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「精神疾患」を治療する手がかりになる可能性も…日本人が知っておきたい「睡眠医療」の現在地

「精神疾患」を治療する手がかりになる可能性も…日本人が知っておきたい「睡眠医療」の現在地

上田 泰己

『脳は眠りで大進化する』より #2

出典 : #文春オンライン
ジャンル : #ノンフィクション

年間15兆~20兆円の国家的損失…「日本人の睡眠不足」が国家レベルで解決すべき問題なワケ〉から続く

「睡眠のデータは病の状態をのぞくための優れた潜望鏡、あるいは虫眼鏡の役割を果たすでしょう。また、データが集積していくことによって、結果的には重要な事実が判明していくかもしれません」

 統合失調症やうつなど、精神疾患の治療に「睡眠データ」が役立つ理由とは? 「睡眠医療」の現在地を、研究者・上田泰己氏の新刊『脳は眠りで大進化する』(文藝春秋)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)

◆◆◆

ウェアラブルデバイスで正確な測定を

 技術的な困難があった睡眠の測定も、2010年代からは目覚ましく進んでいます。

 従来、正確な睡眠測定には「ポリソムノグラフィー(PSG)」という装置を使っていました。これは体にたくさんのセンサーを装着して就寝、一晩かけてデータを取得する装置です。しかし、これを付けてふだん通りに熟睡するのはなかなかできないものです。

 そこで最近進んでいるのが、ウェアラブルデバイスを使った測定です。腕時計型のウェアラブルデバイスは常時、気軽に身に着けられるメリットがあります。センシング技術やデータ解析技術の向上もあって、個人の健康管理に活用されるようになってきています。「アップルウォッチ」や「フィットビット」などの製品名を聞いたことがあるかと思います。

睡眠測定機能を持つ「アップルウォッチ」©getty

 睡眠測定のデバイス開発は、東京大学でも2015年に始めています。

 睡眠測定に活用できるデバイス開発にあたって問題となるのは、測定の「感度」と「特異度」でした。睡眠測定の場合の感度とは、「真の睡眠を正しく睡眠」と判定できる精度を言います。特異度は、「覚醒状態を正しく覚醒」と判定することができる精度を言います。この感度と特異度を精度よく測定できると、睡眠中の覚醒(中途覚醒)を正しく検知することができて、全体の検知精度が格段にアップします。

 私たちは、製品化されている各種ウェアラブルデバイスでテストしましたが、どれも感度はよくても特異度がよくありません。そこで、睡眠のデータ検出と解析に特化した、「睡眠覚醒判定アルゴリズム」(ACCEL:アクセル)の開発に取りかかりました。

 2020年にはアルゴリズムの開発が進んできたので、先ほど少し触れたイギリスのビッグデータを使って、応用してみることにしました。10万人の睡眠パターンをうまく解析して分類することができるか、やってみたのです。

 すると、非常に長く寝ている人、非常に短く寝ている人、おそらくシフトワーカーの人で一般的な24時間周期とは異なるサイクルを続けている人、夜型の人、不眠症気味の人、極端に睡眠が分断されている人など、16のパターンの睡眠が見えてきました。

 しっかりしたデータがあると、こうした睡眠パターン別の抽出ができることが実証されてきたわけです。こうした技術ができ、応用も見えてきたため、「睡眠健診」をやっていくとよいのではないかというアイデアも出てきました。

 このような研究成果に基づいた「睡眠健診」を提唱する活動を2020年頃から実施することになりました。

 われわれのこの技術に関しては、独占ライセンスを付与して、ACCELStars(アクセルスターズ)社を起業しています。睡眠測定サービスを提供する会社という位置付けです。アクセルスターズ社のウェアラブルデバイス「ACCEL」は、感度97.2パーセント、特異度82.2パーセントと世界最高精度を達成しています。

睡眠医療を充実させるエコシステム

 こうした睡眠健診も含め、私たちは広い視野で「睡眠医療のエコシステム」を構築しようとしています。

「睡眠医療」とは、睡眠時の障害となる疾患を改善する目的の医療で、これは以前から臨床で実施されてきています。睡眠関連の器具や製品なども、だいぶ昔から存在しています。

写真はイメージ ©getty

 しかし、その睡眠医療は各分野間がうまくつながってはおらず、基礎研究から臨床応用までの総合的な連関を持ったものでもありませんでした。また、このような医学の各分野では、基礎研究と臨床の間には「予防」の分野があり、それは「一次予防」(健康増進)、「二次予防」(早期発見)、「三次予防」(重症化予防)と呼ばれるカテゴリーがあるのですが、睡眠医療にはこれまで予防の観点が手薄だったのです。

 睡眠は脳の通常の活動ですから、つぶさに睡眠を見ていくと脳の異常事態を早め早めに察知することができます。年に一度の健康診断のような形式、あるいは健康診断のメニューの一つとして睡眠検査ができると、早期に不調をとらえて適切な対処をし、病気の発症や悪化を防ぐことができます。睡眠医療における予防には、そのような意味合いがあります。

 この予防分野を立ち上げていくことで、睡眠にまつわる生活習慣や生活の環境の改善を含めて睡眠医療のエコシステムができていきます。

 将来はこのエコシステムを活用することで、睡眠健診の概念を社会に浸透させ、睡眠関連の病気の予防と早期発見につなげていくことができるはずです。睡眠が主要因と考えられている病気の解明、これまで想定されていなかった病気への睡眠の影響などの解明にもつながっていくことも考えられます。

睡眠が関係する病気とその実態

 睡眠と実際の病気との関連についても、説明をしておきます。

 睡眠に異常が現れる病気には、実に多様なものがあると考えられます。ただ、睡眠との因果関係がはっきりしないもの、睡眠が関係していると言われているものの、影響の程度が不明なものもあります。

 まずここでは、おおまかな4カテゴリーで、具体的な病名をあげてみます。

・睡眠障害
 睡眠に何らかの問題があって日常生活に影響が出ている状態です。この症状から思わぬ事故につながったり、生活習慣病やうつ病を引き起こしたりするリスクが生じます。

・精神疾患
 脳の働きに変化があって、感情や行動などに顕著な偏りが見られる状態です。統合失調症、難治性のうつ病、双極性障害(躁うつ病)などがあります。

・神経変性疾患
 認知機能障害など、様々な疾患の主症状の原因となる脳機能障害のことです。アルツハイマー型認知症やパーキンソン病などがあります。

・発達障害
 生まれつき見られる脳の働きの違いにより、幼児の頃から行動面や情緒面に特徴が見られる状態です。自閉スペクトラム症、注意欠如・多動症(ADHD)などがあります。

 このうちでも精神疾患の統合失調症や双極性障害では、そのような症状が一度出てしまうと相当に長期間にわたっての治療が必要となります。

睡眠と精神疾患の関係性

 精神疾患には古くから使われている治療薬が複数ありますが、その投薬による治療の効果はわかりづらく、医師にも患者にも満足のいく治療となっていない状況が続いています。発展が求められている領域で数多くの研究がなされているにもかかわらず、状況は大きな変化を見せていません。

 精神疾患では睡眠の異常がほぼ必ず見られ、それぞれに特徴があると言われています。この疾患の場合、睡眠が直接の原因ではないにしても、睡眠と覚醒の状態を確実に観察していくことに問題を打開するきっかけがあるかもしれません。

 その時、睡眠のデータは病の状態をのぞくための優れた潜望鏡、あるいは虫眼鏡の役割を果たすでしょう。また、データが集積していくことによって、結果的には重要な事実が判明していくかもしれません。

 神経変性疾患にカテゴライズされるアルツハイマー型認知症やパーキンソン病でも、近年は鍵となる発見が報告されてきているのですが、臨床ではやはり古くからある薬が主流であって、創薬の動きはあるもののまだまだ発展の余地が大きくありそうです。

 このように、脳が関わる分野の創薬については、医学の道にいる者として私も歯がゆい思いを長らく抱いてきました。脳内で何が起きているのかがわかりさえすれば、もっと研究も創薬も進んでいくはずなのです。

 例えば、私たちの開発した透明化技術「CUBIC」は応用されて、統合失調症やアルツハイマー病の仕組みの探究や治療薬の開発のためにも使われ始めています。これにより、例えば、ヒトの統合失調症を模したモデル動物とそうではない動物の脳を透明にして、統合失調症発症時にどの細胞が活動しているのかを観察できるようになってきました。またアルツハイマー病も同様に、アルツハイマー病を模したモデル動物とそうではない動物の脳を透明にして、どの細胞からどのように病気が進行していくかを観察できるようになってきました。

 これはまだ具体的な成果には結び付いていませんが、観察を積み重ねていけば統合失調症モデルの動物の状態を推量できるようになり、こうした症状を改善する薬を与えた場合にどこに効いてどこに効いていないかがわかっていくでしょう。改善されない症状を治療するためにはどのような薬が必要なのか、それもわかってくるだろうと考えられます。

文春新書
脳は眠りで大進化する
上田泰己

定価:1,078円(税込)発売日:2024年06月20日

電子書籍
脳は眠りで大進化する
上田泰己

発売日:2024年06月20日

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