大人気 山口恵以子さん「ゆうれい居酒屋」最新刊刊行記念 シリーズ第一話 無料公開
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
新小岩の南口にある、居酒屋・米屋。カウンター七席の小さな店に今夜も悩みを抱えた客が訪れる。定番のお酒と女将の手料理を口にすれば、いつしか心は軽くなり……。しかし、この店、実は大きな「秘密」があるのです。
「食と酒」小説で大人気の著者による、ちょっと不思議でしみじみ温かい居酒屋物語。シリーズ第一話「イタリアンの憂鬱」を全文無料公開
第一話 イタリアンの憂鬱
ストンと落ちる感覚で、秋穂はハッと目を覚ました。ちゃぶ台に突っ伏したまま、うたた寝をしていたらしい。
顔を上げて柱時計を見上げれば、午後四時を回っている。そろそろ仕込みを始めなくてはならない時間だ。
「ふぁ~あ」
秋穂は両手を上げて大きく伸びをすると、立ち上がった。声には出さないが、心の中では自然に「どっこいしょ」の掛け声がかかる。こんな年寄りじみた言動を自分がするようになるとは、若い頃は想像もしていなかった……。
しょうがないか、もう五十だし。
苦笑いをかみ殺し、茶の間に続く厨房に降り立った。
新小岩駅は総武線の快速停車駅だが、両隣の平井駅と小岩駅に比べると駅ができたのは三十年ほど遅かった。それで、本当は「下総小松駅」という駅名にしたかったのが「小岩の手前の駅」というほどの意味で「新小岩駅」になったという経緯がある。
駅の南側にはルミエール商店街という、かつて日本一の長さを誇ったアーケード商店街がある。各地でシャッター通りとなる商店街が増える中、すべての店が営業しているのは立派と言う他はない。
その周辺の路地にも小さな飲食店が軒を連ねていて、駅に近い場所にはラブホテルも数軒存在する。これは戦後、亀戸で空襲に遭った業者が小岩と新小岩に移転して「赤線」を形成した名残だろう。
つまり新小岩とは、気取らない下町の繁華街であり、ちょっぴりレトロでいかがわしさも残る地域なのだった。
米田秋穂は駅裏の飲食街で「米屋」という居酒屋を開いている。お米屋さんと間違われるから屋号は「よね屋」にしようと言ったのに、夫の正美は「面倒臭いから、これで良いじゃん」と、看板も暖簾も既製品の「米屋」で間に合わせてしまった。もっとも、飲食店の建ち並ぶ真ん中で、米屋と居酒屋を間違える人はいないだろうが。
その正美も、十年前に心筋梗塞で亡くなった。いや、本当は死因が心筋梗塞かどうかは分らない。朝、秋穂が目を覚ましたら、隣で寝ている正美が息をしていなかったのだ。眠っているとしか思えない死顔だった。枕にキチンと頭を乗せたまま、安らかな表情で、苦しんだ様子はみじんもなく、今にも目を開けそうだった。
だから秋穂はすぐに一一九番に電話して「あのう、主人が息をしてないみたいなんですけど」と言ってしまった。後から考えればばかげているが、その時はどうしても正美がすでに死んでいるなどとは信じられなかったのだ。
秋穂は包丁を握る手を止めて後ろを振り返り、厨房の隅に飾ってある正美の写真に目を遣った。
あんたのお陰で、とうとう飲み屋の女将になっちゃったわよ。
写真の正美はどこ吹く風で、のんびり微笑んでいる。釣り用のキャップとベストを身につけて。「釣りバカ日誌」のハマちゃんさながらの釣りマニアだったので、遺影まで釣り船で撮った写真になってしまった……。
壁には釣果の魚拓が何枚も貼ってある。それが古ぼけて殺風景な居酒屋の、唯一の装飾だった。鯛や平目などの大物は、釣り上げたときと魚拓を取るときと二度嬉しいらしく、魚に墨を塗る正美の嬉々とした表情を、今でも昨日のことのように思い出す。
秋穂はお玉を手に、鍋からゴボウと牛モツを一切れすくい、小皿にとって味を見た。煮込みに味が染みれば仕込みは完了だ。
「美味い!」
景気付けに一声上げた。
二十年間注ぎ足してきた煮汁には、充分に下茹でして臭味を抜いた牛モツの旨味がたっぷりと染み出している。その煮汁を吸った牛モツが不味かろうはずがない。しかも、よく煮込んであるので、箸で千切れるくらい柔らかくなっている。お供の大根、人参、ゴボウ、こんにゃくも良い味に仕上がった。
秋穂はモツ鍋をかけたガス台の火を一番細くしてから、カウンターを出てエプロンを外し、洗濯し立ての白い割烹着を身につけた。おしゃれはしないが、清潔だけは心掛けている。
暖簾を表に出し、看板の電源を入れ、戸口にぶら下げた「準備中」の札を裏返して「営業中」に替えた。
米屋は小さな店で、カウンター七席しかない。ざっかけない居酒屋だから高い料理は出していない。それでも何とか食べていけるのは、自宅兼店舗で家賃が発生しないからだ。
いつもなら、六時に店を開ければすぐに常連さんが顔を見せてくれるのだが、この日は一時間経っても一人もお客さんが入らない。「変ねえ。どうしたのかしら」
秋穂は手持ちぶさたでラジオを点けた。有線放送は入れていないので、FMで音楽を聴く。AMはプロ野球のシーズンはみんな野球中継になってしまう。
ラジオから米米CLUBの「浪漫飛行」が流れてきた。続いて、徳永英明の「壊れかけのRadio」、竹内まりやの「シングル・アゲイン」……。
ふと気がつくと耳にチェンバロの曲が飛び込んできた。番組がクラシックに変っている!?
やだ、立ったまま寝てたのかしら?
あわてて時計を見ると、すでに針は十時を回っている。煮込み鍋を覗いたが、ごく弱火にしてあるので煮立ったりしていない。
ホッと胸をなで下ろすと、ガラス戸の向こうに人影が見えた。
「いらっしゃいませ!」
秋穂は素早くラジオを消した。
入ってきたのはまだ若い男の客だった。初めて見る顔だ。米屋の客層は中高年男性が主体なので、珍しい。
「いいですか?」
青年の名は勅使河原仁という。初めての店なので、一度店の中をぐるりと見回してから、やや遠慮がちに尋ねた。
「どうぞ、どうぞ。お好きなお席に」
と言っても七席しかないが。
仁は真ん中を避けて端から二番目の椅子に腰を下ろした。秋穂がおしぼりを差し出すと、受け取って手を拭きながら、壁に貼った品書きの紙を見上げた。すると、どうしても数々の魚拓が目に留まる。
物珍しそうに魚拓を眺める初めての客に、秋穂は予め断りを入れた。
「お客さん、ごめんなさいね。あれは亡くなった主人の趣味で、うち、鮮魚料理とかないんですよ」
仁は改めて秋穂の存在を思い出したように目を戻した。
「ええと、ホッピー下さい」
特にガッカリした声音ではないので、まずはホッとした。
ホッピーは居酒屋の定番だが、登場したのは戦後間もなくで、当時高嶺の花だったビールの代わりに、ビールテイストの炭酸飲料に焼酎を入れて飲むようになったのが始まりだ。低カロリーで低糖質、プリン体ゼロなので、最近は女性にも人気がある。
「はい、どうぞ」
氷と焼酎を入れたジョッキに、ホッピーの瓶を添えて出した。マドラーでかき混ぜない方がホップの風味が際立つ。
冷蔵庫から保存容器を取り出し、中の料理を小皿に取った。
「こちら、お通しになります」
小皿にこんもり盛り付けたのは、セロリと白滝の柚子胡椒炒め。さっと茹でた白滝とセロリを、葉も一緒にゴマ油で炒め、柚子胡椒で味付けしただけの簡単な一品だが……。
仁はひと箸口に入れて、少し意外そうな顔をした。
爽やかな味わいで、白滝とセロリの歯応えの対比が楽しめる。酒にも合うが、鶏肉のソテーの付け合わせにもピッタリだ。何より、三日間は冷蔵庫で保存できるので、作り置き料理として重宝している。
「これ、美味しいですね」
「ありがとうございます。よろしかったら、お代りサービスしますよ」
「……下さい」
仁は小さな声で言った。身長一七二、三センチくらいで、やや細身の体つき。しかし、それ以上に線の細い印象を受ける。色白で、今時の若い者らしく、顔が小さくて小綺麗で、淡泊に整った目鼻立ちをしていた。
秋穂がお通しのお代りを出すと、仁は軽く頭を下げた。
「ここ、お勧めはなんですか?」
「煮込み。美味しいわよ」
秋穂はニコッと笑って付け加えた。
「他はあんまり大したもんはないの。手抜き料理ばっかり。ビートたけしの歌にある〝煮込みしかないくじら屋〟ならぬ居酒屋よ」
仁はつられたように微笑んだ。
「じゃ、煮込み下さい」
「毎度あり」
小鉢に煮込みをよそい、刻みネギを散らす。味付けは酒と味噌と醤油が少々。ニンニクは入れていない。
仁は両手で小鉢を持ち、鼻に近づけると目を閉じて、ゆっくりと匂いを嗅いだ。
「良い匂いですね」
「でしょ? 下茹でして何度も茹でこぼしてあるから、モツの臭味はゼロのはず」
秋穂はカウンターに置いた七味唐辛子を指さした。
「七味はどうぞ、お好みで」
仁は箸を動かして、せっせと煮込みを口に運んだ。
お腹空いてるのかな?
秋穂はちょっと意外に思った。米屋のような居酒屋は二軒目に立ち寄るお客さんが多く、一応前の店でお腹に何か入れてくる。だからつまみも軽いものが主体で、本格的な料理は出していない。
「お客さん、もしかして、お腹空いてます?」
仁は煮込みの汁を飲み干して、小鉢を置いた。
「うん。なんか、段々お腹空いてきた。夕飯、喰ってなかったんだ」
「食べると食欲って刺激されるのよね。鶏肉、好き?」
「……一応」
この頃の若い人って、どうして即答しないのかしら。必ず頭に「一応」とか「別に」とか付けるのよね。
心の声は顔に出さず、秋穂は再び微笑んだ。
「中華はどう? 茹で鶏のネギソース掛けとか」
「下さい!」
仁はこれまでより元気の良い声で答え、ジョッキを空にした。瓶にはまだ半分ホッピーが残っている。
「中身、お代りしましょうか?」
「……中身って?」
「ああ、焼酎のこと」
居酒屋用語ではホッピーを「外」、焼酎を「中」という。
「もらいます」
秋穂はショットグラスにキンミヤ焼酎を注ぎ、カウンターに置いた。仁は焼酎をジョッキに空け、瓶に残ったホッピーを注ぐと、美味そうに一口飲んだ。
秋穂は次の注文に取りかかった。トマトを一個スライスして皿に並べ、茹でておいた鶏モモ肉を一枚冷蔵庫から出し、食べやすい大きさに切った。茹で鶏をトマトの上に載せ、刻みネギを散らしたら、醤油と砂糖、酢、ゴマ油、生姜の絞り汁を混ぜて水で薄め、上からかけて出来上がり。
鶏モモ肉は常時茹でて保存してあるので、これも作り置き料理になるだろう。何しろ一人でやっているので、煮込み以外にはあまり手間暇をかけたくない。それに、注文を受けたらすぐに出せるのも大切だ。お客さんが求めるのは酒の〝当て〟で、じっくり料理を楽しむような店ではないのだから。
「香菜、載せて大丈夫?」
「はい、大好きです」
お客さんの大半は香菜が苦手なので、珍しい返事に嬉しくなった。お客さんに人気の無い香菜を店に置いているのは、秋穂が好物だからだ。
仁はもりもりと茹で鶏を食べ、ホッピーのジョッキを傾けた。
「これも美味いですね。中華の前菜に出てくるやつだ」
「そうそう。茹でただけだけど、たっぷり日本酒入れてるから、しっとりしてるでしょ」
秋穂は調子に乗って自画自賛した。そして仁の旺盛な食欲に感じて、もう一声かけてみた。
「よろしかったら、海老とブロッコリーのガーリック炒めも食べてみます? ビタミンの補給に」
仁は茹で鶏を頬張ったまま頷いた。
秋穂は冷蔵庫を開け、茹でたブロッコリーと海老の入った容器を取り出した。フライパンにオリーブオイルとガーリックの粉末を入れて弱火に掛け、香りが立ったらブロッコリーを入れて香ばしく焼く。そして海老とミニトマトを追加し、塩胡椒で味を調えて、全体に温まったら出来上がり。
湯気の立つ皿を目の前に置くと、仁はまたしても目を閉じて、鼻から大きく空気を吸い込んだ。
「良い香りだなあ。これはイタリアン?」
「それほどのもんじゃないけど、オリーブオイルとミニトマトに免じて、なんちゃってイタリアンってことで」
仁はブロッコリーを口に入れ、改めて店内をぐるりと見回した。魚拓には釣った魚の種類と日付、本人と見届け人の名前が書かれている。
「ご主人、腕の良い釣り師だったんですね」
多少はお世辞もあるだろうが、仁の口調には尊敬が感じられた。
「ありがとう。褒めていただいて本人、草葉の陰で喜んでるわ」
「釣ったあとの魚はどうしてたんですか?」
「食べましたよ。みんなで酒盛りやる分は船宿でさばいてもらって、残りは家に持って帰ってきて、友達呼んで宴会やったりね」
「楽しそうだな。『釣りバカ日誌』みたい」
「そうそう、あんな感じ」
秋穂の脳裏にその頃の想い出が甦る。刺身は正美の担当、揚げ物とアラ汁を作るのは秋穂の担当だった。大仕事だが楽しかった。若かったせいだろう。あの頃はまだ、夫婦とも二十代だった……。
「良いなあ」
仁がふっと溜息を漏らした。その表情は妙に寂しげだ。
「あら、お客さんも釣り、やれば良いじゃない」
「ダメなんだ。乗り物酔いするから」
「そんなら、船に乗らない釣りもありますよ。渓流釣りとかフライフィッシングとか」
「詳しいんですね」
「門前の小僧。主人が好きだったから」
ふと見れば、ホッピーのジョッキは空になっている。
「お客さん、次のお酒、どうしましょう?」
「そうだな……」
仁はカウンターに置かれたメニューを手に取り、裏返した。表が一品料理、裏がアルコール類の品書きになっている。
内容はいたって貧弱だ。まずはホッピーとビールだが、ビールはサッポロの瓶ビールだけで、生ビールは管理が面倒なので置いていない。チューハイはプレーンとレモンとウーロン茶の三種類。そしてサントリーの角ハイボール、日本酒は黄桜本醸造の一合徳利と二合徳利のみ。ソフトドリンクの注文が来ることはまずないが、一応念のためにコーラとウーロン茶は置いてある。
「日本酒にしようかな」
「お燗します?」
「うん。ぬる燗で、一合ね」
秋穂は一合枡に黄桜を注いで徳利に移した。ついでに自分用の徳利にも黄桜を注ぎ、二本並べて薬罐の湯に入れて燗を付けた。
「はい、どうぞ」
カウンター越しに徳利を差し出し、仁の猪口に最初の一杯をお酌してから、手酌で自分の猪口にも注いだ。
「シメに何か召し上がる?」
「うん……」
猪口を片手に、仁はもう一度メニューに目を落とした。ご飯ものはおにぎりとお茶漬けが載っている。
「良かったら、今日は混ぜ麺も出来ますよ」
「エスニック?」
「さあ、どうなのかしら。友達が教えてくれたの、黒オリーブと高菜のタレ」
秋穂は冷蔵庫からガラス容器を取り、カウンターに置いた。
「黒オリーブと高菜?」
仁は不思議そうに容器に顔を近づけた。
「匂い嗅いでも良いですか?」
「どうぞ、どうぞ」
仁は蓋を取って鼻の穴を膨らませ、黒っぽいタレの匂いを吸い込んだ。高菜の発酵臭とディルの爽やかな香り、そこに生姜の香りも混ざり、微かにナンプラーの気配も感じられる。
「最初に材料聞いたときは突拍子もない組み合わせだと思ったけど、食べてみたら意外と合うのよ。白いご飯にかけても美味しいけど、茹でた中華麺と和えると、これまた美味しいのよね。もったりした感じで麺と一体感があって」
「じゃあ、せっかくだから混ぜ麺で」
仁は容器をカウンターに返し、猪口を口に運んだ。
「ここ、良い店だね」
「ありがとうございます。お客さん、優しいですね。あり合わせの手抜き料理ばっかりなのに、いっぱい褒めてくだすって」
仁はムキになったように、大きく首を振った。
「そんなことないよ。俺、イタリアンの厨房で働いてるんだけど、ここ、すごく良いと思うよ。気取ってなくて、これ見よがしなとこもなくてさ。『どんなもんだい、俺の才能は!』って料理人のどや顔が見え隠れするみたいな店に行くと、疲れちゃうよ」
「うちとお客さんの行くような店はレベルが違うわよ。こっちは完全な素人料理で、私も料理の勉強なんかしたことないし」
そこまで言って、秋穂は少ししんみりした気持ちになった。
「でもね、主人が生きてる頃は、もっとちゃんとした料理を出してたのよ。釣ってきたばかりの活きの良い魚をさばいて、じゃんじゃん出してたから」
壁に貼った石鯛の魚拓を指さした。
「あの人、釣りも好きだったけど魚も好きだったのよね。川魚より海の魚の方が美味いって、渓流釣りはほとんどやらなかったわ。フライフィッシングはスポーツだからって、全然」
猪口に残った酒を飲み干し、先を続ける。
「主人は魚を下ろすのが上手くてね。鯛でもカワハギでもオコゼでも、なんでもござれ。中骨は唐揚げにしたり、煮付けにしたり、アラ汁にしたり。卵も白子も内臓も無駄にしないで、塩辛作ったりしてたのよ。この店始めたのも、釣ってきた魚を無駄にしたくない、みんなにご馳走したいって、それが動機なの」
秋穂は遠くを見る目になった。魚拓を通して、正美の顔がほの見える気がする。
「うちの主人見てて思ったわ。料理人って、美味しいものを食べるのが好きで、人に食べさせるのも好きなんだって」
「うん、絶対にそう」
大きく頷いた仁に、秋穂はますます親しみを感じた。
「お客さんにも主人が生きてる頃に来て欲しかったな。そしたら、魚だけは活きの良いのを食べさせて上げられたのに」
「でも、女将さんの料理もイケてるよ。何より待たせないでさっと出てくるのが良いな」
「待たせるような料理じゃないもの」
「そこが良いんだよ。ザ・居酒屋って感じで」
鍋の湯が沸騰したので、秋穂は中華麺をほぐして入れた。茹で時間はおよそ二分半だ。
「すぐ出来ますからね」
茹で上がった麺をザルに取り、水気を切ってから皿に盛って黒オリーブと高菜のタレをかけると、両手に菜箸を持って二刀流で素早く和えた。
「はい、どうぞ」
目の前に置かれた皿から立ち上る湯気を、仁は思い切り吸い込んだ。台湾のようでありエスニックのようでもある、複雑で食欲をそそる香りが鼻腔をくすぐった。
箸で麺をすくい、火傷しないように注意してすすり込むと、香りは豊かに膨らんで喉から鼻に抜けた。高菜の塩気とオリーブのコクにディルの爽やかさと生姜のスパイシーさが混ざり合い、麺と渾然一体となって旨さを押し上げている。
「これ、うまい!」
仁は夢中で麺を口に運び、またたく間にあらかた食べてしまった。その様子に秋穂はまたしても頬が緩んだ。
「お水、どうぞ」
仁は口の周りをおしぼりで拭くと、コップの水を飲み干した。
「今までこんなの、食べたことない。すごいタレだね」
「あら、嬉しい。今度友達に会ったら言っとくわ」
仁はもう一度店の中を見回した。
「ねえ、女将さんは魚の料理はやらないの?」
「私、魚下ろせないのよ」
「店の人に頼めばやってくれるよ。それに、刺身や冊で買って来るのもありだし」
秋穂は気乗りのしない声で答えた。
「うちで海鮮料理食べようってお客さんもいないしね。それに、ただ買って来たもの出すだけって、ちょっと抵抗あるわ」
「そこは一手間だよ」
仁は空になった混ぜ麺の皿を指さした。
「例えばこのタレ、刺身にかければ立派な一品料理になるよ。題してエスニック風カルパッチョ。生姜が入ってるから、生姜で食べる鰺とは相性が良いし、鯛や平目みたいな白身とも合うな。ブリやカンパチみたいな脂の乗った魚もイケると思うよ」
「……カルパッチョ」
秋穂は頭の中で、色々な刺身の上に黒オリーブと高菜のタレをかけてみた。言われてみれば、どれも美味しそうだ。
すると、釣ってきた魚をさばく正美の姿が目に浮かんだ。
「鰺と言えば、昔はタタキとフライが名物だったのよ。釣ってきた鰺をさばいてフライにしたのは、冷凍とは完全に別物よね。身がふっくらして、脂が乗って、旨味が濃くて……。タタキも懐かしいわ。正統派も人気だったけど、味噌入れてなめろう風にしたり、茗荷を刻んで梅肉とゴマ油で和えてみたり、アレンジレシピも好評だったのよね」
「それ、またお店で出せば良いじゃない」
秋穂は気弱に目を逸らした。
「無理、無理。釣ってきたばかりの魚とスーパーで買ってきた魚じゃ、まるで違うもの」
「女将さん、この店で海鮮注文するお客さんはいないって言ってたじゃない。海鮮じゃなくて、魚を使った手軽な一品料理をメニューに加えるんだよ。レパートリーが増えればお客さんだって喜ぶと思うよ」
仁はわずかに身を乗り出した。
「さっき女将さんの言った鰺のタタキのアレンジレシピは、そのまま使えるよ。スーパーで買ってきた刺身だって、そうやって一手間加えれば、美味しい酒の肴に変身する」
秋穂は改めて仁の顔を見直した。イタリア料理の厨房で働いているというこの若者は、本気でそう思っているのだろうか?
「鰺は洋風にタルタルにしても美味いよ」
「タルタル?」
「タタキの親戚みたいなもん。鰺の刺身を一センチ角に切って、塩胡椒をしっかりふって、レモンを絞ってかけておく。赤玉ネギとキュウリ、黄色のパプリカを五ミリ角に切ったら、軽く刻んだケッパーと一緒に鰺と野菜をすべてボウルで混ぜて、塩胡椒、レモン汁、オリーブ油で味付けして、仕上げにミントの葉を混ぜて出来上がり」
秋穂の頭の中にはおぼろげながらも洋風タタキのイメージが出来上がった。
「タサン志麻って人のレシピだけど、この店で出しても受けると思うよ。タタキが作れる人ならすぐ出来るから。パンに載せて食べても美味いよ」
「ケッパーって、スモークサーモンの上に載ってる緑の粒?」
「うん。軽く刻んで加えると魚の生臭みを消して、味のアクセントになる優れものだよ。ケッパーがなかったら生姜の酢漬け、ラッキョウ、ピクルスみたいな、酸味と塩分が効いてるもんで代用できるよ。ミントの葉っぱも、万能ネギや香菜で代用できるし、和風にしたければ茗荷や大葉を入れるのもあり」
タルタルの作り方を説明する仁の目は生き生きと輝いていた。
「美味しそうねえ」
「騙されたと思って一回挑戦してみてよ。絶対に美味いから」
「明日、鰺買ってこようかしら」
秋穂はいつの間にか仁の熱意に引っ張られ、チャレンジ精神が頭をもたげてきた。
「ホントに?」
「うん。なんか、やる気出てきた」
「じゃあ俺、明日また来るよ。責任上」
「あらあ、ありがとう。待ってます」
口ではそう言いながら、頭の中では「またとお化けは出ない」という居酒屋の常識を思っていた。しかし、それとは別に、仁に対する好意と尊敬の念は大きくなっていた。
「それにしてもお客さん、若いのに大したもんだわ。さすがにちゃんと料理の勉強してる人は違うわね。あっという間に新しいメニュー、いくつも考えて」
「それほどのもんじゃないよ」
仁は謙遜したが、決して悪い気はしなかった。秋穂の態度が真摯で、決して口先だけでお世辞を言っているのではないことが分ったからだ。
「お客さんみたいな先生がいたら、世の奥さん達はきっとすごく助かると思うわ」
秋穂は自分の猪口に酒を注ごうとしたが、すでに空っぽで滴が垂れただけだった。
「お客さん、お礼に奢るから、もう少し飲みません?」
「良いよ。俺も飲みたかったから、一緒に飲もう」
仁の高揚した気分が伝わってきて、秋穂も嬉しかった。
「すみません。遠慮なくご馳走になります」
秋穂は徳利に酒を注ぎ足した。
「世の中の奥さん達、毎日大変なんですよ。栄養のことも財布のことも考えて、冷蔵庫の中身と特売のチラシ見比べて献立考えるのって、しんどいんです。私もこの商売始める前は、お勤めしながら主婦やってたから……」
薬罐の湯の中にそっと徳利を沈めた。
「お客さんみたいな知合いがいて、相談に乗ってくれたら、みんな大助かりよ。材料を無駄にしたり、献立がマンネリになったりってこともなくなるし」
仁は何かを思い出すように首をひねった。
「うちのお袋も苦労してたのかなあ」
「そりゃあ、してましたよ、きっと」
秋穂は薬罐から徳利を持ち上げ、タオルで水滴を拭いた。
「お客さんが家に帰ったとき、あれこれアドバイスして上げたら、きっとお母さん、喜びますよ」
「お袋、亡くなったんだ。俺が高校生の時」
「ごめんなさいね、余計なこと言って」
秋穂は頭を下げたが、仁は首を振った。
「気にしないで。余計なこと言ったのは俺の方だから」
そして、感慨を込めて先を続けた。
「俺、女将さんの言ってること、良く分る。新入りはみんなの賄い作るのも役目でさ。入店して四年間、新人が入ってくるまでずっと、仕込みの残り物かき集めて作ってた。高いもんは使えないし、毎日目先も変えなきゃいけないし、ホント、大変だった。きっと世の中の奥さん達もみんな、同じ苦労してるんだろうね」
しかし仁の口調は愚痴っぽくはなく、むしろ楽しげだった。
「俺の賄い、結構評判良かったんだよ。残り物で工夫しながらメニュー考えるのも楽しかった」
「お客さん、幸せね」
「え?」
「だって料理が好きで、料理に向いてるもの。好きなことが自分に向いてるっていうのも運が良いし、おまけに好きなことを仕事に出来るんだから、超の付く幸せ者よ」
仁は不意打ちを食らったように戸惑いを露わにした。もしかしたら、今まで自分が運が良いなどと考えたことはなかったのかも知れない。仁は何かを振り払うように頭を振った。
「俺、才能ないんだ」
その表情は戸惑いから苦悶へと変っていた。
「何言い出すの? 料理の学校出て、イタリアンのお店で何年も働いてるんでしょ。賄いの評判良かったんでしょ。才能ないわけないじゃない」
「俺の親父は天才で、俺の周りにいる先輩はみんなすごい才能の持ち主ばっかなんだ。それなのに、店の跡継ぎは俺になる。親父の息子だから。先輩達が俺を見てどんな気がするか、痛いほど分るんだ。才能もないクセに、親の七光りで大事な店を譲ってもらえるなんて、不公平も良いところだ。こんなクソの役にも立たないバカ息子、豆腐の角に頭ぶつけて死んじまえば良いのに……って」
「それは言いすぎじゃない?」
「多少は盛ったけど、でも、それに近いことはみんな思ってるよ。俺だって先輩達の立場だったらそう思うし」
秋穂はかけるべき言葉が見つからなかった。プロの料理人ではない上に、どうやら仁の働いているレストランは超一流で、おまけに父親がオーナーシェフだという。
「先輩達に意地悪されてるの?」
「全然」
仁はきっぱりと首を振った。
「みんなプロだから……正直言って、俺なんか眼中にないさ。でも、苦々しく思ってるのはビンビン伝わってくる」
「あのう、でも、麻婆豆腐で有名な陳建民さんの店……四川飯店だっけ? あそこは息子の陳建一さんが二代目よね」
「陳建一さんは中華の鉄人だよ。すごい料理人だもん。誰も文句言わないよ」
一瞬、料理人と〝鉄人〟の組み合わせに違和感を覚えたが、それには触れずに秋穂は考えを巡らせた。
「ああ、そう言えば長く続いている料亭なんかは、オーナーシェフは少ないわね。経営は親から子へ受け継いで、板前さんは次々替るのよね」
「俺はレストランを経営したいんじゃない。お客さんのために料理を作りたいんだ」
「無責任を承知で言うけど、お父さんの店は先輩の誰かに譲って、あなたは独立して別の店を持ったらダメなの?」
仁の眉間に悩ましげなシワが寄った。
「俺もそう思う。俺が継いだら、親父の築いた名声に泥を塗るかも知れない。親父も頭では分ってる。ただ、親父は俺を溺愛してるんだよ」
「それは……幸せなことじゃないの?」
「親父が『リストランテ・リッコ』のオーナーシェフじゃなければね」
リッコとはイタリア語で豊かさの意味だという。
「すごい人気のある店なのね」
「超人気店だよ。予約が取れないので有名。ミシュランガイド東京版が発売されて以来、十三年間にわたって二つ星を獲得してる。イタリアンで二つ星取ってる店は東京で三軒しかないんだ」
秋穂はまたしても頭の中で「ミシュランガイドに東京版って、あったかしら?」と考えたが、口に出さなかった。
「親父はラブラブだった最初の奥さんと結婚して三年で死に別れて、すごいショックでトラウマになって、五十近くになるまで独身を通してた。そしたら三十歳年下のお袋と出会ってラブラブで結婚して、俺が生まれたわけ。だから息子と言うより孫だよね。そのお袋も結婚して十七年で亡くなって、残された家族は俺だけになった。愛情を注げる対象が俺しかいなくなったんだ。だから自分のすべてを、リストランテ・リッコを俺に譲りたい。俺に店を継ぐ力量が無いのは、理性では分ってるけど、感情が抑えられないんだよ」
仁はそこまで一気に話すと、長い溜息を吐いた。
「親父は今年八十になった。もし俺が店を出て行ったら、ショックで倒れるかも知れない。そう思うと、俺も独立なんて言い出せなくて……」
仁は猪口に残っていた酒を飲み干した。
「それは、大変ねえ」
秋穂は仁と父親の気持ちを慮って、釣られて溜息を吐いた。
「普通、お父さんみたいなすごい料理人は、自分にも他人にも厳しくて『獅子は我が子を千尋の谷に蹴落とす』式のスパルタに走ると思ってたけど、例外もあるのね」
「そうそう。千尋の谷の逆バージョン」
仁は情けなさそうに顔をしかめた。
「悪いことに、親父、弟子達にはスパルタだったんだよ。ゲソパン(蹴り)入れたり鍋投げつけたりはしょっちゅうだったって。それが、息子だけには甘いんだから、みんな、頭にくるよね」
「そうねえ。私だったら頭にきて辞めちゃうかも」
「うん。実際、今までに三人辞めたよ。残ってる先輩は、うちで働いてた経歴が売りになるから、潮時が来るまで待ってるんだと思う。親父が引退した途端に、みんな辞める気かも知れない」
秋穂は仁が気の毒になった。恵まれた環境に生まれたのに、それが却って重荷になって本人を圧迫している。料理人としての喜びを奪おうとしている。
「お客さん、急に話は変るけど、どうして新小岩にいらしたの? お店もお住まいも都心でしょ?」
秋穂のイメージでは、人気のイタリアンレストランは銀座か六本木か麻布にある。その店のオーナーの息子が葛飾区に土地勘があるとは思えなかった。
「三年前に引退したサービス係の人を訪ねてきたんだ。鈴木さんって、親父が店を始めたときからずっと支えてくれた人で、俺も可愛がってもらった。Jリーグの試合に連れてってもらって……」
秋穂はまたしても「Jリーグって何?」と訊こうとして思い止まった。
「最近色々ありすぎて気が滅入っちゃってさ。そしたら、鈴木さんに会いたくなって。鈴木さんなら俺の悩みを聞いて、何か良いアドバイスをくれるかも知れない。それでスマホに電話したら、この番号は現在使われていませんって案内が流れて、マンションに電話しても同じで、びっくりして訪ねたら住んでる人も替ってて、管理人さんに訊いたら、一昨年老人介護施設に入居したって……」
その施設は新小岩駅から徒歩十五分の所にあった。
「そこを訪ねて面会したんだ。そしたら鈴木さん、別人みたいになってて、俺のことも全然覚えてなくて、なんかもう、ショックでさ」
仁は哀しげに目を伏せた。
「しばらく施設にいて、それからずっと歩き回ってた。何だか家に帰る気がしなくて。それで、いつの間にかこの店の前に立ってた。不思議だよね。俺、新小岩に来たの生まれて初めてなのに、この店に入って、店には女将さんがいて。鈴木さんに聞いてもらいたかった話、全部しちゃったよ」
最後は少し照れくさそうに微笑んだ。
「そう。そんなら良かった。少しはお客さんの役に立てたみたいで」
秋穂は考える力を総動員して、仁を力づける言葉を探した。
「あのねえ、親の一番の望みは、子供が幸せになってくれることだと思うの。お父さんはあなたの一番の幸せは店を継ぐことだと思ってる。でも、あなたの幸せは別にある。それが分れば、お父さんもあなたが店を継がないことを納得してくれるんじゃないかしら」
秋穂は子供がいないが、愛する人の幸せを望む心は、親でも子でも夫婦でも、あまり違わないのではないだろうか。
「お父さんと、じっくり話し合った方が良いわよ。あなたの気持ちが分れば、納得してくれると思うわ」
仁は「そんなこと無理だよ」と言いたげに目を逸らした。
「どんなことがあっても、料理を嫌いにならないでね」
「え?」
「あなたは料理人に向いてる。才能がある。お父さんとか店とか先輩とか、料理以外の理由で料理を嫌いにならないでね。絶対にもったいないから。あなたの料理で幸せになるはずの人、みんなガッカリするから」
「ありがとう、女将さん」
仁は素直に頷いた。
「明日、鰺のタルタル食べに来るよ」
「待ってますよ」
仁は「お勘定して下さい」と言い、秋穂はカウンターに勘定書きを載せた。
「ご馳走さまでした」
店を出て行く仁の背中に、秋穂は丁寧にお辞儀をした。
仁の父は勅使河原寛というイタリアンの名シェフで、三十二歳で独立してオープンした「リストランテ・リッコ」はミシュランガイド東京版発売以来、十三年連続で二つ星を維持している。過去には「料理の鉄人」に出場して道場六三郎と好勝負を繰り広げたこともある。
寛の下で修業して独立した料理人の中には、ミシュランの星を獲得した者が三人もいる。かつて料理人の世界は徒弟制度だったから、弟子達もパワハラの洗礼を受けた。しかし、自分の店を持つようになった彼らと寛の関係は悪くない。
寛は今年、八十歳になった。さすがに体力の衰えは否めない。数年前からスーシェフ(副料理長)に店を任せる日が多くなった。近頃は真剣に引退を考えている。だが、自分が引退したら心血を注いで築き上げた店〝リストランテ・リッコ〟がどうなるのかと思うと、暗澹たる気持ちになってしまう。
出来ることなら一人息子の仁に譲りたい。今はまだ力量不足だが、将来はもっと腕を上げるはずだ。それまでスーシェフの岡崎が支えてくれたら、評判を落とすことなく代替わりが達成できるのだが、あの野心家でプライドの高い岡崎が未熟な仁の下で働いてくれるとは思えない。きっと店を辞めて独立するだろう。そうなったらリストランテ・リッコは……。
それでもたった一人の息子を差し置いて、赤の他人に店を譲りたくはない。ミシュラン二つ星店という強力な後ろ盾を失ったら、仁はきっと注目されることもなく、平凡な料理人として一生を終わってしまうに違いない。
それは出来ない。可愛い息子にそんな思いはさせられない。苦労して築き上げた地位を息子に受け継がせたいと思うのは、親として当たり前だ。何としても……。
「ただいま」
仁の声でハッと我に返った。考え事をしている間に居眠りしていたようだ。寛はずり落ちそうになっていた尻を引き上げ、ソファに座り直した。
ソファの横を通って、仁がキッチンへ歩いて行く。
「水を一杯くれ」
「はい」
仁は冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのボトルを出すと、グラス二つに注いでリビングへ持っていった。父はいつの頃からか、日没後はコーヒー・紅茶・日本茶など、カフェインのある飲料は摂らなくなった。夜、眠れないという。
向かいのソファに腰を下ろすと、仁は報告した。
「今日、鈴木さんに会ってきた」
「元気だったか?」
仁は暗い顔で首を振った。
「施設に入ってた。認知症だって。俺のことも分らなくなってた」
寛は愕然として頬を強張らせた。何か言おうと口を開きかけたが、言葉が出てこないようだった。
盟友だったのだから無理もないと、仁は父の様子に痛ましさを感じていた。
「それで、リッコのことだけど、俺は継がないから」
「突然、何を言い出すんだ?」
「突然じゃないよ。前からずっと考えてたんだ。パパだって、俺がリッコのシェフになるのは無理だって、本当は分ってたんでしょ?」
「そんなことはない」
寛は即座に否定したが、その声音は弱々しかった。
「俺がシェフになったら、ミシュランの星なんか全部なくなるよ」
「お前が継がないで、誰がリッコを継ぐんだ?」
「岡崎さんで良いじゃない。今だって立派にパパの代理を務めてる。岡崎さんならこの先、二つ星を守ってくれるよ」
寛は息子を説得する言葉を探したが、それは見つからず、虚しく唇を震わせた。
「パパ、リッコの跡継ぎじゃなくなっても、俺はパパの息子だよ。パパが大好きだし、今まで大事に育ててもらって、感謝してるよ。本当にありがたいと思ってる。だけど、リッコを継ぐことは俺の望んでることじゃないんだ。リッコを継ぐのは俺には重荷で、苦しいだけなんだ」
日本の多くの父と息子と同じく、寛と仁もこれまで腹を割って互いの胸の裡を話し合ったことはなかった。思っても口に出さずにいた。だから息子の素直な言葉は、父の心を直撃した。寛は肩を落として項垂れた。
仁は目の前の父が一回り小さくなってしまったように見えて、胸が痛んだ。
「ごめんね、パパ。でも、本当のことなんだ」
寛はやっと顔を上げて、力のない声で尋ねた。
「それで、お前の望みは何だ?」
「俺、店を辞めて、出張料理をやろうと思う」
「出張料理?」
「うん。『伝説の家政婦』って、テレビで観たことない? タサン志麻って料理人が予約を受けた家庭を訪問して、三時間で作り置きできる料理を十種類以上作るの。俺、あれをやりたい」
寛は半ば驚き、半ば呆れてまじまじと息子の顔を見た。
「今日、突然思い出したんだ。俺、似たようなことやったことがある」
「お前は出張料理なんか経験無いはずだ」
「うん。でも、鈴木さんが退職してすぐ、マンションに遊びに行ったとき『賄いがなくなったからご飯が面倒で』って言うんで、冷蔵庫の中の物で何種類か料理作ってあげたんだよ。鈴木さん、すごく喜んで『よくまあ、これだけの料理を考えられるね。さすがシェフの息子さんだ』って褒めてくれた」
その時の嬉しさと誇らしさの記憶が、今夜、突然に甦った。あの居酒屋で女将さんと話をしたせいだろうか。
「俺のやりたい料理って、そういう方向なんだ。普通の家庭で、普通に美味しいもの作って、普通に喜んでもらう……」
寛が哀しげに目を瞬いたので、仁はあわてて付け加えた。
「リッコで出す料理が嫌いって意味じゃないよ。パパの作る料理はすごいよ。芸術品だと思う。だけど、芸術品じゃなくて、日用雑貨みたいな料理があっても良いと思うんだ。それでどっちを作るか、自分で選びたい」
「……日用雑貨。それがお前の選択か」
「うん」
仁の声は熱を帯びた。
「俺、料理が好きだ。これから先も料理を仕事にして生きて行きたい。ずっと料理が好きでいたい。でも、このまま芸術品を目指して作り続けたら、料理が嫌いになるような気がする。俺はそれが怖いんだ」
父の顔を見返す視線にも力がこもった。
「俺は自分の選んだ道で料理と向き合うよ。もしかしたら、いつかもう一度芸術に挑戦したいと思う日が来るかも知れない。そうしたら迷わずリストランテ・リッコの扉を叩くよ。リッコで修業させてもらう」
寛は息子の顔を見つめ、その言葉を頭の中で反芻した。急に思い付いたわけではなく、時間をかけて熟成され、形を成した考えのように思えた。その顔を見れば決意が固いのが分る。これほど決然とした顔の息子は見たことがなかった。
「……分った」
絞り出すような声で答えた。
「明日、店で岡崎に話そう」
「ありがとう、パパ」
仁は目頭が熱くなった。
「これまでパパが教えてくれたこと、リッコで勉強したこと、全部俺の財産だよ。絶対に無駄にしない。きちんと活かして使わせてもらうよ」
寛は黙って深く頷いた。寂しくはあったが、胸にストンと落ちるような納得があった。息子の目が潤んでいるのを見て胸を打たれた。
これで良かったのだと、自分の心に言い聞かせた。すると、安堵の気持ちが湧いてきた。両肩が軽くなった。何故だろうと考えて、今、息子が独り立ちしたことに気がついた。
「……なあんだ」
寛は思わず苦笑した。仁が怪訝そうにこちらを見た。
「どうしたの?」
「別に、何でもない」
寛は柔らかな微笑を浮かべた。今度は息子に向かって。
昨夜の居酒屋はなかなか見つからなかった。初めての街で、夜だったし、道順もうろ覚えだったから、探し出せるかどうか心許ない。しかし、アーケードの商店街の途中で右に曲がって、もう一度左へ曲がった路地沿いにあったのは確かで、迷うほど複雑な地形ではないはずだった。
駅を降りてからもう三十分も歩き回っている。
「何故見つからないんだろう?」
仁は独りごちて周囲を見回した。焼き鳥屋とレトロなスナックの看板には見覚えがあった。その二軒に挟まれて「米屋」があったはずなのに、今目の前にあるのは、すでにシャッターを下ろした「さくら整骨院」だった。
「変だなあ」
仁は思い切って、焼き鳥屋の戸を開けた。
「いらっしゃい!」
店はカウンター七席とテーブル席二つ、初老の夫婦がカウンターの中にいて、客は四人、みんなカウンターに腰掛けていた。女性客も一人いる。その四人が一斉に仁を振り返ったので、ちょっぴりたじろいだ。きっと、ご常連さん以外は滅多に訪れない店なのだろう。
「お一人さんですか? カウンターにどうぞ」
女将さんが空いている席を指し示した。主人の方は黙々と焼き鳥を焼いている。夫婦とも七十くらいだろうか。四人の先客も七十から八十という見当だった。
「あのう、すみません、ちょっとお尋ねします。米屋という居酒屋をご存じありませんか?」
その瞬間、主人夫婦と四人の客が、ハッと息を呑むのが分った。
「……昨日来たときは、お隣にあったような気がしたんですけど」
六人の視線が突き刺さり、仁は後ずさりしそうになった。
「昨日って、どういうこと?」
女将さんが厳しい顔つきで訊いた。まるで不審尋問のように。
「昨日、米屋に行ったんです。その時、女将さんに今日も来るからって約束したんで、今、店を探してるとこなんですけど」
主人夫婦も、客達も、まるであり得ないことを聞かされたように目を見張り、顔を見合わせた。女将さんの目は明らかに怯えていた。
「それは、本当のことですか?」
今度は主人が尋ねた。
「なんでウソ吐く必要があるんですか?」
仁はわけが分らず、いささかムッとした。
「行きましたよ。カウンターだけの店で、壁にいっぱい魚拓が貼ってあって、ガス台に煮込みの鍋がかかってて。女将さんは五十くらいの、愛想の良い親切な人でした。小柄で丸顔で髪がショートで、白い割烹着を着て……」
その途端、八十近いと思われる女性客が、両手で顔を覆った。左隣にいた顎髭を生やした客が、あわてて肩に手をやった。慰めるように軽く叩いている。
「ど、どうしたんですか?」
ますますわけが分らず、混乱して声が上ずった。
「米屋は三十年前になくなったんだよ」
一番年配の客が言った。頭がきれいにはげ上がっている。その頭が青ざめて見えた。
「嘘でしょ。昨日はあったんだから」
「嘘じゃないよ。隣のさくら整骨院、あそこが元の米屋だ」
「ウソッ!」
仁はおぼろげに自分の遭遇した事象の全容を悟り、背筋が寒くなった。
「そ、それじゃ、あの女将さんはゆうれいなんですか?」
「兄さん、まずは座って気を落ち着けて」
一番若い……それでも七十は過ぎている客が、ジャケットの裾を引っ張って、椅子を指さした。いつの間にか膝が震えていた。仁はくずおれる前に、椅子に腰を下ろした。
「お水、どうぞ」
女将さんが水の入ったグラスを差し出した。仁は礼を言って受け取り、一気に飲み干した。少し落ち着きが戻ってきた。
「あの、どういうことか、教えてもらえませんか?」
最初のショックから立ち直った女性客が口を開いた。
「米屋さんはね、元は中学校の教師だったご夫婦が始めた店なの。ここより古いから、五十年くらい前かしらね」
「旦那は米田正美、奥さんは秋穂。米田さんは立派な先生だったよ。それが学校でいじめ事件が起きて生徒が自殺してね。その責任を取って退職したんだ」
顎髭を生やした客が口を添えた。顎も頭も雪のように白い。
「釣りが趣味でね。それを活かして自宅を改造して店を始めた。だから最初は海鮮居酒屋だったんだよ」
仁は秋穂から聞いた話を思い出して頷いた。
「ところがそれから十年くらいして、米田さんは突然亡くなってしまった。心筋梗塞だったかな。それからは秋ちゃんが一人で店を切り盛りして、まあ、それなりに繁盛してたよ」
今度は店の主人が説明した。
「そうしたらどういう因縁か、やっぱり十年くらいして、奥さんも急に亡くなっちまった。心臓の発作だったらしい。医者の見立てじゃ、所謂突然死で、本人も知らない間に三途の川を渡ったんじゃないかってことだ」
「苦しまなくて何よりだったが、若すぎたよ。米田さんも、秋ちゃんも」
「旦那さんがあの世で寂しがって、迎えに来たんじゃないかって言う奴もいたな。米田さんはそんなケチな了見じゃねえってのに」
「子供もいなかったんで、店は売りに出て、人手に渡った。似たような居酒屋が二、三軒続いて、今のさくら整骨院で五代目くらいかな」
「米屋がなくなって、正確には何年になるかなあ。平成に入って二年目か三年目だったはずなんだが、思い出せない」
客達はそれぞれ思い出すまま口を開いた。
「米田さん夫婦は良い人だったよ、夫婦揃って折り紙付きの」
女性客が仁の方に身を乗り出した。
「お兄さんの言うとおり、秋穂さんは愛想が良くて親切で、明るくてサッパリしてて、本当に好い人でしたよ」
仁は引き込まれるように頷いた。
「秋穂さんのこと、覚えていて下さいね」
「はい」
女性客は目を潤ませた。見れば主人夫婦も先客達もみな、目を潤ませている。
「この年になるとね、あの世とこの世は地続きで、隣町みたいな感じになるの。だから、死んでも全部終わるわけじゃないって思うのよ。自分のことを覚えていてくれる人がいなくなったとき、人は初めて、本当にあの世に行くんだなって」
仁は力を込めて頷いた。
昨日米屋で会った秋穂はゆうれいだったのかも知れない。だが、仁の気持ちを解きほぐし、勇気を与えてくれた。それなら、人間だろうがゆうれいだろうが、どうでも良い。秋穂は仁の友なのだ。
女将さん、どうもありがとう。俺、お陰で新しい道に進めるよ。
仁は心の中でそっと呟き、頭を垂れて手を合せた。