ったら父に怒られる」とか、「勁草院に送られる」とかいう考えは、全く浮かんで来なかった。ただ、こちらを挑発するような若宮の顔が心底頭に来ており、鼻を明かしてやらねば気が済まぬという、その気持ちだけでいっぱいであった。

「役立たずかどうか、ご自分の目で確かめられてはいかがですか」

 あえて笑顔になって言ってやれば、わずかに、若宮の口元にも笑みらしきものが浮かんだ。

「良かろう。他に気付いたことがあれば、自分で判断してやっておくように。お前の食事は、御厨子所に行けば何か分けてもらえるだろう。私から言うべき事は、以上だ。後は自分でどうにかしろ。私はもう出る」

 言うが早いか、若宮はさっさと背を向けて歩き出してしまう。

 一瞬、心配そうな顔で澄尾が振り返ったが、雪哉はきっぱりと首を横に振った。

 知らない事や分からない事が山積みである今、質問は数多くあった。だがそれを言い出したら、本当にきりがなくなってしまうことは分かっていた。こうしている間にも、時間は刻一刻と短くなっているのだ。

 雪哉は顔を叩き、鬼のような顔をして頷いたのだった。

「どうぞ、行ってらっしゃいませ!」

 こうなったらもう、意地だった。
 

 まずは、部屋の片付けである。

 机に置かれた図書寮への手紙と、届け物を確認する。掃除しているうちに混ざってしまわないように取りのけて、さっそく乱雑に置かれた書物の山に向かった。

 図書寮へ戻す本は、装丁が凝っているのですぐに分かった。手紙と同じ所に取り分けてから、書棚がどのように分類されているのかを、ざっと確認する。それから、山になった本を投げるように分別し、まとめて棚に放り込んだ。

 次に、門のすぐ横手にある厩へと向かった。

 人形を取っている時、体に何も付けていない状態の所に、羽衣を出現させる事を『羽衣を編む』といった言い方をする。汚してしまわぬよう官服を脱ぎ捨てると、雪哉はすばやく羽衣を編み、身にまとった。とはいっても、良く手入れされているのか、そこまで汚い厩ではない。言われた通りに水を取り換え、軽く掃除をして庭へと戻る。井戸の水をひたすら汲み上げては、杓子を駆使して白い釉薬の鉢へとぶちまけた。

 この頃には、もう太陽は中天にかかりつつあった。

 もうすぐ、若宮達が戻って来るだろう。

 ここで思い切って、雪哉は転身した。鳥形になって飛んでしまえば、どれだけ遠かろうが、嘆くほどの時間もかからないのである。あっと言う間も無く烏の姿になると、手桶を三本の足でがっちりと摑み、庭から滝へと一直線に飛んだ。

 すぐに見回り中だった山内衆が近付いて来たが、雪哉が若宮付きであることを示す懸帯をしているのを確認すると、一瞬迷った様子を見せながらも、離れて行った。滝下に着いてから招陽宮の方を見れば、若宮が自室として使っている離れは、大量の木材によって支えられ、崖に張り出すように造られているのが分かった。

 なるほど、懸け造りとなっていたのか。

 北家の朝宅から大門まで飛ぶ間、崖から突き出すように建てられた屋敷が、細い橋のようなもので繫がれているのを目にしたが、あれと同じ造りとなっていたようだ。

 水を汲んだ雪哉は、文字通り飛んで戻り、鉢植えに水をやる行為を何回か繰り返した。四回目の往復の後、ようやく水やりを終えたくらいになって、若宮と澄尾が戻って来た。

 この頃には、雪哉は疲れきり、ぐったりとしていた。

「ご苦労。それで、私への文はどこだ」

 額からだらだら汗を垂らす雪哉を見ても、若宮は顔色一つ変えない。あくまで涼しげに発せられた若宮の言葉に、雪哉は苦々しい気分になった。

「それはまだ、取りに行っておりませんが……」

「なんだと?」

 途端に、若宮は眉を跳ね上げる。

「昼過ぎには、取りに行くように言ったはずだが」

 あからさまに不機嫌そうな顔をされても、雪哉だって必死になって働いていたのである。仕事を怠けたり、言いつけを忘れたりしていたなら話は別だが、今回、自分に非はないはずだ。ここで謝るわけにはいかなかった。

「お言葉ですが」

「いや。もういい」

 出来なかった事をとやかく言っても仕方ない、と、若宮は雪哉の言い分すら聞こうとはしなかった。

「そっちは澄尾に取りに行かせる。お前は、自分のやるべき仕事の順を考えて、行動しろ」

 少しは頭を使え、と。

 そう言い捨てると、若宮は書棚からいくつかの冊子を取り出し、再び外に出ようとした。

 一瞬、頭が真っ白になった雪哉だったが、背中を向けられた瞬間、我に返った。

「お、お待ちを! あの、詩文の学士から、課題が届けられておりますが」

 掃除をしているうちに、来客があったのである。銅鑼を鳴らしたのは若宮の教育係の学士であり「必ず若宮にやらせるように」と言って、大量の課題を置いて行ったのだ。

「期限は明日までだそうです。それと、伝言があります」

「聞こうか」

「『漢詩文は、宮烏の長たる金烏にとって、無くてはならぬ教養でございます。いいかげんお遊びになるのは自重し、数年の遅れを取り戻すことに尽力された方がよろしいでしょう』と。相当、怒っておいでのようでしたが」

「へえ」

 若宮は、文机の上に山となった課題を一瞥すると、馬鹿にしたような笑みを浮かべた。

「――それは、私がやるべき事なのか?」

 それだけを言い残し、若宮は今度こそ出て行ってしまった。
 

 こんちくしょう、こんちくしょう、こんちくしょう!

 鳥形になった雪哉は、ぎゃあぎゃあ鳴きながら空を飛んでいた。

 何なんだ、あの言い方は。こちとら朝から何も食わずに飛び回ってんだぞ!

「ちっくしょう」

 鳥形を解いて一声吐き捨て、大門の舞台へと降り立つ。だが、そのまま小走りで中に入ろうとすると、颯爽と走って来た門番に引き留められてしまった。

「待て! お前、その格好のまま入るつもりか」

 その格好とは、羽衣のことだろう。雪哉はとびっきりの笑顔をつくると、慇懃無礼にお辞儀をした。

「はい、左様で」

「サヨウデ、ではないだろう。威儀を正して出直して来い」

「でも、羽衣で大門を通ってはいけない、という決まりはありませんよね?」

 これでも、宮中の決まり事については一通り目を通して来たのである。まさか口答えをされるとは思っていなかったのだろう。一瞬虚を衝かれたような顔をした門番は、しかし不快げに顔をしかめた。

「明確な決まりはなくとも、それくらいは宮廷の常識だ」

「僕は宮廷儀礼を無視するつもりはありません。宮廷規則に則って、当然の要求をしているつもりですが」

 そもそも、朝廷を悠長に歩いていては間に合わないから、大門まで直接飛んで来たのである。ここを通らないと間に合わないんです、と早口で言えば「知った事か」と切り捨てられた。

「この大門を守るのが、我らの使命。それくらいの礼節も理解しえぬ下男を、安易に通すことは出来ぬ」

「僕は下男ではなく、若宮殿下の側仕えですが」

 首から下げた、通行証である門籍代わりの懸帯を振って見せれば、それまで目に入っていなかったのか、門番はあんぐりと口を開いた。

「なんと!」

 ここでぼやぼやしていると、若宮殿下のご用事に遅れてしまうのです、と笑顔のまま付け加える。

「お分かりになったら、さっさとそこを退いて下さい」

 すごすごと引き下がった門番の横を、滑るような早歩きで抜き去って行く。

 だが、このようなやり方は雪哉の本意ではなかったし、門番の態度にも、若宮の威を借りるしかない自分にも腹が立った。

 胸がすくどころか、雪哉の機嫌は下降の一途である。

 ほとんど走るような速度で喜栄のもとへ走り、若宮に命令されたもろもろをこなしていく。その間中、ずっと羽衣姿でいたので、妙な注目を集めてしまった。懸帯があるので、門番のように声をかけて来る者はいなかったが、向けられた視線の中に好意的なものはひとつもなかった。

「まあ、背に腹は替えられないし」

 注目されるのは避けたかったのだが、こればかりは仕方ない。

 周囲の白い目は見なかった事にして、手っ取り早く仕事を済ませると大門に戻り、再び鳥形へと転身する。しかし、行きよりも荷物が多く、かつ上りであったため、招陽宮に飛んで戻るのは恐ろしくきつかった。肩で息をしながら、中庭から直接宮殿の中に入り、書籍を中へと運び込む。

 若宮の文机について文箱を開けた時には、既に日は傾いていた。緊急性が高い順に並べておけ、という事は、自分が読んでも構わないという意味だろう。暗くなってしまう前にと、急いで中身を検める。紙のひとつを開けば、きつい白粉の薫りが漂った。

「なんじゃ、こりゃ」

 そう声が出てしまっても仕方ない。一通り宛名を確認して、雪哉は呆れてしまった。

 渡された書簡のほとんどが、遊郭や酒場――つまりは、花街からの文であったのだ。また来て欲しいだの、どこどこの遊女が営業妨害をしているので便宜を図って欲しいだの。

 普段、あの若宮ときたら何をしているんだ。

 体力的には楽だったが、健全な精神をがりがり蝕むという意味で、これほどきつい仕事が他にあっただろうか。最後には怨嗟の声とともに書簡を叩きつけ、ようやく、言いつけられた仕事の全てが終わった。

 ちょっと乱れてしまった書簡を整えつつ、雪哉は深いため息をついた。たった今綺麗に並べ終った書簡の脇には、未だ、まっさらな状態の課題が山と残っている。

 今までの側仕えだったら、素直に代わってやったことだろう。

 雪哉はしばしの思案の後、若宮の硯箱を取り出し、墨を摩り始めた。流石、腐っても日嗣の御子の持ち物だ。硯は年代物の逸品だったし、翡翠の形をした水滴は使いやすかった。そのまま、筆には手を付けないまま、雪哉は延々と墨を摩り続けた。

 ようやく若宮が戻って来たのは、すっかり日が落ちた後であった。

「お帰りなさいませ」

「ああ」

 迎えに出向けば、澄尾や馬の姿は見えず、若宮一人きりだった。しかも、出て行く時には着ていた上着がない。羽衣姿となった若宮を見て、昼間に難癖をつけて来た門番のことを思い出した。この格好で大門に向かったら、門番はこの男が若宮であると、はたして気付くだろうか。

「それで?」

 我に返ると、若宮は居室に上がり、自分で鬼火灯籠に明りを入れたところであった。

「言いつけておいた仕事は、どこまで終った?」

 新たに借りて来た本に視線を落としながら、若宮は言う。ろくにこちらを見もしない態度を腹立たしく思いつつ、雪哉はつっけんどんに返事をした。

「ご期待に添えたかどうかは分かりませんが、一応、全部終りましたよ」

 若宮は、そこではたと顔を上げた。

「……全部?」

「はい。何か不都合でも?」

 胡乱げに問い返せば、いや、と首を振られる。

「なんでもない。ご苦労であった」

 再びハイと頷きながら、雪哉は慎重に若宮の表情を窺った。

「ただし――課題には、手を付けておりませんが」

「うん」

 それでいい(・・・・・)

 きっぱりとした言葉に、一瞬、雪哉は呆気にとられた。想像していた反応とは、随分と異なる返答である。

「それでいいって、あの、一応墨は摩っておきましたけれど、この後ご自分でなさるおつもりですか?」

 その言葉に、若宮はほのかな笑みを浮かべた。

「いいや。墨は有難いが、課題をするつもりはないな」

「ですがこのままでは、学士に怒られるのは殿下では」

 てっきり厭味でも言われるものかと思っていた雪哉は、淡白な若宮の様子が、逆に心配になった。だが、若宮は雪哉の言葉にも、軽く首を傾けただけであった。

「私は、別に構わないが。それとも、お前は代わりにやりたかったのか?」

 これ、と指差された課題を見て、雪哉は顔をしかめた。

「ご冗談を」

「ならば良いではないか。すておけば良い」

 すておけば良いのですか、と力無く繰り返し、雪哉は口を噤んだ。

「ああ、それと雪哉」

 今度は何だと思いながら、雪哉は「はあ」とおざなりな返事をした。

「お前、私の近習になりなさい」

 唐突な命令に、今度こそ、雪哉は絶句した。

 近習は、仕事そのものは側仕えとほとんど変わらないお役目である。だが、この微妙な名称の変化によって、周囲の見る目は大きく変わる。

 あくまで仕事として仕える者を『側仕え』というのに対し、『近習』は、主君との個人的な付き合いも含んだ、最も近しい者、といった意味合いも含んでいる。一言で言うならば、未来の側近だ。他に側仕えが増える事があったとしても、その立場はあくまで近習の下に置かれるのだ。これは、事実上の昇格と同じである。

 他の側仕えならば喜んだ話でも、雪哉からすれば、まさに鳥肌ものの話だった。「異存はないな」と確認され、雪哉は「むしろ異存しかありません」と、よっぽど言ってやろうかと思った。

「ちょっとお待ちを。身に余る光栄ではありますが、僕には荷が重すぎます」

 雪哉の何を見て近習に取り立てようと思ったのかは甚だ疑問であるが、流石に一日で近習にしようと言うのは尋常ではない。

「何より、僕は地家の出なんですよ。僕なんかより、よほど近習にふさわしい方はたくさんいるはずです」

「地家である事が、何か問題でも?」

 若宮に本気で怪訝そうに返されて、雪哉は一瞬、言葉に詰まった。

「……他の側仕えだった人達は、いずれも中央貴族です。きっと、色々な所から苦情が来ます」

「私は気にしない」

「僕でなくても、他に優秀な中央貴族の側仕えはおります。そちらの方が、よっぽど面倒がないではありませんか」

「お前の前任者達はことごとく使えなかったが」

「ひとりにやらせる仕事の量が多すぎたのです。せめて、二人同時に召し抱えれば、そんな事にはなりません」

「お前はひとりで出来たのに、わざわざ人員を増やさねばならないのか」

「あくまで必要人員です!」

 悲鳴じみた声を上げ、雪哉は哀れっぽく訴えた。

「とにかく、いずれの理由も、近習が僕でなければならないという訳ではありません。それに、僕は一年もしたら、垂氷の方に帰らなければならないのです。せっかくのお話、大変有難くは思いますが、どうか辞退させて下さいませ」

 なりふり構っていられなくなり、雪哉は一段低くなった床へ飛び降り、そこに平伏した。冷たい石張りの床に額ずき、沈黙して数拍。若宮が先に口を開いた。

「お前でなければならないという、理由があれば納得するのだな?」

「それでしたら――まあ、はい」

 よっぽどの理由がありさえすればと続けると、そうか、とこだわりなく頷かれる。

「良かろう。その言葉、忘れるなよ」

 微妙に笑いを含んだ声を、不審に思ったその時だった。

 雪哉の腹が、ぐう、と鳴った。

「あ」

 そう言えば、昼飯を食べるのをすっかり忘れていた。

「御厨子所には行かなかったのか?」

「行っている暇がなかったので」

 切なく腹に手を当てた雪哉を見て、若宮はおもむろに、自分の懐をまさぐった。

「ほれ。受け取れ」

 ぽい、と投げられた物に目を剝いて、雪哉は慌てながら、空中でそれを摑み取った。

「何ですか、これ」

「金柑」

 いや、それは見れば分かるのである。

 投げられたのは、丸々とした干し金柑であった。黄色みを帯びた橙色が、薄暗い室内で鮮やかだ。砂糖をまぶしてあって、そのまま食べられるようになっている。

「腹が減ったのだろう? 取りあえずは、口に含んでおけ」

 自身も、小袋から取り出した金柑を口に運んでいる。もしゃもしゃと金柑をほおばるその姿は、粗末な黒衣と相まって、とても若宮のものとは思われなかった。

「それは、はあ、どうも」

「今日はもう良い。下がれ」

「……はい。お休みなさいませ」

 どうにも釈然としない感覚を覚えながら、雪哉は一礼して部屋から出た。出た所で、持て余した金柑を口に放り込む。

 そうやって嚙んだ干し果物は甘酸っぱく、独特のクセがあって、苦かった。
 

「やっぱり! 私の見込んだ通りだったな」

 嬉しそうに笑う喜栄を前にして、雪哉は仏頂面になった。

「笑い事じゃありませんよ。僕は、若宮殿下の側仕えがこんなに大変だったなんて、全然知らなかったんですからね」

 それは悪かったと言って、それでも喜栄は笑顔を絶やさなかった。

 雪哉が若宮付きの側仕えになって半月が過ぎた、午後の事である。

 近習の話は、若宮の単なる気まぐれであったのか、あれから一度も話題に上ってはいないので、おそらくは忘れてくれたのだろう。

 半月の間、ほぼ休みなく、初日と同じような命令をこなす毎日を過ごして来たが、この頃になると仕事にも慣れて、少しずつではあるが余裕も出て来た。

 今は、民政寮に若宮宛ての手紙が届くのを待つ間、時間が出来たので、久しぶりに喜栄へ会いに来たのである。喜栄は仕事中だったはずだが、雪哉の顔を見ると手を止めて、わざわざお茶まで淹れてくれた。茶飲み話の話題となっているのは、もっぱら若宮殿下の奇行についてである。

「実は、若宮殿下が外界からお戻りになって以来、招陽宮に入った者は、ほんのわずかしかいないのだ。側仕えも、ひとり以上は近づけようとせん」

 そんな話聞いていない、と頭を抱えた雪哉は、恨みがましく喜栄の顔を見上げた。

「一体、どうしてそんな事に」

「どうやら、殿下は極度の人嫌いらしくてな。護衛すら、澄尾以外の山内衆も寄せ付けようとしないのだ。本来、大勢いるはずの身の回りのお世話役も、側仕えがひとりいれば十分だと豪語する始末だ」

 それまで招陽宮は、若宮の遊学に際し、長く閉鎖された状態にあった。もともと招陽宮に仕えていた者は、金烏の御所や朝廷の各部署に異動になっていたが、今回の若宮の帰還によって呼び戻されたのである。しかし若宮は、集められた者達を、勝手にもとの部署へと返してしまったのだ。それどころか、わざわざ若宮のために招集をかけた側仕え達も、若宮が用を申しつけた一名を除き、招陽宮に立ち入る事すら許してはもらえなかったのだと言う。

「側仕えの候補に格下げされてしまい、招陽宮からも締め出された者達は、若宮付きとなったひとりを羨んだらしい。それなのに、当の若宮付きとなった者は、いくらも経たないうちに側仕えを辞めてしまったのだ」

 それを受けて、喜び勇んで若宮付きとなった次の少年も、しかし、長続きはしなかった。最初はそれを聞いた者も、ちやほやされて育った少年達が仕事の大変さに音を上げただけだろうと思っていた。

 だが、人事を担当する式部省へ駆け込む側仕えが六人を数えるようになると、流石にこれはおかしい、と皆気付き始めた。

 六人である。

 たった一月が過ぎぬうちに、六人の側仕えが全員、若宮付きを拒否したのだ。短い者は、若宮付きになったその日のうちに――長く持った者でも、十日を数える前に人事へ転任を訴えて来た。

「若宮殿下は異常ですよ」

 ある者は、隣を歩く官人に文句を言いながら、喜栄の職場の前を通り過ぎて行ったらしい。

「あの方は、出来ないと分かっている仕事を押し付けて、僕達が苦しむさまを見て喜んでいるのです。しかもそうやって厄介事を押し付けておいて、自分は遊びに出かけられるんですよ? もう、あんな方に仕えるなんて、まっぴらごめんです」

 またある者は、廊下から部署全てに響き渡る大声で、若宮の悪辣さを訴えた。

「自分が育てたわけでもないくせに、花を萎れさせたと言って怒るのだ! こっちは命令通り、遠くの滝まで水を汲みに、何往復もしたというのに……これでは、真面目にやっていた自分が馬鹿のようではないか」

 もはや怒る元気もなく、鬱々とした様子で泣きじゃくる者もいた。

「本来はあの方に出された課題を、全部私にやらせたのです。それで、課題を出した学士にも、どうして若宮にやらせなかったのだと怒られるのですよ。学士にそれを言われた若宮は、『側仕えが勝手にやった事だ』と言い張るのですから、もうどうしたら良いか分かりません。私が課題をやっている間、若宮は花街に繰り出しているというのに」

 本来であれば、若宮付きは出世への最短路である。

 現に、最初の何人かは自分から望んで若宮付きとなったのだ。それが、数日後には見る影もなく、もうこりごりだと言っているのだから恐ろしいものである。

 今まで外界に出ていた分、朝廷内で、若宮の人柄をよく知っている者はほとんどいなかった。それが、帰って来てほんの一月の間に、『若宮殿下はとんでもないうつけである』と、下級役人にまで知れ渡ってしまったのだ。

 だが、喜栄はこの現状を、決して良しと思ってはいなかったのである。

「若宮殿下に、まあ、こう言っちゃなんだが、色々と問題があるのは間違いない。だけど、それでさっさと辞めてしまうのもいかがなものかと、私は常々思っていたわけだ」

 そうそうに辞めてしまった先任の側仕え達には、根性がない、と言いたいらしい。

 喜栄は、貴族の中では、最も武家に近い北家の嫡孫だ。雪哉と同様、中央貴族の坊ちゃんが、軟弱に見えていたようだった。

「その点、垂氷で鍛えられている雪哉なら、根性なしなんて事ないだろう? だから、お前なら心配要らないだろうと思って、お祖父さまの意見にも賛成したのだ。実際、こんなに長く若宮殿下に仕え続けられたのは、お前が初めてだ」

 私の目に狂いは無かったと満足げに笑う喜栄は、雪哉が垂氷で何と呼ばれているか、聞き知っていないのだろう。結果的に気に入られたから良かったようなものの、一歩間違えれば長続きするどころか「北領の恥」とまで言われる事態が起こりかけていたとは、まさか夢にも思うまい。

 雪哉が曖昧な笑いを浮かべているうちに、待っていた手紙が民政寮に届いた。しかも、何やら上の方から命令があったらしく、喜栄の職場も騒がしくなって来た。雪哉は挨拶もろくにせず、そそくさとその場を後にしたのだった。

 若宮にこき使われて、朝廷の中を駆け回っているうちに、雪哉にも分かって来た事がある。

 宮廷内での若宮殿下の評判は、あまり芳しくない。

 行く先々で、若宮の非常識を嘆く声は聞かれたし、中には、若宮が日嗣の御子であるという事、そのものに対して、不満を持っているような言動をする者もいた。だがこれは、若宮自身の奇行のせいばかりでなく、若宮の実兄である長束の出来の良さが、それに拍車をかけているようだった。

 十年ほど前の政変で、日嗣の御子の座を追われた長束は、今でも遺憾なくその人柄を発揮して、人望を集め続けているらしい。頭脳は明晰であり、温厚でありながらも、いざという時は果敢であるという気質、おまけに背も高く見映えもする美丈夫とあれば、人気が出ない方がおかしいというものだ。

 また長束は、明君と名高かった先の金烏によく似ているのだという。当時を知る古株の高官は、大声では言えないが、四家の言いなりとなっている今上陛下を物足りなく感じているらしく、長束は期待の星であったようだ。

 それなのに、十年前の政変で長束は日嗣の御子の座を下りる事になり、がっかりした者も多かったのだとか。若手だけでなく、高位高官の老翁達からも絶大な支持がある長束に、外界帰りで、なおかつ奇行ばかり目立つポッと出の若宮が敵うはずもない。今では、表立って若宮に味方するのは、若宮の母の実家である西家だけというありさまらしかった。

 まあ、そうでなくてもあの性格だ。さぞかし敵も多いだろう――と考えながら、雪哉は招陽宮へと舞い戻った。

 この時期になると、随分と日も長くなっている。若宮が戻って来るのはほとんど陽が暮れてからだから、傾きかけた太陽の下、雪哉は余裕を持って仕事を終えられるはずであった。

 書簡を入れた包みを鷲摑みにしたまま、鳥形で悠々と招陽宮の庭に降り立った雪哉は、しかしそこで、恐い顔で仁王立ちする若宮を見つけて仰天した。

「殿下! 随分と早いお戻りですね」

「お前は遅い。待ちくたびれたぞ」

 慌てて転身した雪哉の首根っ子を摑むと、若宮はそのまま、大股でずんずんと歩きだした。

「ちょっと、何事ですか」

 ほとんど引きずられるようにされながら、雪哉は抗議の声を上げた。

 幸か不幸か、さんざん無茶な要求をされた半月のうちに、若宮に対する遠慮はほとんどなくなっている。自分で歩けます、と邪険に言って手を振り払おうとすれば、若宮もすぐに雪哉を放してくれた。

「一体、どちらに向かっているんです?」

 若宮は、招陽宮の中を突っ切って、どうやら朝廷の方へ向かっているらしい。だが、今まで若宮自ら朝廷の方へ足を運んだ事など、雪哉の知る限り皆無である。

 何かあったらしいと察せられたが、真っ直ぐに前を向いたまま発せられた若宮の言葉に、雪哉は思わず息を飲んだ。

「紫宸殿だ。どうやら父上が、緊急の招集をかけたようだからな」

「紫宸殿――」

 小走りで若宮の背中を追っていた足が、一瞬だけ止まった。

 紫宸殿は、金烏陛下の御所の正殿であると同時に、御所が朝廷と接する、唯一の場でもあった。滅多な事では出入りは許可されないし、許可をもらっても、紫宸殿が開かれること自体が極端に少ない。普段から出入りが許されているのは、四家直系の高官達と、金烏に連なる、宗家の八咫烏だけなのである。

 そこに、躊躇なく飛び込んで行こうという若宮を目の前にして、そう言えばこの人は日嗣の御子だったと、今さらな事を雪哉は思った。

 ちらりとその後ろ姿に目をやれば、漆黒の羽衣に、薄色の単を羽織っただけの恰好である。まるで遊び人のような風体であるが、これが、若宮の常の姿であった。見かけだけでも決して日嗣の御子には見えないが、若宮はその気質も相当変わっていた。

 あれをしろ、これをしろと容赦なく命令する割に、変に偉ぶったところがないのだ。

 あえて雪哉を挑発するような言動をするくせに、雪哉が反抗的な態度をとっても、決して声を荒げたりしない。むしろ、不敬と受け取られても仕方が無い発言をする雪哉を、面白がっている節さえあった。

 おかげで、仕え始めてから今日までのわずかな間に、宗家の若宮に仕えているという実感もありがたみも、雪哉の中からは消え失せていた。若宮本人が気にしないからという理由で、どんどん言葉に容赦がなくなって来ているが、流石に公衆の面前で馴れ馴れしい態度を取るのはまずい。

 気を付けなければと心に留めて歩いていると、いつの間にか二人は橋を越え、朝廷の深部へと入り込んでいた。今まで雪哉が足を踏み入れた事のない場所であり、段々と周囲の雰囲気も変わって来た。

 綺麗に着飾った近衛兵が増え、ただでさえ豪華だった宮中の装飾が、一層洗練され、高級なものへと変化していく。

 そうこうしているうちに、二人は紫宸殿へと到着した。

 紫宸殿と廊下の間には、橘と桜を模して見事な彫刻が施された門扉がある。その前には、奥の紫宸殿を守るように、正装をした兵達がずらりと並んでいた。

 ――正面の扉は、ぴたりと閉ざされている。

「ここからは、入れないみたいですね」

 雪哉の声に、若宮の目がすうっと細められたその時。

 陽気なだみ声が、周囲に響き渡った。

「これはこれは、若宮殿下。少々、来るのが遅かったようですな」

 その男の姿が目に入った瞬間、雪哉は「傲慢が服を着たような男だ」と思った。

 年の頃は、青年と壮年のちょうど中間くらいであろうか。

 不遜な笑みを隠そうともしないご面相は、いかにも凶悪である。笑う口からは牙のような形をした八重歯が覗き、鬼火灯籠の光を受けて黄色く光っている。太い眉の下で、始終燃えるような輝きを放っている目玉はぎょろりと大きく、その顔色はどす黒い。

 まとまりのない蓬髪を適当に引っくくり、緋色の地に、金でおおぶりな車紋が織り込まれた上衣を纏っている。同じ大柄でも、均整のとれた体つきをしている長束と違い、肩幅が広く、丸太のような筋肉のついた手足がやたらと長かった。厚手の錦の上からでも分かる、はちきれそうな肉体いっぱいに、自信が漲っているような気さえする。

 見た者を慄かせるような恐ろしげな容貌でありながら、不思議と目が離せなくなるような迫力があった。

「そなた、南橘のミチチカだな」

 若宮の声を受けて、『ミチチカ』と呼ばれた男は、うっすらと笑みを浮かべた。

「左様。お見知りおき下さっていたようで、光栄でございます。が、私はすでに家を出た身ゆえ、今は南橘の路近ではなく、ただの『路近(ろこん)』と名乗っております」

「何故、そなたがここにいる。兄上の護衛ではなかったのか」

 ぴりぴりとした空気の中、ただひとり、路近だけがやけにのんびりとしていて、余裕のある態度を崩さなかった。

「その長束さまが、この扉の向こうにいらっしゃるからでございます」

 紫宸殿の方を顎でしゃくった路近に、若宮は真顔になった。

「私を止めろと、誰ぞに命令でもされたか」

 若宮の視線を追えば、路近の背後に控えた男の手にある、身の丈ほどもある大太刀に行きついた。本来であれば飾りとしか思えぬような、馬鹿げた大きさの太刀であるが、これを持ち出されたらひとたまりもないだろう。

 よほどの考え無しでもない限り、紫宸殿の前で、しかも若宮相手に刃傷沙汰などあり得ない。それは分かっているのだが、何故だか路近には、それを簡単にやってしまいそうな雰囲気があった。

 だが若宮の言葉を聞いた路近は、腹を抱えて大笑いしたのだった。

「ご冗談を! 私に命令出来る奴などいないし、いるとしても、長束さまはそんな命令をなさりませんよ」

 笑いがおさまらぬうちに「第一、」と路近は言葉を繫げる。

「そんな事をせずとも、もうこの門は閉じられているのだ。いくら貴方さまでも、もうここから先には行けませんでしょう」

 御前会議が始まると、紫宸殿の門は内側から閉ざされ、鍵がかけられてしまう。

 何があっても、外側からこの扉を開く事は不可能だし、会議が終わるまで、この扉が開かれる事はないのである。

 自分が妨害するまでもないと言いたいのだろう。路近はニヤニヤとしながら腕を組んで、高みの見物を決め込んだ。

「紫宸殿に、この私が入れないだと?」

 そんな事はあるまいと、しかしさらりと言い切った若宮は、不安そうに目を見交わす門番の間を抜け、門扉の前へと立った。

「開けよ」

 はっきりとした、若宮の声が響いた瞬間だった。

 間をあけず、すぐさま門扉の向こう側で、大きな鍵が解錠する音がした。

 大きな目をさらに丸くした路近を無視して、若宮がこちらを振り返る。

「さあ、付いて来い」

 その言葉が、自分に向けられたものだと雪哉が理解したのとほぼ同時に、紫宸殿の扉は開かれたのだった。


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