- 2024.04.29
- 読書オンライン
夜の大連と同じ“匂い”がする――大沢在昌が描く「中国」というリアル
富坂 聰
大沢在昌〈魔女〉シリーズの魅力に迫る! #2
出典 : #文春オンライン
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
〈「過去と戦うスーパーヒロイン」矛盾が蔓延する社会で、如何に真贋を見極めるか〉から続く
4月19日に発売される大沢在昌さんの新刊『魔女の後悔』。
売春島を生き抜いた闇のコンサルタント・水原を描く〈魔女〉シリーズの最新刊です。9年ぶりとなる今作では、ある一人の少女との出会いが水原の運命を変えてゆきます。
韓国財政界を揺るがす巨額詐欺事件の主犯を父に持つ少女と、水原を結ぶ暗い糸とは――。
大沢ハードボイルドの真骨頂、ここにありです。
発売を記念して、シリーズ2作目である『魔女の盟約』(文春文庫)に収録されている、文庫解説を全文公開します。(全3回の第2回)
◆◆◆
いよいよ日本社会にも、本格的な銃器犯罪の時代が幕を開けたのか――。
警視庁幹部たちがこう口をそろえた凶悪事件が起きたのは90年代半ばのことだ。わずか10数分間に2人の高校生を含む3人の女性を射殺するという凶悪事件。八王子スーパーナンペイ事件である。
発生から14年。時効――当時はまだ時効撤廃の議論が起きる以前だった――の近づいた事件に一つの有力情報が飛び込んできた。それは中国から日本の公安を通じて刑事にもたらされた。
内容は、「麻薬の密輸に関わったとして中国公安に逮捕され、死刑判決を受けた日本人が、十五年前のナンペイは自分の犯行だとしゃべった」という告白だった。男は、元中国窃盗団の元締めで、司直の手が及ぶ直前に中国に逃れていた指名手配犯だった。側聞した話では、犯人にしか知りえない秘密の暴露も含まれていたという。
中国・大連で味わった「微熱」のような感覚
世田谷一家4人殺人事件や国松長官狙撃事件と並び警視庁痛恨の3大未解決事件に位置づけられるこの事件の有力情報に警視庁は色めきだった。ほどなくメディアも情報をキャッチし、過剰ともいえる反応が誌紙面を賑わしたのだった。
捜査機関やメディアがこの情報に敏感に反応した背景には、中国の暗部に秘められた神秘性が未解決事件という響きと共鳴したからかもしれない。泣き叫んでいた女子高生二人を縛り上げ、向かい合わせで横たえた後、銃口から出る熱で肌が焼けるほどの至近距離から射殺した冷酷さと残忍さ。住宅地のど真ん中で、しかも祭りの最中に起きた事件でありながら、犯人の痕跡がピタリと消えていることなど、中国と結び付けることで妙に得心の行く要素がそこには溢れていたからだ。
マスコミ関係者の間をこの情報が駆け巡った直後、私は中国の大連に飛び、情報の確認のために走り回った。取材対象は主に現地の警察関係者と夜の世界だった。男が出入りしていたバーをはしごするのだが、客だと思って愛想よく応対していた店員やホステスが、記者だと名乗った瞬間に表情を一変させる緊張感は何度味わっても慣れることはできなかった。店内の空気が凍りつき、それまでニコニコしていた店員の目には暗い光が宿り、値踏みをする、指すような視線の中で質問を発する瞬間には、日常生活では意識することのない孤独を感じる。現場が海外であればなおさらだ。
この取材の間中、私はずっと一つの感覚にとらわれ続けていたのを忘れられない。まるで何をしても取れない微熱にずっと冒されているようでもあり、また拭えない胸騒ぎのような感覚でもあったが、生物に固有の匂いのようでもあった。それが脱稿するまでの間、ずっと続いて私の周りを覆っていたのだ。
取材に行ったときと同じ“中国の匂い”
なぜ、こんな話を長々と書いたのだろうか。
実は、『魔女の盟約』を読み始めて間もなく、大連を取材していたときとまったく同じあの不思議な感覚が私の中に戻ってきていたことを意識させられたからだった。ストーリーを追いながら組み立てられる世界が備えているのは、明らかに私が夜の大連を回っている時に感じたものと同じ“匂い”だったのだ。
本書は前作『魔女の笑窪』の続編という設定だが、内容は一転してワールドワイドになる。島一つすべてが売春街という地獄島から抜け出すことに成功した主人公「水原」。だが、島抜けの代償として島の神社を爆破した罪を着た水島は警察とやくざ両方から狙われる身となった。名を変え顔を変えて釜山に潜伏していて水島だったが、そこで再び殺人事件を目撃し大きな陰謀に巻き込まれていく。そしてチャイニーズマフィア、韓国マフィアやそれを追う国際司法組織との攻防のなかで主人公の運命は揺れ続ける……。
2000年を迎えて間もなく、日本における中国人犯罪はピークに達した。それ以降、日本のエンターテイメントのなかに中国人犯罪者が登場する機会はにわかに増えた。だが、そうしたエンターテイメントに出てくる“中国”は、概して日本人が何かしらの非日常性を実現するために利用されるものであって、全体から見ればスパイスに過ぎない場合がほとんどだった。中国という一つの世界観を作品に根付かせているかという意味では、必ずしも成功しているとは言い難い作品がほとんどだったというべきだろう。
しかし、その点『魔女の盟約』からは強烈な中国の“匂い”が漂ってくるのだ。その理由は、一つではないはずだが、まず考えられるのは準主役級ともいえる登場人物として黒龍江省から上海の大学へ出てきた女性を、全編を通じて登場させ、細かく描ききっている点がある。
そしてもう一つは設定の妙ではないだろうか。主人公の「魔女」こと水原(林英美)が女性であること。また彼女と行動を共にする上海人の白理(バイリー)もまた女性――二人とも銃器の扱いには慣れているとはいうものの――であるからだ。ハードボイルドの主人公が女であるという設定は、大沢作品では珍しいことではない。大ヒットシリーズの『天使の牙』の特命刑事アスカなどはその代表だろう。
「国家安全局」というディティール
だが、今回の作品では女性を主人公している効果が、従来の意味とは少し違った意味で発揮されているようにも感じられるのだ。というのも、主人公が女性であることによって、中国を含む国際的な組織のもつ“闇”に対して、暴力で抗うことのむなしさを最初から放棄せざるを得ないためではないだろうか。
暴力の前では無力であるはずの主人公が、いかにさまざまな勢力をさばきながら闇の社会を泳ぎ、最終的に自分の目的をどうやって達成するのか。クライマックスに向けてストーリーを盛り上げてくれている。
この設定に加えて、やはり触れておかなければならないのが、徹底したリサーチによって作品全体に散りばめられているディテールの細かさである。
それも中国を知らない読者をその気にさせる――たいていは専門的な用語を多用する――という程度のこだわりではなく、もっと深い部分での理解が作品から見てとれることだ。例えば作中に出てくる国家安全局だが、上海の安全局と北京の安全局とのライバル関係をうまく展開にすべり込ませているあたりは、「うーむ」と唸らざるを得ない。ここまで本格的に書いてしまうと、実際の安全部から目を付けられかねないのではないか。次回、中国を訪れるときは少し身辺に注意したほうが良いかもしれない。
さらに、中国国内における少数民族の位置付け、なかでも本作で中心的な役割を果たしている朝鮮族の扱いも絶妙だ。
作品の中では、
〈「このあたりは龍柏二村、朝鮮族がたくさん住んでいる。上海市の中心部なのに、開発が遅れているのはそのせいね」
「それは朝鮮族が差別されているってこと?」
「朝鮮族だけじゃないよ。中国はいろいろな少数民族がいる。漢人、満人、ウイグル、チベット、チワン、ミャオ、トン、リ……。全部で五十六民族が暮らしているね。朝鮮族は200万人ほどいる。ただ、多いからあちこちにいて、ひとつの土地にかたまっていない」
「そのぶん差別をうけることも多いってこと?」
「中国政府は差別があるとは決して認めないね」〉
という水原と白理の会話として描かれている。
上海人は去った。いま東京にいるのは……
また韓国に持ち込まれるコピーブランド工場が山東省に集中しているという設定も、現実そのままだ。山東省は韓国と黄海を挟んだ対岸であるため「近い」という理由がその背景となっているからだが、それ以上に重要なのは中国政府の政策だ。
中国は進出してきた韓国企業の韓国人が、東北の朝鮮族と深く結び付くことを警戒していた。彼らは朝鮮語によって簡単にコミュニケーションをとることができ、同胞意識を高めるのではないかと恐れられたからだ。そのため中国政府は、韓国企業の誘致を山東省に集中させ、そこに封じ込めることで管理しようとする政策を採ってきたのだ。
しかし、こうした中国の分断の試みも現実の前には効果はなく、韓国企業はやがて大挙して東北部に進出してしまったのだ。
東北といえば、日本における中国人犯罪もいまや東北部とは切っても切れない関係だ。そうした事情も、本書の中でも正確に描かれている。
〈「上海グループ、今、東京に少ないよ。多いのはほとんど東北ね。吉林や黒竜江省」
「朝鮮族なの」〉
水原が新宿で交わすたったこれだけの会話だが、作者のリアリティーへのこだわりを感じさせる。
21世紀の初めにピークを迎えた中国人犯罪は、日本経済の衰退にともなってあっという間に下火になっていった。もはやチャンスは日本にはなく、中国にこそあると彼らは口をそろえた。目敏い上海人やきめ細かい密航ルートを持つ福建人たちは、日本が落ち目だと見るや変わり身早く方向を転じ、一部はアメリカに向かい、一部は中国に帰っていった。そして彼らの代わりにやって来たのは情報過疎地帯である東北人たちだったのだ。上海人や福建人が日本から抜けた穴を残留孤児グループが埋めたという事情も手伝ったのだろう。残留孤児といえば東北部がほとんどでルートもそこに集中しているからだ。
物語の中では、朝鮮半島、中国の朝鮮族、そして日本の中にある在日勢力という民族を“媒介”した一つの力が徐々に結び付いてゆき、クライマックスへと向かってその全貌を現してくる。
主人公の水原がターゲットとし、結着を望むのは中国朝鮮族の新世代マフィアのボスと殺し屋だ。作品中で、中国人の貧困と犯罪との親和性について言い当てた、白理のこんな一言が心に残った。
〈「コネとお金がなかったら、貧乏人はずっと貧乏人だよ。けれども誰かが気づいた。コネもお金もなくても始められるお金儲けがある。犯罪よ」〉
中国大陸に広がるきしみの音が、この作品からも聞こえてくる。
(2011年1月)
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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